フラクタル 〜よくある出来事?〜 |
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「これも、いわゆる旅の醍醐味のひとつだと思えばよいのだよな、アンドレ?」 眉間を人差し指と親指で軽く挟みながら、オスカルが自分を納得させるように言った。 「…………少なくとも、旅行のガイドブックには、必ず要注意として載っている事項だな」 並んで階段を下りていたアンドレが答えた。 二人は建物から道路に出た。歩道は、ひしめくように駐車している自動車で占拠されている。間をぬって車道に出る。パリでも路上に車が停めてあるのは珍しくないのだが、この街のどこかうらぶれた感じも手伝って、無秩序さを感じずにはいられなかった。 駅で見舞われたアクシデントも、その印象を強めていたかもしれない。 出て来たばかりの建物を見上げる。マルセイユ中央警察署。二人は事情聴取を終えて出て来たところだった。 TGVをマルセイユ・サン・シャルル駅で下車した二人は、駅前でアンドレが手配していたレンタカーに荷物を積み込むと、グラースに向けて出発しようとしていた。 昼を少し回ったばかりで、グラースまでの高速道路、幹線道路共に渋滞の情報はなかったから、夕方までに到着できると思っていた。 “ミストラルを感じながら” 荷物を積みつつ、アンドレはそう言った。 アルプス山脈からローヌ川が運んでくる北風のことをミストラルという。冷たく乾いたその強風は、ローヌ渓谷から地中海に向かって吹き下りる。 アンドレは冬から早春にかけて吹くこの風を体に受けると、南仏にいることを実感するのだという。 そろそろシーズンは終る頃だが、南仏名物を感じながら、沿岸部をドライブしてグラースまで行こうという計画だったのだ。 「飲み物を買ってくるよ。何がいい?」 ミネラル・ウォーターを、とオスカルが答えると、アンドレは車の中で待つように言ってから雑貨店を探して通りを渡って行った。彼の後ろ姿を見送ったオスカルの目に、駅前のロータリーから伸びる大通り沿いに、ちらほら失業者風の男たちが立ち尽くしたり、座り込んでいる姿が映った。皆、何をするでもなく、虚ろな目をして空を見つめている。 近年の金融危機でフランスの失業率は上昇する一方だ。あの男たちは不況の煽りを受けやすい港湾労働者達かもしれない。 オスカルはふいにどこかで、こんな男達を見たことがあるような気がしてきた。 それは今見ている風景よりもずっと深刻で、多くの人々が飢え、何日も一欠片のパンさえ口にできないような悲惨な状況だった。静かな絶望と、堪えることができなくなった怒りを込めた、いくつもの目が、刺すように彼女を見つめていた……。確かにいつか、どこかで……。 彼女は幻影を振り払うように軽く首を振ると、助手席のドアを開けた。 その瞬間だった。 背後から二人の男がオスカルの元に走り寄った。一人が彼女を後ろから羽交い絞めにした。身動き取れないようにしている間に、もう一人がセカンド・バッグをひったくって、素早く逃げ出す。相棒が逃げ出したのを見て、オスカルを押さえていた男も間髪いれずに走り出そうとする。 彼女が一人になるのを付け狙っていたのだろう。それはほんの一瞬の隙をついた出来事で、かなり手馴れた手際のよさだった。 もし彼女が世間一般の女性で、呆然と立ち尽くすか、叫び声をあげただけだったら、彼らはまんまと逃げおおせたかもしれなかった。 しかし、相手が悪かった。 女性だからと油断していたせいもあったかもしれないが、背後からオスカルを押さえつけていた腕が緩んだとほぼ同時に、肘鉄が暴漢のみぞおちに入った。男が腹部を抱えて地面にかがみこんだところを、すかさず後頭部に足を振り下ろして動きを封じる。 相手が行動不能になったのを確認すると、オスカルはバッグを奪って逃走したもう一人を追おうとしたが、はたと躊躇した。その間に、せっかく捕縛の直前まで弱らせたこの男の方が逃げ出してしまう可能性がある。 周りには、大立ち回りの捕り物に驚いて立ち止まった人々で、取り囲むように人垣ができていた。彼女がざっと見回すと、盛んにシャッターを切っている一人の男がいた。明らかにプロ仕様のカメラで、一部始終を逃すまいとファインダーを覗いている。報道関係者らしかった。それならば、このような場面には慣れていることだろう。 「そこのカメラ!もう十分だろう!!この男を押さえておいてくれ!」 彼女が叫ぶと、男はカメラを顔から離し、オスカルが飛び出すのに遅れること数秒で犯人のところに駆けつけると、馬乗りになって押さえつけた。 命令を出してから、振り向きもせず一目散に走っていくオスカルの後ろ姿を見送りながら、彼は小さく口笛を吹いた。 「まるで、よく訓練された猟犬か、鍛え抜かれた軍人のようだな」 オスカルが一味の片割れと格闘している間に、先に逃げ出した方との距離はかなり開いてしまっていた。まだ走れるという自信はあったが、相手の逃げ足も速い。あきらめかけたところに、事件が起きたことも知らずに、暢気に紙袋を抱えて雑貨店から出て来たアンドレが見えた。目の前を走り去る男を見て、踏み出そうとしていた一歩を引っ込めている。 「アンドレ!」 彼女の叫び声を聞くやいなや、アンドレの体が自然と動いた。走って来る彼女の姿をちらりと確かめるが早いか、次の瞬間には紙袋を投げ捨てて、賊を追い始めた。全力疾走で走り疲れていた賊はすぐに彼の射程圏内に入り、アンドレは見覚えのあるセカンド・バッグを見るや、その腕を背中の方にねじ上げて、地面に突き倒した。すぐにオスカルが追いつく。 「こいつら、わたし達のことを、狙っていた……らしい」 息を切らしながら道に落ちたセカンド・バッグを拾い上げ、まだ息も整わないうちに、彼女はアンドレに簡単に状況を説明した。車に乗り込もうとしたところを、いきなり襲われたと告げると、彼は「怪我はないか?」と犯人を押さえつけながらも、彼女を気遣う。幸い、オスカルに怪我はなかった。 犯人の腕を後ろ手にねじ上げたまま現場に戻ると、あのカメラマンが通報してくれたのだろうか、既に警官が数名到着していて、取り押さえられていた犯人は手錠をはめられていた。男は白人だったが、耳にいくつかと、鼻にもピアスをしており、腕にはタトゥーが入っている。いかにも不良少年といった風体で、雰囲気から貧しい家の出身かと推測された。 オスカルとアンドレが連行してきたもう一人も、まだ少年らしさを残した青年だった。褐色の肌と縮れた髪をしている。アフリカ系のようだ。 「あんた達が、被害者かね?」 二人を一瞥し、帽子を指で押し上げながら、一番年長の警官が尋ねた。 そうだと答えると、事情聴取があるから署までご同行願いたいと言う。二人は顔を見合わせたが、巻き込まれた事件の後始末には関わらねばならないだろうと覚悟を決め、素直に警官の要請に従うことにした。旅行者であることを告げ、レンタカーを中央署の付近まで移動させる許可をもらうと、被疑者を乗せたパトカーの先導で警察署に向かった。 「わたしは父親に小さい頃から武道の手ほどきを受けていたから動けたが、おまえも結構いい動きをしていたな」 ハンドルを握るアンドレに、助手席からオスカルが話しかけた。 実はアンドレ自身、自分の動きの素早さに驚いていた。格闘技も護身術も正式に習ったことなどなく、もちろん強盗の現場に居合わせたこともない。 それなのに、彼女が自分の名前を呼んだのを聞くや、無意識のうちに体が動いていた。彼女の言わんとすることを悟り、状況もすんなり理解して、自分のやるべきことを頭で理解する前に、行動に移していた。 「……もしかして――」 オスカルがふふっと笑った。 「――前世でも、こんな風に連携プレーで賊を捕まえたことがあったのかもな」 そうなのかもしれないとアンドレも本気で思った。そうでなければ、あの動きはありえない。オスカルほどに鮮明な記憶はないものの、自分の中にも前世で経験したことが息づいているのだろうか。前世……。 「そこ、右」 「あ、ああ」 オスカルに言われて、アンドレは十字路を右折するべくハンドルを切った。 簡単な審問で終ると思った事情聴取は、思いのほか時間がかかった。フランスでは、役所や公的機関の腰はうんざりするほど重いが、ここでもそれは同様だった。警察署の一室に待たされた二人は、担当者が来るのを待ったが、いくら待っても一向に来る気配すらない。犯罪発生率の高い都市だから人手が足りないのだろうと、最初のうちは我慢していたものの、あまりに待たせるので、廊下を通る警官を捕まえては、まだかと尋ね、旅行の日程が狂うからと急かせたものの、返事は判で押したように全て「もうすぐだから、待っていて下さい」という一言で、余計にげんなりする。 ようやくでっぷりと太った、赤とピンクの派手なストライプのシャツを着た担当官が現れた時には、既に午後3時を回っていた。担当官はズボンを釣っているサスペンダーを弄びながら、いくつかの質問をした。住所氏名、事件の概要に加え、念のために旅の目的と、これからの旅程など。 それらを聞かれると、あっさり二人は放免された。30分にも満たない事情聴取のために何時間も待たされたのかと思うと、疲労感はかえって増した。 「まあ、これで終ったな」 オスカルは警察署に背を向けると、気持ちを切り替えようとした。アンドレがゆっくりと頷く。旅行は始まったばかりだ。物的被害もなかったし、これから楽しいことがいくらでも待っているのだから、こんなことは、さっさと忘れてしまうに限る。 署の近くに停めてあったレンタカーに近づくと、運転席のドアにもたれかかった人影が見えた。二人に気づくと、男は近づいてきた。 「事情聴取、やっと終りましたか」 それは、さきほどカメラに立ち回りを収めていた男だった。 「実にすばらしいご活躍!勇敢な女性だ。もしかして軍人さんかSPの訓練でも受けた方でしょうか?旅行者のようですが、これからどちらに?お名前は……?」 男は地方紙の新聞記者であることを告げて名を名乗ると、ポケットからメモを取り出して、矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。記事にまとめるために警察署から出てくる二人をじっと待っていたようだった。 記者が警察で聞き込んで来た話によると、さきほどの二人組は連続強盗致傷犯として手配されていて、100件以上の余罪があるかもしれないのだという。地方紙ならば、それなりに大きな記事として扱われる規模の事件なのだろう。 警察の聴取に辟易していた二人だったが、捕り物に協力してくれた上に、おそらく迅速に警察を呼んでくれたのは彼だったのだろうから、そうそう無碍にもできない。 二人は質問にできるだけ簡潔に答え、早くインタビューを終わらせようとしたが、なかなか相手の矛先が鈍らないので、「今日のうちにグラースまで行かなければならないので」と強引に打ち切って、さっさと車に乗り込もうとした。 「最後に一枚!」 男は合皮の大ぶりなバッグからカメラを取り出すと、オスカルに向けた。助手席に乗り込もうとしていた彼女が反射的に顔を上げる。 「大捕り物の立役者の顔を!」 パシャリとシャッター音がした時、オスカルは自分でも顔が引きつっているのがわかった。 記者をかわして車に乗り込むと、アンドレは車をすぐに発進させたが、予定が大幅にずれてオスカルはイライラしていた。腕時計を眺めながら無意識のうちに親指の爪を噛む。気配を察したアンドレは、「遅れると連絡はしておいたから」となだめて、ギアをシフトした。そのまま右手を彼女の膝の上に滑らせ、その上に置かれた手をそっと握る。オスカルは少し照れたような顔をして、ようやく笑顔を見せた。 結局、その日の目的地であるグラースに到着したのは、日没間近な頃だった。途中、休憩は挟んだが、ミストラルを楽しむ余裕もなく、ひたすら走り続けた。 街に入ると、オスカルは何とかグラースの第一印象を捉えようとして、車の窓を開け、薄暮の中に目を凝らした。 南仏らしいオレンジがかった肉桂色の瓦屋根が立ち並ぶ。壁は黄色がかったクリーム色が多く、その家々の間を狭い路地や石段がいくつも通っている。木が多く植えられていて、家の前や空き地になっている斜面には色とりどりの春の花が咲き、香水の街の名にふさわしく、街全体が花の香りで包まれているようだった。 まるでほのかに香るポプリを思わせると彼女は思った。実家で一番上と二番目の姉がよく手作りしていた。昔いた使用人が手ほどきしてくれたと言っていた。 車は南から街に入り、北上していった。アンドレの家は、グラースの中心部から2キロほど北東に走った場所にあった。名前の付いた通りから外れ、小高い丘をうねうねと登っていく。車がようやく通れるほどの道をゆっくりとした速度で1〜2分進むと、その頂上よりやや下に建っている家の灯りが見えて来た。家の周囲はこんもりと茂った林になっていて、それを抜けると隠れ家のように家が建っている。 二人は敷地を囲んでいる石垣の内側に車を止めると、トランクから荷物を出した。庭を取り囲む石垣の近くには名も知らない白い小さな花が群生している。足元の芝生はきれいに刈り込まれていて、踏むとやわらかな感触が伝わった。敷地はそこそこ広く、庭の半分ほどは芝生だったが、残りの半分には色鮮やかなパンジーやゼラニウムなどの季節の花が植えられていて、その向こうに、壁に蔦の絡まった母屋と、離れ、車庫、それに納屋のような小屋が2つほど見えた。芝生の部分には、樹齢数十年は下らないだろう巨木があって、その下に家族で食事をするためのテーブルと椅子が置いてある。テーブルの脇には、黄色いミモザが今を盛りと咲き誇っていて、側を通ると、清楚なみずみずしい香りに足を止めたくなった。 この庭に入ったとき、オスカルは、パリでアンドレが借りているアパルトマンを連想した。ただ、植えられているオリーブの木や椰子の木を見ると、ここがパリではないことに気づかされる。 アンドレが手を振った。家の戸口の前に小柄な老女とおぼしき人影と、すらりとした女性が立っているのが見える。車の音を聞きつけて出て来たようだった。もう夕陽は半分以上山並みの向こうに隠れていた。二人の姿は、ポーチに灯った明かりにぼんやりと浮かび上がるばかりで、もっと近づかなければどんな人なのか、オスカルにははっきりと判別できない。 あらかじめアンドレには家族について尋ねてはあった。 家族構成は、父と母と祖母。一言で表すならば、父親は寡黙、母親は天真爛漫、そして祖母は前世紀の遺物だそうだ。 自分のことはどう伝えてあるのか尋ねると、アンドレは少し困ったような照れたような顔をして言った。 「とびきりの美人を連れて行くとだけ伝えてある」 全ては連れて行ってみればわかることだから、と。 アンドレが育った場所を見て、彼の家族に会う。多少、緊張はするものの、好奇心の方が先に立つ。自分の知らない小さい頃のアンドレの話などが、たくさん聞けたらいいと思う。 オスカルとアンドレが玄関の数メートル手前まで近づいた辺りで、突然、老女が口に両手をあてて、「お…おお!」と感極まったような声をあげた。 大げさな歓待に、“前世紀の遺物、とはこんな感激しやすいところを指しているのか?”とオスカルは心の中で呟いた。久しぶりに帰って来た孫息子とその彼女に、それほどまでに感動しているのだろうか。 それにしても大げさすぎる。老女は両手を前に突き出しながらオスカルの方に向かって一歩二歩と近づいて来たが、涙すら流している。オスカルが困惑してアンドレを見ると、彼も不審そうな目で、祖母の行動を見つめていた。 老女はオスカルの前まで来ると、取りすがるようにして、いきなり彼女に抱きついてきた。驚いて思わず老女の両肩に触れる。 老女の口から飛び出した言葉が、オスカルとアンドレをさらに驚かせた。 「ああ、お懐かしゅうございます……坊ちゃま!……レニエさま!!」 レニエは、オスカルの父親の名前だ。 (つづく)
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