フラクタル 〜絆〜 |
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夕食のテーブルには、とても5人では食べきれないほどの料理が並べられていた。 色とりどりの料理は食欲をそそる。数種のサラダに、野菜の煮込みやソテー、肉料理にスープ。どれも地元でとれた新鮮な食材が使われている。 大きな窓のあるダイニング・ルームは、石造りの床で、その上に薄手のカーペットが敷かれていた。壁は漆喰の風合いを生かし、天井は太い梁が剥き出しのままになっている。素朴だが、全体が調和していて、あたたかみのある居心地のよい部屋だ。 「きれいな色ですね。手作り?」 オスカルがテーブルの下に敷かれた手織りらしいカーペットに目を落としながら言った。鮮やかな赤や青や黄緑がパッチワークのように組み合わされて、ところどころにピンクや薄いオレンジの小花が織り込まれている。 「お恥ずかしゅうございますが、あたしが織ったものでして」 大きな四角い木製テーブルの上には、既に乗り切らないほどの料理があるのに、アンドレの祖母であるマロン・グラッセは、また新たな肉料理の大皿をキッチンから運んできた。ようやく椅子に腰かけると、嫁であるアンドレの母親が水差しを持ってくるのを待ってから、息子であるアンドレの父親に声をかけた。 それまで言い方は悪いが、木偶のように黙って食卓に座っていたアンドレの父親が、すこしいかつい背中を丸めて、食前の祈りを唱え始めた。長方形のテーブルの上座にアンドレの父であるセルジュが座り、そちらに向かって右側にオスカルとアンドレ、左側にマロンとアンドレの母であるコリンヌが座っている。皆、神妙に手を組み合わせて目をつぶった。 最後のアーメンを全員で唱え終えると、老女は言った。 「冷めないうちに、たんとおあがり下さいましな、オスカルお嬢様」 そう言いながら、ポークフィレミニョンのソースがけを切り分け、ズッキーニのグラタンなどを次々に勧める。 「“お嬢様”は、よして下さい。どうぞ、オスカルと」 オスカルが困ったように目を伏せると、マロンは開いた両手を大げさに振ってみせた。 「とんでもございません!お暇をいただいたとはいえ、一度はお仕えした主家のお嬢様を呼び捨てになんて、できませんとも」 「しかし……」 「まあ、よろしいじゃありませんの。お義母さんがそう呼びたいのなら、呼ばせてあげて下さいな。ね、“オスカルさま”」 アンドレの母であるコリンヌまで楽しそうにそう言うので、オスカルは抵抗することをあきらめた。な、こういう人たちなんだとアンドレが目配せする。 コリンヌは、トマトとオリーブにフレッシュ・ミントの葉を添えたクスクスのサラダを木杓子で手際よく小皿に取り分けて、各自に配り始めた。ゲストであるオスカルの次に皿を渡されたセルジュは、黒くつややかなオリーブにフォークを刺すと、黙々と口に運んだ。彼は、さきほどから話題に加わることもなく、ひたすらに料理をたいらげている。 “なるほど、寡黙に天真爛漫に、前世紀の遺物か……” オスカルは赤ワインを口にしながら、アンドレが家族を評して言った言葉を思い出していた。言い得て妙だ。さすが売れっ子作家。 かいがいしくオスカルに料理を給仕しながらマロンが言った。 「さきほどは失礼して、本当に申し訳ございませんでした。いくら暗かったとはいえ、こんなに美しいお嬢様を男の人と間違えちまうなんて……あたしとしたことが」 もう何度謝られたことだろう。オスカルが気にしていないと言っても、マロンは繰り返し、見違えたことを詫びた。 “ああ、お懐かしゅうございます……坊ちゃま!……レニエさま!!” そう言いながら、老女はオスカルにすがりついたのだった。 「言い訳するわけじゃございませんけど、本当にお若い頃の坊ちゃま、いえ、だんなさまに面差しがそっくりで。何だか混乱しちまって」 マロンは自分の食事もそこそこに、テーブル上に空いた皿がたまり始めたのに気づくと、席を立って片付け始めた。 「このバカ孫が、ちゃんと事前に名前を知らせておいてくれていたら、こんな粗相はしませんでしたのに」 「……単に、呆けただけじゃないの?」 アンドレが小声でぼそりと言う。 低めの鼻の上にちょこんと乗っている眼鏡が光った。耳ざとく聞きつけたマロンは、ちょうど目の前にあったアンドレの頭をパチンとはたいた。 「いてっ!痛いよ、おばあちゃん」 アンドレは叩かれたところを押さえて、祖母の方に振り返る。 オスカルはあやうく噴出しそうになった。あのアンドレが憎まれ口をたたいている。しかも、背丈も彼の方がずっと高く、力だってとうの昔に祖母を越えているだろうに、老女にいいようにあしらわれている。 マロンがキッチンの方に行ってしまうと、その間、今度はコリンヌがオスカルの相手を務めた。 「オスカルって、素敵なお名前ですね。男性名だけど、イメージにぴったり!うちの息子は、今まで一度も彼女を連れて来たことなんてないから、どんな女性かとあれこれ想像していたけれど、わたしの想像なんて、比べ物にならないくらい素敵。こんなに綺麗で、しかも職業はパイロットなんて」 そこでコリンヌは、一拍、間を置くと、少し芝居がかった調子でうっとりと言った。 「……アンドレにはもったいないくらい!!」 ソプラノの声でそう言い、胸の前で両手を組むと小首をかしげる。その仕草は、まるで空想好きなリセの女学生のようだ。年は、オスカルの母親より10歳くらいは下だろうか。相応の年齢に見えるようで、ずっと若く見えるようで。きっと、くるくると表情のよく変わる大きな黒い瞳と、華奢な体つきのせいだろう。髪もアンドレと同じ艶やかな黒で、染めているのか、白髪はほとんどない。背は高い方だが、手も足も折れそうに細い。守ってあげたくなるようなタイプの女性だ。 オスカルは見つめられて、困ったように微笑み、アンドレは「また、おふくろの病気が」と言って、フォークで小皿に残っていた肉の欠片を刺し、セルジュは食卓で交わされる会話を聞いているのかいないのか、相変わらず黙々と食事をつづけた。 「全く、“オスカル”なんて、男の名前を付けるなんて、だんなさまは何をお考えになっていたんでしょうね!あたしがいたら絶対にお止めして……いえね、オスカルさまのお名前がおかしいとか、そういうことを言っているんじゃござんせんのよ」 キッチンに汚れた皿を置き、新しい取り皿を持って戻って来たマロンは、この場にいないオスカルの父親に向かって抗議するように、ぶつぶつ言い始めた。名前のせいでご苦労されたりはしませんでしたかと訊かれて、オスカルが子供の頃、少しいじめられたと答えると、「ほら、やっぱり!」と勝ち誇ったように言う。 「オルタンスお嬢さまの次のお子様が、奥様のお腹にいらっしゃる時でございました。お屋敷を辞めさせていただいて、こちらに帰って来たのは。確か、次にお生まれになったのもお嬢様で、カトリーヌさまとおっしゃいましたよね?」 カトリーヌはオスカルの4番目の姉だ。 「よく覚えていますね」とオスカルが言うと、 「ええ、そりゃあ、忘れることなんてできやしませんよ。私が大切にお育て申し上げたレニエさまのお嬢様たちですからね。上からマリー・アンヌさま、クロティルドさま、オルタンスさま、カトリーヌさま……」 マロンは懐かしそうに、オスカルの姉達の名前を呼び連ねた。オスカルが補足する。 「その下がジョゼフィーヌで、少し間があいて、わたしが生まれました」 6人姉妹か、すごいなとアンドレが小さく口笛を吹く。 マロン・グラッセはもともとレニエの乳母としてジャルジェ家に雇われたのだった。 当時、人工乳も普及してはいたが、現在ほどは栄養のバランスがとれていなかったこともあり、嫡男であったレニエが生まれてからしばらくすると、ジャルジェ家は乳母を雇い入れることに決めたのだった。マロンは乳の出が十分ではなかった母親のかわりに乳を与え、また良家ではそれが普通のことであるが、実の母親にかわって子供の身の回りの世話をした。 レニエが長じてからも、そのままずっと屋敷に勤めつづけ、女中頭をしながらレニエの子供たちの代まで仕えていたのだが、息子の嫁が流産して寝ついてしまったのを機に、職を辞して、故郷であるこのグラースに戻って来た。 アンドレの母親は、もともと体があまり丈夫な方ではなかった。幸いなことに、ふたたび身ごもり、アンドレを無事出産したものの、その後は子供に恵まれることはなかったという。家事ができるくらいに体力が回復した後も、コリンヌは季節の変わり目や疲労がたまった時などに、やはりよく熱を出したりしたので、実質、アンドレは祖母に育てられたようなものらしい。 そんな話を聞くと、アンドレが祖母に頭が上がらないのも無理はないと思う。 「カトリーヌさまがお生まれになったことは、上のお嬢さま方がお手紙で知らせて下さったのだけれど、あたしがお返事を差し上げなかったものだから、それっきり連絡を取ることもなくなってしまって。……だってねぇ、あちらには新しい女中頭がいるのだろうし、いつまでも辞めた者が関わるのも、おもしろくないでしょうからねぇ。うまくいくものも、いかなくなっちまいますよ……」 過ぎてしまった遠い時間に思いを馳せているようなマロンの表情は、ジャルジェ家での日々が、彼女にとって充実した優しい日々だったことを物語っていた。 自分の面倒をみてくれたナニーもとても優しくてしっかりした女性だったが、もし、この父の乳母だった女性がそばにいてくれたら、どうだったろうとオスカルはふと、そんな風に思った。 「お嬢様方は怒っているか……、あたしのことなんて、もうすっかりお忘れになっていることでしょうね……」 マロンは取ってきた皿をテーブルに置くのも忘れ、立ったままで白い壁をじっと見つめていた。そういえば、オスカルはマロンの名前を聞いた覚えがない。少なくとも上の姉達は、覚えていてもおかしくないのに。 ガタンと椅子から立つ音がした。 はっとして見ると、アンドレの父であるセルジュが白いナプキンを置いて、テーブルを離れようとしていた。 「あなた、まだデザートが……」 コリンヌが止めようとするが、セルジュは「明日までにしなければならない仕事があるから」と言い、オスカルに「どうぞ、ごゆっくり。自分の家だと思って」と挨拶してから、部屋を出て行った。ギイと玄関のドアが開く音が聞こえた。どうやら仕事場は母屋とは別にあるらしかった。 セルジュが出て行ってしまった後には、どことなく重たい空気が漂っていた。 どうしたのだ、何か気に障ることでも言っただろうかと、オスカルがアンドレの袖を引っ張ると、「うん……まあ、あれはいつものことだから」と彼は言葉を濁す。 「あたしが全部悪いんですよ……」 マロンがそう言うと、コリンヌはマロンの側に来て、お義母さんと声をかけながら、その肩に手を置いた。さっきまでとは打って変わって意気消沈している義母を気遣う。 「あの子がようやく歩けるようになった頃に、主人を失くしましてね。暮らしを立てていくために、知人のつてでジャルジェ家にご奉公にあがるようになったものの、あの子を連れて行ったんじゃ、十分に働くことはおろか、かえってご迷惑をかけるばかりだと思いまして……」 その頃、ちょうど同じ年頃の男の子を失くしたばかりの夫婦が近所にいて、その夫婦にセルジュを預けてパリに出ることにしたマロンだったが、年に何度かは息子に会いに戻って来た。最初はパリに帰ろうとするマロンを泣いて止めていたセルジュだったが、そのうちにマロンが戻って来ても泣きも笑いもしなくなった。 「ほら、おかあさんよ」と言ってくれる母親がわりの夫人の言葉に振り向くが、マロンの姿を見ても、何の表情の変化も見せず、没頭していた一人遊びに戻る。 セルジュのいる子供部屋と自分が立っている廊下の境目が、越えられない境界線のようだ。 夫人は、マロンの当惑した表情にどうしていいのかわからずに言う。 「 セルジュは大人しくて面倒をかけない、いい子ですよ。安心して下さいね。最近では主人の仕事にも興味をもって、主人は”この子には天性の素質がある”なんて言ってて。うまくいっていますから、どうぞ、ご心配なく」 優しい慰めの言葉が、なぜかマロンの心に突き刺さる。 そっけない息子の態度と、子供を置いて働きに出た負い目から、故郷への足は遠のきがちになった。息子を預けていたグランディエ夫妻から、セルジュを正式に養子として引き取りたいという申し出があったのは、それから数年後のことだ。マロンはそれを、あっさり受けた。 自分は息子に嫌われていると思ったし、何よりグランディエ夫妻は、わが子のようにセルジュをかわいがってくれていたからだ。両親が揃った環境で育った方がいいとも思った。それが息子のためだと思った。セルジュを預けた先のご主人は調香師で、滅多に弟子を取らないことで有名な人だった。それがセルジュの才能を見込み、伸ばしてくれるというのなら……。この子は、夫妻の元できっと幸せになれる。 「ああ、だから、アンドレと苗字が違う」 オスカルがなるほどと相づちを打つ。 「そのまま、あちらに何もなければ、あたしの出る幕もなかったんですがねぇ……。いい人ほど神様が早くお側にお召しになられるみたいで……」 セルジュが成人した頃、夫妻は共に自動車事故で亡くなってしまったのだった。 マロンは眼鏡をはずすと、エプロンで涙をぬぐい始めた。コリンヌがそっと背中をさする。 それまで黙って聞いていたアンドレが、口を開いた。 「おばあちゃんが帰って来てからも、おやじとは、関係修復できないまま、ずっとぎくしゃくしてて。かえって、赤の他人のはずのおふくろとの方が仲がいいくらいで……」 座がしんと静まり返る。父親が無骨で多少無口だとしても、明るくて楽しい家族だというのが、オスカルの第一印象だったのに。それは間違ってはいないだろう。しかし、人と人が深く長く関われば、それだけでは済まされないのも人の理だ。特に家族というものは、いや、家族だからこそ、厄介なことがある。 「いやですよ!湿っぽい話になっちゃって。初対面でこんなお話までお聞かせしちまって、すみませんでしたね。何だか、初めてお会いしたような気がしないものですから、つい」 マロンは眼鏡をかけ直すと、急に素っ頓狂な声を出して、円を描くように大きく腕を広げた。 「せっかくこうしてお嬢様にお会いすることができたんですからね。今夜は楽しく、ぱぁーっと!」 「ぱぁーっとって、何をするのさ、おばあちゃん。こんな何にもない家で」 アンドレもおどけたように返す。 「だから、だから、ぱぁーっとだよ。あんたも少し考えたらどうなんだい!」 マロンはアンドレの耳を引っ張り上げた。アンドレはまた「いててててっ」と言いながら、されるがままになっている。コリンヌが声を立てて笑った。 そんな三人を見て、オスカルは静かに微笑んだ。 ディナーが済むと、サロンスペースに移動した。そこで、しばらく歓談した後、アンドレがオスカルを離れに案内した。そこの二階がゲストルームになっていて、ここにいる間、彼女はそこを自由に使っていいとのことだった。小さなレスト・ルームと狭いがバス・ルームまで付いている。 部屋にはベッドにクローゼット、ソファが置かれていて、どれも素朴でかわいらしい感じだ。床にはやはり手織りのカーペットが敷いてあった。これもマロンが織ったものだろうか。ベッドの上の壁には、中世風の聖母子の油絵がかけられている。 背の高い小卓がいくつかあって、その上にはスタンドが置かれている。天上にライトがない代わりに、部屋の何箇所かに散らばっておいてあって、アンドレがひとつひとつ回って灯りをつけた。オスカルの荷物が、ベッドの脇に既に運び込んであった。 オスカルとアンドレは並んでソファに座った。 「今日は本当にいろいろあった一日だったな、アンドレ」 ようやく一息つけるという感じで、オスカルがアンドレにもたれかかる。 「そうだな。TGVでフランスを縦断して、強盗にあった上に、警察署ではさんざん待たされて、ようやく家に着いたと思ったら、おばあちゃんとオスカルの家に、あんな縁があったなんて」 おまえは知らなかったのかと尋ねると、アンドレは首を振った。 「あの通りの人だから、むかし勤めていたお屋敷のことは一切話してくれなくてさ。どこをどう伝わって、どんな噂になるかわからないからって」 らしいなとオスカルは納得した。 「おばあちゃんも、おふくろも親父も、みんなおまえのことが気に入ってる」 父親もと聞いて、オスカルが驚くと、アンドレは「あれでも気に入っているんだよ」と笑った。 オスカルはじっとアンドレの顔を見つめた。 「何?」 「ん……来てよかったなと思って」 まだ恋人同士となってから日も浅く、目の前にあることが全て楽しくて、お互いの家族のことを改めて話す機会も持たなかったが、今日は、彼の家族のことを知ることができ、自分の家族のことも少し伝わったのではないかと思う。また二人の距離が縮まった気がする。 「そう?」と言って、アンドレは彼女にくちづけた。 何日ぶりかのくちづけだった。オスカルは、仕事でしばらくパリを離れていたし、今朝、会ってからの一日は慌しく過ぎてしまって、そんなムードにならなかった。 再度、アンドレがくちづける。今度は前よりも長く。さらにもう一度、軽く。 「来て、よかった」とオスカルがまた言った。 家族の中にいると、パリでは見たことのない表情をアンドレはする。祖母にいいようにされる、幼い表情のアンドレ。母親を心配する息子の表情のアンドレ。 今日、会った彼の家族の中に、アンドレの欠片をたくさん見つけることもできた。彼の陽だまりのような温かさ、どこか古風さを感じさせる気遣い、時折だが、仕事上の折衝などで彼が見せる頑固なところ。母から祖母から、そして父から受け継いだもの。 それぞれに、一日を反芻しながら、しばらくじっと見つめあう。オスカルが静かに目を閉じると、アンドレがもう一度唇を合わせようとした。 すると。 「アンドレ!!」 階下で呼ぶ声がした。マロンだ。 「ちょっと手伝っておくれ。いつまでも油を売ってるんじゃないよ!お嬢様だって、お疲れだろうに」 邪魔が入って、アンドレがげんなりとする。オスカルは仕方がない、あきらめろと背中を二度、軽く叩いた。 アンドレは立ち上がったが、オスカルの方に屈むと、名残おしそうに、もう一度やさしく唇を奪った。 階下で、また呼ぶ声がする。アンドレは「やれやれ、これだから“前世紀の遺物”は」とぶつぶつ言いながら、部屋を出て行く。階段を下りていく足音につづいて、ドアが閉まる音がした。オスカルが窓から見下ろすと、マロンが外から入り口にしっかりと何重にも鍵をかけていた。 「夜中に誰か忍び込みでもして、お嬢様に何かあったら大変だからね!」 内側から鍵は解除できるのだから問題ないのだが、何となく軟禁でもされている気分になる。アンドレが窓辺のオスカルに気づいて、小さく手を振った。それから祖母について母屋の方に消えていった。 一人になると、やけに静まりかえっているような気がした。家族の輪の中で、にぎやかに楽しく過ごした後だからだろうか。今夜の一人寝は、なんだかとても寂しく感じる。自分だけが取り残されたような。闇の中に消えていったアンドレの背中が、まだ探せば窓の外にいてくれるような気がしたが、今頃はマロンにこき使われていることだろう。オスカルは苦笑して鎧戸を閉めると、窓に鍵をかけた。列車の中で仮眠はとったものの、今日はいろいろなことがありすぎて疲れているから、ベッドに入ってしまえばきっと眠ってしまうことだろう。 オスカルは着替えを済ませると、枕元の灯りだけを残し、他を全て消した。キルティングのカバーを持ち上げてベッドにもぐりこむ。枕の位置を直そうとして、ふわりと甘い香りがするのに気がついた。 何だろうと香りの元を探す。枕辺に小さな手縫いの袋が置いてあった。ポプリの入っているサシェだ。淡いピンクの木綿地に、レースのフリルが飾りとして縫い付けてある。 手に取って香りを吸い込むと、どこかでかいだことのある匂いだと思った。確かに記憶にある。 もう一度サシェに鼻を近づけて目を閉じる。 二人の若い女がいる。 メモを見ながら、乾かした花や木片を集めて、数種のエッセンシャルオイルをメモの分量どおりに混ぜる。最後に湿気とカビを防ぐために塩をふりかけると、ガラス瓶の蓋をしっかりと閉める。 一番上と二番目の姉だ。まだ結婚する前の二人の姉の姿。 二人は趣味でいろいろなポプリを作っていたが、何度も繰り返し作っている香りがあった。姉達が毎年、判で押したように同じ物を作るので、よっぽど気に入っているのだなと、オスカルは、そう思っていた。 彼女にもいくつかくれたので、枕元に置いてみたり、クローゼットに吊るしてみたり。しかし、姉達が嫁いでしまうと、古くなったポプリを再び香らせる術をよく知らなかったオスカルは、そのまま放置して、やがて忘れてしまっていたのだが。 同じレシピでなければ、全く同じには香らないと姉達が言っていたような気がする。 それと同じ香りのするサシェが、今ここにある。 あれは――マロンの残したものだったのだ。 マロンが懸念したようなことを、執事や古参の使用人なら当然思ったことだろう。屋敷の秩序を守るため、辞めていった人間の名前を口にするのは、あまり好ましくないことだと、そのように姉達が窘められていたとしても、不思議ではない。 オスカルは純白のシーツの上で身じろぎした。 だから、口には出せなかったけれど。 思いも、愛情も、ちゃんとそこに残る。 たとえ、その人が、そこにいなくなってしまった後でも。 明日、目覚めたら、このことをマロンに話して聞かせよう。 そう思いながら掌の中のサシェを見つめているうちに、いつしかオスカルは安らかな寝息をたてていた。 壁にかけられた絵の聖母が、眠りを守るように見下ろしている。 “あのね、ばあや、本当は姉上たちはね…………” (つづく)
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