フラクタル 〜passage




ここは、どこだろう?
一面の花畑だ。鮮やかな色の花が咲き揃っている。花の匂いは煙るようなのに、その中で何か特別な凛とした香りが漂ってきて、うっとりとしてしまう。何の香りだろう、これは。嗅いだことがあるようでいて、ないようで。名前はよく分からない。


カーブに差しかかり、車両内に大きなGがかかった。その拍子にヘッドレストに預けていた頭がカクンと揺れ、彼女は目を覚ました。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。ぼんやりとした頭で辺りを見回すと、ふたつずつ並んだシートが向かい合わせになっている。その真ん中を仕切るようにして伸びている細長いテーブル。その向こうに、彼がいる。
「起きたのか」
彼は読んでいた雑誌から目を離すと、彼女の顔を見て微笑んだ。
窓側の席に座っている彼の顔は柔らかな日差しを受けて、いつもより表情がいきいきして見えた。少しだけ眩しくて、目を細めた。

そうだったとオスカルは、覚醒しつつある頭の中で思った。今はTGVのコンパートメントの中だった。これからアンドレと二人で、彼の故郷に向かう途中だ。
先ほど夢うつつで感じていたのは、この一等車に薫らせているフレグランスの香りだったのか。花畑が出て来たのは、これから訪れる彼の故郷が、香水で有名なグラースだからからかもしれない。

オスカルがフライトを無事に終え、パリに戻ったのは今朝のことだった。
当初の計画では、前日にはパリに戻り、アンドレのアパルトマンに泊まって揃って出かける手はずだった。それが悪天候のために現地を飛び立つことができなくなって、出発が遅れに遅れてしまい、シャルル・ド・ゴール空港にようやく到着したのは、今朝の5時頃だった。
急遽、パリ・リヨン駅で待ち合わせすることに変更して合流すると、なんとか予定していた列車には無事、乗り込むことができた。荷物はあらかじめしっかりとスーツケースに詰めてアンドレの部屋に置いてあったから、オスカルの方は、ほとんど身ひとつで来ればよかったのが幸いした。
オスカルが旅行の荷物を何日も前にパッキングして、彼の部屋に持ち込んだ時、アンドレは少しあきれたように笑った。だが、過密なスケジュールの上に、自分の仕事が天候に、そして時には客の気まぐれにも大きく左右されることを、オスカルは経験からわかっていたから、用心のためにと言って置かせてもらったのだった。
それに。
今回の旅行はオスカルにとっては、ただの旅行ではない。何しろアンドレの家族に会いに行くのだ。無理に自分を作って、気に入ってもらうつもりは毛頭ないが、多少なりとも緊張はする。だからこそ、事前に準備できることは済ませておき、気持ちに余裕をもって旅立ちたかったのに。そういう時ほど、何かが起こる。
「……すまない。眠ってしまったのか。アンドレ、今、どの辺りだ?」
彼女が少し気だるそうに金色の髪をかき上げる。じきにリヨンだとアンドレが告げた。
列車が出発してから、しばらくの記憶はある。だが、パリの街を抜け、次第に単調な田園風景がつづくようになった頃からが、どうもおぼつかない。心地よい振動が眠りに誘った。一等車のグレーのシートは、やわらかいのに絶妙な弾力で彼女の体を支えてくれて、そこに身を沈めているうちに、つい、うたた寝してしまったらしい。
いや、うたた寝というには、ずいぶん長い時間、ぐっすりと眠ってしまった。間もなくリヨンに到着するというのなら、2時間近く眠っていたことになる。
「もっと寝ててもよかったのに」
アンドレが早朝に戻って来て、体を休めることができなかったオスカルを気遣う。彼は雑誌を空いている隣のシートに置いて、両手で片膝を抱えるようにして足を組んだ。
「いや、終点まで眠ってしまっては、せっかく移動を列車にした意味がない」
オスカルは窓枠に頬杖をついて、外を眺めた。よく尖らせた鉛筆のような形の茶色いビルが遠くに見えている。他の建築物より際立って高いそのビルは、リヨンの象徴であり、パリにおけるエッフェル塔のような存在だ。
パリに次ぐ第二の都市であり、金融の街であるリヨン。その歴史は古く、先ほどのタワーがそびえる近代的なビル群のある地域と並んで、旧市街もよい状態で残されていることで有名だ。ビル群の西側を流れるローヌ川は、フランス屈指の大河のひとつであり、スイスの氷河を源として、長い旅を経てこの街に辿りつくと、そこから南へ遥かに延びて、これからオスカルとアンドレが目指す、地中海へとそそぐ。

列車で行こうと言い出したのは、アンドレだった。彼の故郷を訪ねることに決めたとき、オスカルは当然のように飛行機で移動するものだと思っていた。
グラースには空港がないから、空路にしろ陸路にしろ、近傍の大都市であるカンヌやニースを経由して、そこから、さらにローカル線かバスに乗り換えての旅程になる。
最高時速300キロ以上を誇るとはいえ、TGVで行けば、経由地にたどり着くまでで、5時間超もかかってしまう。それに比べて空路なら、わずか1時間ほどしかかからない。
このプランを提案された時、彼女はアンドレの意図を全く汲むことができなかった。彼女の休暇は2週間あるとはいえ、アンドレの実家に滞在して香水工場を見学したり、近くの町を巡った後は、二人でニースに出てヴァカンスを楽しむ予定もあるのだから、決して十分ともいえない。それならば、さっさと目的地に移動して、できるだけ長い滞在時間を確保した方がよいではないかというのが、オスカルの意見だった。飛行機のチケットなら、内線電話一本で確保できるのだし。
「旅の過程を楽しみたいんだ」
アンドレにそう言われても、まだ納得がいかなかった。だが、彼といられるのならば飛行機でも列車の中でもそう大差はないし、長距離列車の旅などしたことがなかったから、最終的に、交通手段の手配を彼に一任することにした。

百聞は一見に如かずと諺にもあるが、こうして車窓から望める風景を見ていると、ようやく、あのときの彼が言わんとしていたことが腑に落ちた。
リヨンはフランス北部の西岸海洋性気候と、南部の温暖湿潤気候がちょうど交わる地点に位置していて、この辺りまで来ると、パリ付近の植生とは随分違っているのがわかる。感性の鋭いひとならば、岩も土の色までもが違っていると思うことだろう。その違いは、これから南に向かうにつれて、一層顕著になる。
日常的に旅をしていると言っても過言ではない彼女だが、飛行機で飛んでいれば、こんな風に、風景の微妙な移り変わりに気づくこともない。今、目にしているこの木々や岩山、それに緑の田畑は、飛行機の旅では、雲海のはるか下だ。
それは、スピードを重視するあまりに、置き去りにされてしまったものたち。
彼は、彼特有の繊細の精神で、そんなものたちの溜息を感じ取るのだ。それから両手でそっとすくい上げると、大切に包んでどこかにしまっておくのだろう。アンドレと交わしたメールや彼の作品に滲み出ている、どこか懐かしいようなあたたかさは、そこから来ているように思う。そんなものたちが、しまってあった引き出しからこっそりと顔を出して、彼のペン先で戯れるのだ。
そんな風に思えるのは、彼女が、彼の手を知っているからかもしれない。
自分に触れる時の彼の手。いつも、力強いのに少しも押しつかがましくなくて、大事なものを逃さないように、でも壊さないようにと、包み込むようにして、彼女を抱く。背中にすべらせる長い指は、彼女自身が気づかない感情まで揺り起こして、丸ごと抱きしめてしまおうとする。
ふと見ると、彼もオスカルと似たようなポーズで窓の外を楽しげに眺めていた。テーブルを挟んで線対称に並んだ二人が、揃って同じポーズを取っている。通路側に立って眺めたら、おかしな光景だろうなと思って、オスカルはクスリと笑った。
「楽しい?」
アンドレが彼女の方に視線を移して尋ねた。
「ああ、列車の旅なんて初めてだから、いろいろ楽しいよ」
子供の頃、家族でヴァカンスに出かける時は、決まってプライベート・ジェットだったしと彼女が言うと、アンドレはシートからずり落ちそうになった。
彼女の父親は、フランス軍の中枢にいた。オスカルの中の印象では、いつも厳めしい顔をしながら、あちこちの会議に顔を出し、海外の駐屯地を訪れたりしていているのが父親というもので、屋敷でくつろいでいたことなど、滅多になかったように記憶している。だが、そんな忙しさの中でも、スケジュールをやりくりして、家族と旅行にいく時間を捻出してくれるような父だった。
しかし、ゆったり過程を楽しみながら旅をするなどという悠長な時間は確保できないから、父親のスケジュールに合わせて飛んでくれる、プライベート・ジェットを利用することが常だったのだ。有事の際、緊急の呼び出しがあっても、これならばフレキシブルに対応できる。それに、時にはテロの標的にもなりかねない要職にあるために、セキュリティの面からも、それは必須なことだった。
ジェットの中は家族しかいないから、比較的自由に振舞うことができた。好奇心旺盛な少女の頃のオスカルは、よく飛び立つ前のコックピットまで遊びに行って、操縦席に座らせてもらったり、一つ一つの計器類の役割について説明を受けたりした。思えば、あの頃の経験が、今の仕事に就こうと思った動機のひとつになっていると思う。
顔立ちも気質も、六人姉妹の中でオスカルが一番父親似だといわれる。やりがいのある仕事に打ち込み、忙しくしているのが好きなのも、父親譲りかもしれない。そんなところまで似なくてもいいのにと、姉達は会う度に呆れたように溜め息をつくのだけれど。
「うちなんかに来て、大丈夫かなぁ……」
アンドレが不安そうに言った。高級アパルトマンに当たり前のように住み、裕福な家の出身だとは聞いていたが、そこまでとは想像していなかった。
今まで周囲にそんな家族はいなかったし、もし仮に、自分の家族とジェット機をチャーターして旅行に出かけたとしても、居心地が悪くて仕方がないだけだろう。祖母などは、客室乗務員に混じって働き出してしまいそうで怖いくらいだ。
だが、彼女にとってはそういったサービスを受ける側でいることも、日常の風景なのだ。
列車が、リヨンに停車するために速度を落とし始めた。オスカルは、「うちの父親は少し特殊な職業だから」と笑った。

ほどなくして市街地に入ると、列車はリヨン・パール・デュー駅の駅舎に、滑り込むように入って行って停止した。
二人はシートにかけたままで、プラットホームを行き交う人の波を横目にしつつ、リヨンの町の歴史や街区の話をしたり、他愛もない話題を交わしながら、発車時刻を待った。
乗降客がせわしなく入れ違う。大きなスーツケースを持て余していた若い女性に、年配の男性がさりげなく手を貸して、乗車するのを手伝っている。こうしたちょっとした交流も、旅の醍醐味といえるかもしれない。
「リヨンには、ここ以外にTGVの駅がふたつ。リヨン・ぺラーシュ駅、それに空港に直結しているリヨン・サン=テグジュぺリ駅……」
オスカルがそう口に出したとき、アンドレは体を少し強ばらせた。
”サン=テグジュぺリか……”
その名前には、少し嫌な思い出があった。
以前、サン=テグジュぺリの初版本を見せてほしいと言われて、オスカルを彼の部屋に招きいれた時のことだ。まだ想いを伝え合う前だった。その時はもう、彼女に強く惹かれている自分に気がついていた。それでも自分自身をコントロールできると思っていたのに、ある男の名前がきっかけで、手綱をつけたと思っていた感情が暴走した。
彼女の意思も気持ちも全く無視して、乱暴に彼女を求めた。
オスカルを好きな自分の気持ちの上に、何かもっと深く暗い強烈な感情が覆い被さったようだった。
彼女をただ、腕の中に抱きしめていたくて、他の男には渡したくなくて。それは、それまでの人生で感じたことがないほどに強い、奔流のような激情だった。純粋すぎるあまりに歪んでしまいそうになりながら、かろうじて一歩手前で立ち止まっているような。
オスカルは、もう気にするなと許してくれている。おかげでこうして、向かい合って座っていられる。だが、自分は、あの時のことを無かったことにしてはいけないと思っているし、ふとした拍子に思い出すと、あの時の激情が自分のものだったのか、それとも他の誰かのものだったのか、わからなくなる時がある。
初めて会った時から、ずっと前から知っているような気がした。それは、それまでメールでやりとりをしていたからだと思っていたが、彼女が目の前に現れた瞬間から目が離せなくなって、地下鉄の入り口で彼女と別れたときには、追いかけて、彼女の乗った車両に自分も乗り込んで捕まえてしまおうかと思ったほどだった。何とか踏みとどまって、家路につこうとした。数メートル歩いて立ち止まり、一度はポケットにしまい込んだ、彼女からもらったカードを取り出して、そこに書かれているアドレスに、メッセージを送った。言い訳やこじつけの理由を書いては消し、書いては消して、最後に残った一言に想いを込めた。
オスカルの話から、二人が過去世で恋人同士だったかもしれないということが分かったが、あの懐かしさと、彼女を求めてやまない激しい気持ちは、前世の影響なのだろうか。
目の前にいる彼女への愛情は募るばかりだが、前世のことを思うと、それは自分の気持ちなのか、自分の中に残る”彼”の気持ちなのか、境界がわからなくなって、戸惑うことがある。
彼女の方はどうなのだろう。
さきほど聞いた彼女の生家の話からしても、彼女と自分はあまりに成育環境が違っていると思う。それなのに、彼女は自分を選んでくれた。
彼女を一方的に求めてしまった時に、きっかけとなった例の男は、やはり上流階級の出身で、代々、外交官や政治家を輩出しているような名家の生まれだそうだ。漠然とした不安にかられているのが嫌だから、オスカルに、あいつについて教えてほしいと、こちらから頼んで知ったことだ。自分の中のかすかな遠い記憶が、あいつも自分達の前世に因縁があると告げていた。

男の鳶色をした目が、詰問するように自分を見ているような気がした。彼もオスカルに惚れている。

おまえは、彼女にふさわしい男なのか?
彼女のために、何がしてやれる?
おまえは何も持っていない――だが、わたしならば、彼女を……。

今では彼女から愛されていることを実感することができるし、手を伸ばしても、もう拒まれることはない。それは十分すぎるほどに分かっている。
現代では越えられない身分の差などないのに、二人の関係に、いつか影がおちるような気がしてくる。漠然とした不安に襲われるのも、前世の記憶がそうさせているのだろうか。
アンドレは、シートのアームレストをぎゅっと掴んだ。

黙りこんで相づちすら打たなくなったアンドレを不審に思ったのか、オスカルが話すのをやめて彼の方を怪訝そうに見ていた。
「あ、ごめん。なんでもないんだ。ちょっと考え事していただけだから」
彼はこんな陽光の下にはふさわしくない、重苦しい考えを追い出すように手を振った。
彼女はそんな彼を見ると、突然何も言わずに、二人を隔てている簡易テーブルを畳もうとし始めた。ロックがなかなか解除できなくてもたついているので、アンドレが「何をするつもりか」と戸惑いながらも手を貸す。テーブルがしまわれてしまうと、彼女はすっと立ち上がり、彼の隣のシートに置いてあった雑誌をつまみ上がると、向かいに放り投げて、そこに座った。
彼の手を取り、二人の間に横たわる一対の肘掛も持ち上げて、さっさとシートの間に収めてしまう。それから、彼の右腕に片腕をからめた。
「遠い目をしている……。ときどき、おまえがどこかに行ってしまいそうな気がする」
彼女は、彼の腕をかき抱くように、今度は両腕をきつく撒きつけると、アンドレにもたれかかった。
「わたしはここにいるのに」
そうだとアンドレは思った。過去よりも未来よりも大事なことは、こうして二人が傍にいるということだ。それ以上に大切なことなど、何もありはしない。
二人の関係は、それこそ鈍行列車のように、ゆっくりでもいい。寄り道したり、休んだりしながら、それでも、隣にいられさえすればいい。
長く共にいればいるほど、近くにいればいるほど、すれ違ったり傷つけあったりすることは増えるに違いない。迷って悩んで、それでも、再び寄り添い合えるなら、きっと大丈夫だ。
アンドレは、左手で彼女の手に触れて、肌のあたたかさと、しっとりとした弾力を確かめた。それから彼女の腕をやさしく解くと、今度は自分が彼女の肩をしっかりと抱きしめた。

「旅はいいな……、アンドレ」
「……あぁ、そうだな。オスカル」

列車は再び走り始めた。今度は同じ方向を向いて座った二人を乗せて。
さらに南へと。



(つづく)





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