Castor and Pollux




中二階につづく階段に、どこからかスポットライトが当たった。観客の視線がそこに集まる。ライトに浮かび上がったのは、全身黒ずくめで、黒いマスクとマントを着けた男だった。帽子はかぶっていなかったが、デュマの「黒いチューリップ」か映画の「怪傑ゾロ」のタイトルロールのような装束で、ドレスの女性を羽交い絞めにしている。
観客のほとんどが、この辺りで早々とこれが芝居であることを理解したが、階段の辺りが見えにくいところなど、一部では事態がまだ飲み込めずにいて、会場は緊迫した雰囲気に包まれた。
男が高らかに笑う。女は会場中に響き渡るような悲鳴をあげる。ピンマイクを使っているようだが、それでも二人ともよく通る声をしている。プロの役者らしい。
「待て!」
観客の後ろの方から声があがる。張りのある声だ。もう一つのスポットライトが灯る。照らし出される第三の人影。現れた人物のために観客はみな道を開けた。花道になったような、人と人との間の狭い通路を急ぎ足で通り抜けていったのは、オスカルだった。もちろん、ライトは彼女の動きを追っていく。
階段の下までたどり着くと、彼女はすらりとサーベルを抜いた。ライトに照らされた切っ先は、銀の光を放つ。ゆっくりと階段を昇り始めると、黒装束の男は女性を抱えたまま、後ずさりで階段を昇っていく。オスカルが一歩一歩追い詰める。
中二階まで上がりきり、二つのスポットライトが一つに重なるほど距離が縮まったとき、黒装束は女性を椅子に投げ出すようにして放すと、自らも腰の得物を抜き放った。間合いを確かめるように、二つの剣が軽く打ち合わされたのを合図に、激しい斬り合いが始まった。殺陣とわかっていても、耳障りなほどに響く金属のぶつかりあう音と、映画などでは表現できない生々しい臨場感に観客は固唾を呑む。下のホールからは中二階の様子が見えにくいことが、かえって見る者の気持ちを煽り、戦いの行方を注目せずにはいられなくさせる。
最初はオスカルが押していたが、男の力に、彼女の突いた剣先が払われるようになると形成が逆転して、今度はオスカルの方がじりじりと後ろに下がり始めた。芝居とはわかっていても、見守る女性達からは思わず、悲鳴ともため息ともつかない声があがる。
ひときわ気合の入った掛け声と共に、オスカルが踏み込んだ。彼女の身軽なすばやい動きを見切れずに、男の剣は見事弾かれて宙に舞い、乾いた音を立てて床に転がった。
完全に形勢不利となった黒装束は、マントをひるがえして中二階の通路を走った。通路が直角に折れ曲がっている辺りで、男の姿が一瞬、闇に紛れて消えたと思うと、再び現れた。その背中に目立たないようにはしてあるが、命綱がついていたのは、ご愛嬌である。男は手すりから手すりに飛び移り、大きく開け放たれていた窓から屋根伝いに逃げて退場となった。
観客の注目が、再び後に残された二人に戻る。オスカルは椅子に座っていた女性を助け起こして微笑んでいた。手に手を取っておじきをする。大団円の合図だ。
会場からは拍手が起こり、中には指笛を吹く者もいた。
二人が階段を下りて来ると、観客が取り囲み、声をかけた。なかなかよかった、驚いたなど、概ね好評で、完成度は置いておくとしても、サプライズのショーとして、役割は十分に果たしていたようだった。失笑のうちに終わるのではないかと危惧していたオスカルも、任された大役を果たして、ほっと胸をなでおろす。企画者の見込みは外れてはいなかった。

フランスでは少し名の知れた歌手が生演奏をバックに歌い始めて、ようやくオスカルは人々から解放された。緊張を緩めて軍服の襟を少しくつろげる。一息つこうと飲み物の並べられたテーブルに近づくと、さきほどの階段からゆっくりとした拍子の拍手が聞こえた。見上げると、下りて来たのはジョゼフだった。
「ここにいらしたのですか、殿下」
オスカルは時折、親愛の情と敬意を込めて、社長の御曹司であるジョゼフのことを“殿下”というあだ名で呼んだ。
「なかなか素晴らしい演技だったね、オスカル」
そばに来たジョゼフがオスカルを見上げる。
「……いえ、わたしの演じているのは全て茶番ですから」
本気で感心したんだよと少年がほめると、彼女はやっと微笑み返した。
「いろいろ頼まれて、あなたも大変だね」
どことなく元気がなく、冴えない表情のオスカルを少年が気遣う。
彼女は、幼い頃から軍人の父親に武道を教え込まれ、フェンシングもかなりの腕前だ。そこで、今回の企画に出演してくれないかと頼みこまれたものの、気乗りはしなかった。しかし、頼んで来た相手の、ぜひにという懇願を振り切れず、殺陣の練習もし、今日を迎えた。そして、他にもいろいろと……。
年端のいかぬ子供に心配されて苦笑する。大人たちなどより、よほどオスカルの心中を察してくれているように思う。
二人は中二階のテーブルに落ち着くと、とりとめのない話を始めた。歌手の歌声も階下のざわめきも、心地よいBGMになる。ゆったりと流れる時間。オスカルのフライト先の出来事、ジョゼフの学校のこと、ヴァカンスの話。
「今年はどちらに?」
オスカルが尋ねると、少年はまだどうなるか分からないと答えた。
「毎年、オーストリアの伯母様のところに行っていたけど、今年はフランスにいらしているでしょう?」
そうでしたねとオスカルが相づちを打つ。
「それに……お母さまのこともあるし」
少年は目を伏せた。
「ねえ、オスカル、どうしてお母さまは、ぼくやお父さまだけじゃダメなんだろう……?」
ジョゼフは赤いくちびるを小さく尖らせた。頭がよくて、どこか大人をくったようなところがある子だったが、年相応に傷つきやすい心を持っているのだとオスカルはあらためて気づかされる。
「ジョゼフ……いつか、もっと大人になったら、お母さまのお気持ちもわかるようになるかもしれませんよ」
オスカルの声は、いつも少年の耳にやさしく届く。
「この間ね、ぼくお母さまを少し困らせたくて、学校を飛び出したんだ」
少年がちろりと小さく舌を出した。それはいけませんね、とオスカルがたしなめる。
「その時にね、アンドレ・グランディエに会ったんだよ」
彼の名前が出て、オスカルは息を呑んだ。
「聞いてない?」
オスカルの顔色が変わる。それだけで、ジョゼフは何かを察したようだった。彼女は少年から目をそらした。
彼とはもうずいぶん会っていなかった。連絡すら取れていない。
「彼とは……」
言いかけたところで、ガタンと椅子の足と床がぶつかる音がした。階下での演奏と歌が、消え入るように中途半端なところで止まる。
ジョゼフが立ち上がって、下のフロアを見つめていた。視線の先を追うと、大理石のひな檀の前で、夫に抱えられるようにして支えられている夫人の姿があった。他にも何人か駆け寄っているし、遠巻きに心配そうに見ている姿も見える。
「オスカル、ごめんなさい、また後で」
少年は階段を駆け下りて母の元に急いだ。幸い、軽い貧血か何かのようで、夫人は自力で立てるようになったが、ジョゼフに付き添われて退室して行った。社長は気にしないでつづけるようにと、楽団に向かって手を振る。音楽が再開されると、またパーティーはプログラムどおりに進行していった。思わぬハプニングだったが、夫人が自分で歩いて出て行ったので、大したことではないだろうと、大半がそう納得した。
出遅れたオスカルは、中二階のテーブルで一人取り残されてしまった。
手持ち無沙汰で椅子から立ち上がると、窓辺に近づいて眼下に広がる庭園を見つめる。庭はライトアップされて、ところどころに散歩している人の姿が見えた。屋敷の前は英国式庭園で、整備された青々とした芝生に、ツゲをはじめとした樹木が作る緑の壁が見える。その壁を縁取るように花壇が配置され、フランスらしい平坦な地形の庭に、階段状のカスケード(水路)や噴水を配してアクセントがつけられている。
つるバラが絡まるイオニア式の二本の柱を入り口にしたシャクナゲの小路の先には、きれいに刈り込まれたニオイヒバで構成された、かなり大きなメイズがあった。ゴールである中央の小広場まで、今夜は転々と灯りが灯されている。メイズは、上から眺めていると抜け出すのはいとも簡単に見えた。だが実際、中に入ってみると2〜3メートルの緑の壁が視界を遮り、同じところを堂々巡りしてみたり、袋小路に迷い込んだりする。この屋敷に遊びに来て、よくジョゼフと競走や鬼ごっこをするのだが、迷路を熟知している少年に、まだ一度も勝てないでいる。
「ここから見たら、簡単そうなのにな」
オスカルはため息をついた。窓ガラスが白く曇る。その中に、先ほど名前の出たアンドレの顔が浮かんだ。彼は笑っていた。指で曇りをこすってみるが、彼の笑顔は消えなかった。
ずっと気になってはいる。だが。
何もかも天上から見ればきっと簡単なことだろうに、こうして地上を這いずり回っている自分は、いつも、こだわって迷って、傷つけて後悔して彷徨っているばかりだ。
彼女は左胸の下辺りを、右手で触れた。内ポケットにしまってある懐中時計が、心臓の拍動より少し遅れたリズムを刻んでいる。目を閉じて、捉えがたい一拍一拍を何とか捕まえようとする。もう一つの片割れは、いまどこにいて、どうしているのだろうと考えながら。
「千両役者が、こんな隅っこで何してるんですか」
声をかけられて目を開ける。窓ガラスに映っていたのはアランだった。
オスカルは、つくづく今日は一人になれないのだなと心の中でぼやいた。パーティー会場なのだから当然かもしれないが。
彼女は今までの憂鬱そうな表情を振り払って、アランの方に向き直る。振り返った時には、いつものオスカルの顔と声に戻っていた。
「おまえまで、からかうな!ただちょっと、フェンシングを嗜んでいたから頼まれただけのことだ」
アランが手にしたグラスをオスカルに差し出した。受け取った透明なグラスの中には紅い液体が満たされている。
「ドレスじゃないのは、あれがあったせいなんですね」
「おまえまで、けちをつけるのか?みんなドレス、ドレスと、どうしてそう、うるさいんだ」
オスカルはグラスの中の液体を一気にあおる。
一点の衒いも感じられない青い瞳が、まっすぐにアランにそそがれた。彼は思った。ああ、この人は全く男心がわかっていないのだと。紅い軍服もとても似合っていると思うが、普段、女性らしさが強調されないような格好をしているのだから、こんな時くらいと、その、他の誰かも自分と同じように思ったのだろう。ドレスを着て化粧をしたら、どれほど美しくなることかと思う。ときどき、彼女は自分自身について、どう思っているのかと不思議になるほどだ。自覚のなさに驚かされてばかりいる。
「ん?」
何かに気がついたように彼女が声をあげた。ベルトに付けてある革製の小型ポーチに手をやる。羽虫の飛ぶときのような鈍い音がしている。彼女はその中から携帯を取り出した。着信のランプが点滅している。
「アラン、すまない、ちょっと」
オスカルはディスプレイを確認すると、嫌な相手だったのだろうか、少し顔をしかめた。それから、アランに背を向けるようにして電話に出る。
「ああ、わたしだ。えっ!?なぜそんな所に……フェルゼン、誰といっしょだって……?」
盗み聞きしていたわけではないが、フェルゼンの名前が耳に飛び込んで来て、アランは息を凝らす。
オスカルは電話の相手と、声を潜めながらも、少し強い語気でやりとりしていた。しばらくして電話を切る。そしてちらりと、窓の外に目をやった。
「すまん、急用ができた」
アランにそう断ると、彼女は足早に階段を下りて行った。
アランはオスカルが階段を下り切るまで見送っていたが、彼女に気づかれないで、そして見失わないで済む距離になると、自分も階段を駆け下りた。

彼女がフェルゼンという男に接触したのを目撃してから、ずっと動向を伺っていた。彼の名前が再び出て、オスカルが駆けつけたとなると、追わねばならなかった。
ブイエに命令されたからではない。事の真相を自分の目で確かめたかった。



(つづく)







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