Castor and Pollux




オスカルが階段を駆け下り、それにつづいてアランもホールに下りてきた。視界から消えていく彼女の背中をアランが尾行するように追っていく。
ホールで、オスカルの姿をじっと観察していたのはアランだけではなかった。アンドレもまた、少し離れたところから彼女の姿をずっと目で追いかけていて、その一部始終を見ていた。

一旦、仕事のつづきに戻ったアンドレだったが、デザートのクロカンブッシュ・ド・ムラングを二人がかりで運び込み、テーブルの上に慎重に置いた瞬間、まるで狙いすましたかのように会場の照明が落ちた。同僚が驚いてテーブルにぶつかると、運んだばかりのツリーの頂きから、積み上げた焼きメレンゲが一つポトリと落下した。
芝居がかった笑い声と悲鳴。このパーティーは、退屈する暇もないほど次々にイベントが繰り出される。すぐに演出の一つだと思ったが、それを楽しむ心の余裕は、彼にはなかった。二つ目のスポットライトに浮かび上がったのが、彼女の姿だったからだ。
彼女が抜き身の剣を構えて、階段をゆっくりと昇る。意外な場所に登場した彼女から、アンドレは目が離せなくなった。彼女が賊と剣をまじえ始めると、もう気が気ではなくなる。
不思議と観客としての視点ではなく、その芝居の舞台に上っている役者の一人として彼女を見守っているような気がしてくる。紅が舞うように動き、剣が風を切り、二つの刃が打ち合わされると、死と流血を予兆させるような耳障りな音がする――どこかでこんなシーンを見たことが確かにあった。記憶の断片のどこかに残っている。
芝居とわかっていても、飛び出して加勢してしまいそうな自分をようやく押さえ込む。オスカルが劣勢に転じたときは、思わず半歩ほど踏み出してしまっていた。
賊を退けた彼女が、美女と手に手を取ってにこやかに笑っている姿を確かめ、周囲につられて思わず拍手して初めて、アンドレは現実に引き戻された。ここにいる自分は昔の従僕のお仕着せを着て給仕などしているが、今は確かに21世紀で。そして、あの日から時間が止まってしまったような現実にいる。オスカルが彼の部屋を飛び出した、あの日から。
さきほど心に誓ったことを思い出す。彼女に何と言おうか……。誰かと一緒にいる時にする話ではない。タイミングを窺ったが、オスカルはなかなか一人にならなかった。
会社の同僚や上司、後輩だろう人々に囲まれ、その中心にいる彼女。ジョゼフと談笑している彼女。アランに声をかけられた彼女。アンドレは、その姿を遠くから見つめていた。
ずっと見つめていると、自分一人だけがどこか暗い部屋にいて、そこから覗き見ているような、そんな気がしてくる。自分はあの輪の中にはいない。
しかし、寂しいとか悔しいとか、そういった気持ちが湧いてきたわけでもなかった。今まで、彼女との二人だけの世界しか見て来なかった自分に気づく。彼女は、その世界にも属していて、それも含めて――彼女は彼女として、形作られているのだ。自分は彼女の何を知ったつもりでいたのだろうと思う。また頬が痛んだような気がした。

階段を走り降りて来た彼女の表情は少し厳しくて、どこかに急いで向かっているようだった。それをアランが真面目な顔つきで追いかけている。
オスカルが彼の上司だとすると、彼のいうところの“かなり取り澄ました上司”とは、彼女のことを指すのかもしれなかった。あの日話してくれた陰謀に関することが、これから起こるのだろうか。アランはいざとなったら、オスカルを助ける心づもりのようだったが、アンドレとしても、この状況を放ってはおけなかった。
会場から抜け出そうとする彼を、いっしょにデザートを運んだ男が、勝手に持ち場を離れるなと呼び止めた。アンドレはテーブルの上に転がっていた小石ほどのメレンゲの粒を男の手に乗せる。
「たった今、大事な用事ができてね。命よりも大事なひとなんだ。すまないが、二人分働いておいてくれ」
彼は軽く手を振ると立ち去って行った。かなり強引だったが、気持ちよいくらい悪びれるところがない。残された男は目を白黒させ、呆然として、しばらく手の上に残された焼き菓子とアンドレを交互に見つめていた。

建物から出たオスカルは前庭を突っ切り、足早にどこかへ向かっていた。段々になっている人口の河の横を過ぎ、つるバラが絡まった古代ギリシャ風の柱の間を通って、シャクナゲの小路をまっすぐ目的地を目指して歩く。その先は、さきほど彼女が屋敷の窓から見下ろしていたメイズだ。
彼女はメイズの入り口で立ち止まると、携帯を取り出してどこかに電話をかけた。迷路の入り口には、“本日、立ち入り禁止”の掲示がかかげてある。それを睨みつけるように見ながら、相手に念を押すように何か言うと、気持ちを切り替えるためだろうか、一つ息をはいてから迷路に入って行った。
オスカルが緑の壁の中に見えなくなった数秒後、つけてきたアランも迷路に入ろうとした。誰かが彼の肩をつかむ。尾行に意識を集中していたアランは心臓が止まりそうなほど驚いた。振り返ったところにいたのはアンドレだった。
「なんだ、おまえかよ……。驚かすなよ」
「オスカルは、ここに入って行ったのか?」
アランの抗議には耳も貸さずにアンドレが言う。表情はかなり険しく真剣だ。
「なんでおまえが?……そういえば、さっき―……」
二人がそんな関係であるとは夢にも思っていなかったアランだったが、もともと勘はいい方だった。ようやく先ほど、アンドレが何を言おうとしていたのかにピンと来た。
「おい、嘘だろ?そんな偶然って、ありかよ……?」
頭を抱えたが、はたと気づく。もし……。もし、オスカルがアンドレの恋人なのだとしたら、この先に待っているものは見ない方がよいのではないか。彼女は電話口で確かに例の男の名前を呼んでいた。オスカルが頻繁に会っているという男。フェルゼン……。
「ここから先は行かない方がいい」
そう言って、急に真顔で青ざめたアランを見て、アンドレの方も何かを感じ取る。
「もしかして、あいつは……。あいつは、あの男に会っているのか?」
パーティー会場での二人が思い出された。自分と彼女の事情を知っているアランが止めるならば、それしか理由が考えられない。アンドレの形相が変わった。
「い、いや、フェルゼンは、あの男は会社の情報を盗もうとして近づいて来たみたいで、その調査をおれが、ああ、もう何を言っているんだ、おれは!」
アランはしどろもどろだ。アンドレのいつもと違った雰囲気にすっかり気圧されている。アンドレのことは、凪いだ海のように穏やかな男だと思っていた。人を脅したり怒鳴りつけたりしたことなど、一度もないようにさえ見える。なのに今は、激しい怒りの表情を浮かべ、人に安らぎを与える黒い瞳も、何かに狂ったような熱を帯びて、底知れない深遠の闇の色をしている。
アランが不用意に発した言葉に、アンドレの表情はますます険しくなった。アランの言うことが本当ならば、目的は何にせよ、彼女とフェルゼンという男が何度か会っていたからこそ、会社にも知られるところとなったのだろう。会っていたのは、目撃した一度だけではなかったということになる。
「何か知っているのか?だったら教えてくれ、アラン!」
アンドレがアランに詰め寄った。
「いや、おれは何も。これからそれを確かめに……」
アランは二、三歩後ずさる。落ち着けと言っても、今は通じそうになかった。

「何をしているの?」
下の方から声がした。あどけない子供の声だ。張り詰めていた空気が、一瞬でやわらぐ。長身の二人が見下ろすと、何か企んでいるような表情の少年がいた。ジョゼフだった。
「アンドレがいるなんて、びっくりしたよ。今日は会社の人間だけのパーティーのはずなのに、どうやって潜り込んだの?オスカルが呼んだの?それと、君は……」
アランが名乗ると、少年はさして興味もなさそうに「よろしく、ムッシュウ・ソワソン」と挨拶した。僕のことは知っているよね?と尋ねられて、アランはもちろんですと答えると、生意気な小僧だと内心では悪態をつきながらも、社交辞令として母親である社長夫人の体調を気遣った。途中退室したのをアランも見ていた。
「お気遣いありがとう、ムッシュウ・ソワソン。もうよいようです。大丈夫だから戻りなさいと言われてホールに戻ろうとしたら、オスカルを見かけて。降りて行ったら、つづいて君とアンドレが追いかけて行くのが渡り廊下から見えたんだ。オスカルはどこにいるの?」
アランとアンドレは顔を見合わせた。
「人を探しに、この迷路の中に入って行きました」
別段、子供に隠し立てすることはないと思い、アランが答える。アンドレはこの少年がその辺りの子供とは違っているのを知っているので、成り行きを見守っていた。
「君たち、オスカルを追っていくつもり?」
アランが肯くと、ジョゼフはふーん、そうと言いながら、大の大人二人の顔を交互に眺めた。口調には何か含みがある。
「やめておいた方がいいと思うよ。迷って出られなくなるから」
外から見ると簡単そうだが、中に入ってみると意外に複雑で、なかなかゴールにたどり着けないこと、方向音痴な人間なら数時間は閉じ込められる可能性もあることをジョゼフが説明すると、アランとアンドレは再び顔を見合わせた。
「オスカルは今まで何度もクリアしたことがあるから心配ないと思うけど、君たちが今から行っても、オスカルがここを抜け出した後も、うろうろ出口を探して歩き回ることになるんじゃないかな?」
それは困る。それならば、出口付近で出てくるのを待つしかないかとアランが言い出したのを聞いて、ジョゼフが得意そうな顔をした。
「ぼくならショートカットも知っているから、きっとオスカルよりも早く中央のゴールにたどり着けると思うよ」
大人二人は三度、顔を見合わせた。少年の話によると、迷路の出入り口は四方に計4ヶ所あって、そのどこから出てくるのかは予想がつかない。
「さっき人を探しているって言ったよね、ムッシュウ。この中で待ち合わせるなら中央の広場しかない。オスカルの目指しているのはそこだと思うよ」
アランが思わず小声をあげた。自分が何気なく言った一言から、そこまで推測するとは。彼もジョゼフの子供らしからぬ頭の回転の速さに、ようやく気がついたようだった。感心しているアランをアンドレが肘で小突いた。
「ぼくがついて行っても問題はないでしょう?さ、急ごう」
ジョゼフは返事を待たないで、迷路に小走りで入って行く。小さな背中を見失わないように、慌てて大の男二人が少年を追う。
この状況下では、彼に案内をしてもらうのが最も有効な解決方法だという点で、二人の見解は一致していた。
アランにとっては、道案内してくれるというなら渡りに船だった。オスカルの姿はとっくの昔に見失っている。アンドレはジョゼフがオスカルに抱いている淡い恋心を知っているので、多少迷いがあった。しかし、もしオスカルとフェルゼンという男が一緒にいたとしても、それほどの衝撃をこの少年が受けるとは思えなかった。何しろれっきとした恋人がいても堂々と宣戦布告するくらいの豪胆さを持っている子なのだから。

迷路に入ると、少し鼻につんとくる草木の匂いがした。壁として使われているニオイヒバの香りだ。迷路の中は、一面緑の壁ばかりで道しるべになりそうなものは何も置かれていない。それがかえって迷路を攻略しづらくさせていた。しかし、ジョゼフにとっては自宅の庭の一部にしかすぎないのだろう。脇目もふらずに走っていく。目の前を走っていた少年が、あっという間に角を曲がって姿を消す。アランとアンドレは、曲がり角の多い迷路で、まるで追いかけっこの鬼から逃げているような少年を、なんとか追うので精一杯だった。
いくつ角を曲がったことだろう。先を走っていたジョゼフが二人を待っていた。
「ここ、カモフラージュしてあるけど、通れるようになっているんだ」
指さしたところを見ると、確かに錯視を利用して、よく見ないと通路の入り口がわからないように工夫されていた。ニオイヒバの、緑の糸で刺繍されたような細かくて複雑な葉の茂り方もうまく活用されている。
「王子様は、隅から隅までよくご存知で」
アランが小声で呟いたのをジョゼフは聞き逃さずに、すかさず言う。
「だって、このメイズはぼくが設計したのだもの」
さすがのアランも、これには返す言葉もなかった。

秘密通路をしばらく進むと、ふたたび通常の通路に出た。こちらも出入り口がわからないように、巧妙に斜めに交差する設計になっていた。狭い通路は子供ならば楽々通り抜けられたが、上背のある男達二人にはかなり窮屈で、小枝が腕や顔、わき腹に引っかかる。ようやく脱出した頃には、服に細かい葉のくずがたくさんへばりついていた。二人はそれを服から払い落とす。
「もうすぐゴールだよ」
ジョゼフはアランとアンドレの困惑顔などおかまいなしに、また元気よく走り出した。二人の様子を楽しんでいるようにも見える。
少年は軽やかな足取りで、小気味よくリズムを刻む。大人二人はいよいよだというので、できるだけ足音を立てないようにしてついていくため、少年から置いていかれる。
葉のすき間から、明かりがもれている。ゴールの中央広場はもうすぐなのかもしれない。迷路は立ち入り禁止にはなっていたが、パーティー会場からの眺めを考えてライトアップされており、中心の広場には、ひときわ明るく見えるように、いくつもの仮設の電灯が灯されていた。いよいよ最後の曲がり角になるのだろうか。少年は走るのをやめると忍び足になり、しかしためらうことなく、ひょいと角を曲がって行った。二人がようやく最後の角を曲がると、直線の先に開けた場所が見えた。ジョゼフはその手前で立ち止まっている。メイズ自体は方形であるが、その中心にある広場は円形で、レンガで形作られたいくつもの同心円の一番外側の円周を緑の壁がぐるりと巡っていた。何基かのベンチと大理石の彫像が飾られていて、中央にはドーム屋根の東屋があった。その下にも座れる場所があって、そこには人影が見える。
どうやら、男が一人と女が一人。こちらにはまだ気が付いていないようだった。
アランとアンドレが息を殺して目をこらす。男女は抱き合うように、ぴったりと寄り添って腰かけている。二人ともマスクは付けていない。ライトアップ用の照明のおかげで、十分に顔が判別できるくらいに明るい。逆にこちらが暗がりになるのも好都合だった。
男は、ちょうど灯りの方に顔を向けていたので、簡単に誰なのかが確認できた。予想していた通り、フェルゼンにまちがいなかった。
彼の肩に顔を埋めるようにしていた女が身じろぎをして顔を上げた。美しい陰影が彼女の顔を縁取る。
「おい、あれは……」
アランの声は動揺して、わずかに震えていた。

ドーンという爆発音が轟いて、敷地内のどこかで花火が打ち上げられ始めた。毎年恒例の抽選会が始まった合図だ。豪華商品の当たるそのくじ引きで、パーティーはお開きになる。
フィナーレはもうすぐだ。



(つづく)








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