Castor and Pollux




注意事項をいくつか聞いた後、アンドレは、今日の仕事場であるホールへ下見に案内された。演出はなかなか凝っていた。21世紀のフランスではなく、おとぎの国の城にでもいるような錯覚を覚える。
会場となるホールは、屋敷の左翼部分にある二階と三階が吹き抜けになっている場所に設えられた。ふだんは仕切って何部屋かに分けて使用しているのだが、その壁は全て折りたたんで、壁の中の空間に収納できる仕組みになっていて、ボタン一つで大広間にも小部屋にも変形できる設計になっている。出現したボールルームから天上を見上げると、幅2メートルほどの中二階があって、広間を取り囲む回廊のように、壁際をぐるりと一周していた。そこには椅子や小卓が置かれて、眼下にパーティーの様子を眺めながら休息できるスペースとして使用することになっていた。
ホールの床も壁も、家具や調度も入念に磨き上げられていた。そこかしこに置かれた金の燭台や、壁にかけられたゴブラン織りの巨大なタペストリなどが、もともと豪華な装飾の室内を、さらに日常とかけ離れた空間に変えている。テーブルや、壁に取り付けられたコンソールの上には、春の花をはじめ珍しい高価そうな花が生けられて、リボンにオーガンジーの布などを使って色とりどりに飾られている。
暖炉の前には、人口大理石のひな段が作られていて、玉座を模したつもりだろうか、がっしりとした黄金作りの肘掛けや背もたれに、細かな刺繍の入った絹が張られた、古めかしい椅子が二脚置かれていていた。
アンドレは中二階に昇ってみた。大きな窓がいくつもある。昼間の室内は、明るい陽光で満ちるのだろう。窓から庭園を見下ろすと、あちらこちらに人影が見え始めていた。使用人でなくゲスト達だ。建物の中も人の気配で満ち始めた。

開宴の時間が近づくと、広間はぞくぞくと集まって来たゲストで、たちまち埋めつくされた。皆、思い思いの衣装に身を包んでいたが、現代欧米風のドレスやスーツは少なくて、古代ギリシャ風の軽やかな衣装にはじまり、道化師あり、天使や悪魔風あり、「ロミオとジュリエット」などのシェイクスピア劇を思い出させる中世風の衣装あり、日本の着物やアフリカの民族衣装風など、国際色豊かな装いをしている人までいる。灯されたシャンデリアの光の下で、それは、さながら形と色の洪水のようだった。
ずいぶん趣きが違うかもしれないが、ドレス・コードがほとんどないに等しい無秩序さは、身分の高低を問われることなく、浮かれ騒ぎ、ひとときのアバンチュールを楽しんだ、かつてのパリ、オペラ座で開かれた仮面舞踏会に通じるものがあるようだった。
やがて、クラシックや映画音楽を奏でていた室内楽団の演奏の音がやんだ。つづいて、わざとらしく仰々しいファンファーレが流され、侍従風の装いをした司会者が、社長夫妻ご登場をアナウンスした。会場は期待にざわめく。
一旦、閉ざされていた扉が開かれる。夫人をエスコートした社長が現れると、どこからともなく歓声と拍手がわき起こった。社長夫妻は、ひときわ豪華できらびやかな18世紀ロココ最盛期の貴族風のいでたちで現れた。2人とも当時の髪型を忠実に再現した白いかつらまでかぶり、さながら、ベルサイユ宮殿で夜会を催す王と王妃のようだった。フラッシュが光る。風変わりで贅を尽くしたイベントに、今日は新聞か雑誌の取材も入っているようだった。明日か来週か、どこかの隅に今日の写真と記事が載るのかもしれない。
社長は身長が高く、かなり恰幅がよかったが、偉そうにふんぞり返っているタイプではなかった。小商店主を思わせるような、はにかんだ人の良さそうな笑顔を周囲にふりまきつつ、人口大理石の壇上まで進んだ。身にまとっているアビ・ア・ラ・フランセーズは、アンドレの身につけているものとタイプは同じだったが、豪華さでは比べようもない。
手を引かれている夫人の方は、かなりの美人だった。やはり18世紀風のローブ・ア・ラ・フランセーズを身につけている。昔のようにコルセットで締め上げなくて済むデザインにアレンジされて、少し胸の下から腹部の辺りがゆったりとできているが、おそらくこれは貸衣装などではなくオートクチュールなのだろう、夫人の容姿が引き立つように、そして優美な立ち居振る舞いが一層美しく見えるように仕立てられていた。彼女を飾る装身具は全て、大粒のダイヤモンドを黄金と真珠やルビー、サファイアなどの宝石で彩ったもので、髪飾りからイヤリング、豊かな胸に輝くネックレスに指輪までを合わせたら、それが本物だったらの話だが、総額いくらになるのだろうか見当もつかなかった。

社長の来臨とともに、シャンパンが配られ始めた。社長による開宴の辞が終わった後、社員の安寧と会社の発展を祈って全員で乾杯する。アンドレもその中に加わって働いていた。全員に行き渡るまで広間を歩き回る。数え切れないほどのグラスを誰かに手渡した。
彼にとっては、オスカルがいないかどうか恐る恐る見回しながらの作業だった。今のところ、彼女の姿は見えない。こそこそとしているのは性に合わないが、この会場で顔を合わせても、何と言ってよいのかわからない。
こちらから連絡しようと何度も思ったが、その度に、最後のキーが押せなかった。
何日たっても電話一本して来ないのは、一方的に疑われたことが、彼女にはどうしても許せないのだろう。そう思うと、考えに考えた謝罪の言葉が陳腐に思えてしまう。彼女をどれほど深く傷つけたのかと思うたびに、叩かれた頬がじんと痛んだ。――今も、痛む。

挨拶が終わると、夫妻はシャンパン・グラスを高々とかかげた。金色の液体の中で無数の泡が弾けて戯れる。夫人が乾杯の発声をし、2人のグラスが硬質な音を立てると、つづいて一斉にグラスのぶつかり合う音が室内にこだました。飲み干した後、もう一度グラスを高々と持ち上げて、光にかざす。いよいよ宴の始まりだ。
再び音楽が始まり、ワルツが奏でられる。余興として呼んだのだろうか、プロらしき何組かのカップルが、すぐにホールの中央に進み出て踊り始めた。右へ左へ、前に後ろにと、音楽に合わせてステップを踏み、回る。ゲストの中でも、踊れる人はそれぞれパートナーを見つけてそれに加わる。中二階から見下ろすと、それはまるで、くるくると形を変えていく万華鏡をのぞいているかのようだった。
ゲストの優雅な雰囲気とは裏腹に、アンドレはじめホールの接客係は大忙しだ。まずは大量のグラスを片付ける。つづいて次々と調理される料理を運び込まなければならない。立食形式ではあったが、料理はもちろん三ツ星レストラン並だ。ぜいたくな食材と、熟練した腕が生み出す芸術品。チーズや魚介に野菜を使った、見た目も美しいオードブルに始まり、さまざまな料理の皿が並ぶ。
空いた大皿に使用済みの食器類を下げては、また運び込むの繰り返し。それを涼しげな顔をしてこなさなければならない。
七面鳥のローストを運び終えた時、アンドレはポンと肩をたたかれて、ぎくりとした。
「……なんだ、アランか」
ほっとする。
「よう、なかなか似合ってるじゃねえか。むかしの召使い風か?」
「18世紀の従僕スタイルと言ってくれ。そっちは……むかしの軍服?」
アランは得意げに胸をそらせた。
「ナポレオン時代の将軍だ。どうだ、風格があるだろう?」
胸に輝く勲章が、シャンデリアの光を反射して誇らしげに輝く。
「んー、おまえだったら、海賊……とかの方が似合わないか?」
軽口をたたくとアランに小突かれたが、本当は本人が言うように、それほど悪くなかった。

会場の入り口付近から黄色い歓声があがり、二人は振り返った。ドレスの女性達に、誰かが取り囲まれている。人垣のすき間から垣間見えるのは、燃えるような紅の色。
その人は、アランが身に着けているような軍服を着ていた。肩口で揺れる金モール。それよりもずっとずっと鮮やかな、かの黄金の髪。アンドレからは確認できないが、きっと瞳はまっすぐ前を見つめているだろう。
真紅と金と、そして青と。
アンドレの中で、今までどこかくすんでしまっていた世界が、そこだけ鮮やかに色づいた。目を奪われ、身動きができなくなる。息を止める。
「お、機長殿は今ごろご到着か。しかもドレスじゃないのかよ」
アランは少々残念がっているようだった。
「機長って……オスカル、オスカル・フランソワのことか」
なぜ知っているんだと驚くアランに、「そっちこそ、知り合いか?」と逆に質問する。アランは、彼女は同僚パイロットで、候補生時代は教官でもあったと言う。
アンドレは片手で顔を覆い、深くため息をついた。ここまで最悪なポジションにいるとは。これは早々に話しておかなければならないと思った。何しろ、こいつとも長い付き合いになりそうだから、と。
「……実は、おれも彼女と親しくてね」
白状するが、アランはまだぴんと来ないらしい。
「オスカルとは……」
そう言いかけて、彼女がこちらに近づいて来るのが見えて、アンドレは慌ててアランの腕をつかみ、壁際の大きな柱の陰に隠れた。
彼女の身につけていた紅い軍服は、アランとは少しデザインが違っていたが、よく似合っていた。ウェストの辺りを金色のかっちりとしたベルトで止め、模造刀だろうかサーベルまで差している。
「おい、何だよ」
アランはいきなり引っ張って来られて憤慨している。
「だから、実は……」
アンドレはまだオスカルを目で追っていた。
「だから、何だ……!」
声を荒げるアランを制して、アンドレは彼女の様子を見守った。見覚えのある男が一人、彼女に近づいていた。
男は社長と同じような18世紀頃の貴族の扮装をして、顔の上半分を覆う黒いシンプルなマスクを付けていた。アンドレには誰かがわかった。オスカルより少し背が高くて、薄茶色の髪をした、あの男だ。再び、あの日の光景が脳裏をよぎる。
男はオスカルに向かって二つ三つ言葉をかけた。オスカルの方も何か言ったようだった。二人からはだいぶ離れていたので、会話の内容は聞こえなかったが、オスカルの方は少し怒っているようにも見える。彼は彼女のそばを離れて行ったが、彼女はその後ろ姿を目で追っていた。アンドレは下唇を噛んだ。
どうして、あの男がここにいるのだろうか。アンドレの胸に、どす黒い何かが生まれ、どろどろとしたそれが塊になって、つかえる。まさか、彼女との逢瀬のためではないかという疑いが浮かんだ。その一方で、彼女を信じなければという思いも浮かんで、アンドレの中でせめぎ合う。頭ではわかっているのに、どうしてこんなにも、あの男に対抗心を燃やしてしまうのか、自分で自分を制御できなくて戸惑う。
アンドレは彼女を追おうかと思ったが、今日の仕事仲間に見つかり、油を売っているなと注意されて思いとどまった。まだ気持ちの整理がつかないまま会ってもと思い直す。
だが、同時に心に決めた。
もう少し仕事をつづけて落ち着いたら、今度こそ彼女に声をかけよう。
彼女と別れてからの日々を思う。ただ息をしているだけの、そんな一秒一秒。人間の抜け殻が歩いているみたいだった。
手にした銀色のトレイに、テーブルの上の花の色がおぼろげに映る。この花は、こんな色をしていただろうかと気づく。世界がふたたび息を吹き返したようだった。彼女の姿を見たからだ。彼女のまとう色は、世界の根源の色だ。心が震える。
彼女の声が聞きたい。どんなに罵られようと、なじられようと構わない。
そして、彼女に触れたい。

アンドレはアランに「さっきのことは、後で詳しく説明する」と言い残して、再び仕事に戻った。アランは「ああ」と手を振ったが、生返事でどこか上の空だった。
アランはアランで、オスカルとその男が話している場面を目撃して少なからず衝撃を受けていた。社員全員を知っているわけではないが、男の方は会社では見かけたことがなかった。ブイエにもらった資料を思い出す。疑惑の相手だという男の写真と、その特徴。マスクを付けてはいるが、北欧系なのは鼻やあごの形に体つきで、何となくわかった。一致する。ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンだ。たぶん、まちがいない。
心のどこかで、内務部の見込み違いであってくれたらと思っていたのだが、二人は少なくともかなり親しい間柄のように見えた。
アランは、オスカルの後を少し離れて追った。彼女はギャルソンからワインのグラスを受け取ると、壁際でひとり飲み始めた。
アランは柱の陰になって、向こうからは見えにくいテーブルの料理をひとつふたつと、つまみながら彼女の動向を伺った。そこからならば、声も聞こえる。
男が一人、彼女に近づく。これはアランも知っている人間だった。
「お久しぶりですね。オスカル」
彼女は男の方を見もせずに言った。
「先週も会ったではないか、ジェローデル」
オスカルはつれなく答えると、グラスを口に運んだ。ジェローデルは彼女の冷たい態度も楽しむかのように、微笑を浮かべながら話をつづけた。
「ドレスではないのですね。……なぜ無粋な軍服など?今夜は一曲お相手していただこうと思っておりましたのに」
彼女はあしらうように笑った。
「今日はこの格好でなければならないのでな。それに、他の男と踊らなくて済むし……」
「は?」
怪訝そうな男を無視して、オスカルは軍服の内ポケットから懐中時計を取り出すと、時間を確かめた。
「そろそろか」
急に、会場の照明が落とされた。どこかで女性の悲鳴があがる。絹を引き裂くようなその声は、どこか芝居じみていたが、会場は騒然となった。



(つづく)







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