Castor and Pollux




春のやわらかな太陽は、やや西に傾いたまま空にある。待ち合わせ場所に現れたアンドレは、アランの目に少しだけやつれたように見えた。
「よお」
アランが片手をあげると、相手も片手をあげた。
「大丈夫かよ」
「何とかね」
彼はさびしそうに笑った。まだ笑えるなら何とかなるかなとアランは内心、胸をなでおろした。

仕事を紹介すると電話を入れた時、アンドレは少々戸惑ったようだったが、ちょっと考えた後で、引き受けると返事をしてきた。
「それはそうと、彼女とは仲直りできたのかよ?」
仕事の話が済むと、アランは一番気になっていたことを、ついでという風を装って、電話の向こうに投げかけてみた。
「……いや…」
その声は、それまでと打って変わって低く暗くて抑揚がなかった。悲しみといえばいいのか、絶望と表現すればいいのだろうか、アランには何とも形容しがたい調子だった。いたたまれなくなって、細かいことが決まったら、また連絡すると言って、そそくさと電話を切る。とりあえず生存確認ができたので、その日はそれでいいと思った。自分がいくら励ましたところで、どうにかなるものでもあるまい。心の傷を癒せるのは、彼女自身か、そうでなければ時間だけだ。
採用が決まり、当日の集合時間などを知らせた後も、彼のあの時の声が頭にこびりついていて、待ち合わせ場所で姿を見るまで、いったいどんな風体で現れるのか、まともに仕事ができる状態なのか、もしかしたら来ないのではないかと気をもんでいたほどだった。しかし、アランの予想に反して、現れた男は身なりもきちんとしていたし、一見すると、風邪でもひいて少し元気がないくらいにしか見えなかった。意外だった。
二人は早速、アランの車に乗り込むと、パーティー会場に向かった。
アランがアクセルを踏むと、周囲の景色が動き出した。車はセーヌ沿いの道を西に向かった。道路を走る車の流れに乗ると、アランは助手席に座るアンドレに話しかけた。
「毎年、趣向を変えたイベントがあるんだが、今年は仮装をやるらしいぜ」
「仮装って、……コスプレみたいな奴か?」
「というか、大昔のパリで開かれていた仮面舞踏会みたいな感じらしい」
アンドレは、そうかと一言、気のない返事を返した。自分は参加するわけではないので、大して興味をひかれなかった。
車はセーヌの流れから逸れて、さらに西へと走り続けた。パリ西部16区を通り抜ける。オスカルのアパルトマンのあるカルチエだ。
すっかり馴染みになった通りや建物が目に入る。彼は窓から顔をそむけた。否応なしに彼女のことを思い出してしまうからだ。
ダッシュボードを見ると、たくさんの計器類の中で、スピードメーターが制限速度を少し越えたところで、わずかに上下していた。その揺らぐような動きを見つめながら、アンドレは数日前のことを思い起こした。

携帯の着信音が鳴った。仕事をしていたアンドレは、ひったくるようにして原稿用紙の脇に置いてあったそれを取ると、ディスプレイを見た。オスカルからではないと分かると落胆する。あの日から、何度こんなことを繰り返しているだろう。
「アロー?」
電話に出ると、やけに元気そうな男の声が聞こえてきた。アランだった。挨拶もそこそこに、彼はこう言った。
「おまえ、仕事をする気はあるか?」
最初、原稿の依頼をなぜと不思議に思った。彼には、まだ小説家であることは伝えていなかったはずだ。このまま付き合いが続けば、いずれ自然と話すことになると思っていたのだが。しばし考えて、「自由業だ」と名乗ったことに思い当たる。きっと、自分の職業を何かと勘違いしているのだろう。
小説家であることを話して断ろうと思ったが、すぐに言葉が出ないでいると、アランはしきりに、「外に出た方がいい」だの「人が多い所に行けば気分も変わるぞ」だのと言ってくる。
ああ、この男は自分のことを心配して話を持ちかけてきたのだと分かると、一日限り数時間の簡単な仕事だというし、だんだん引き受けてもよいような気になっていく。一日くらいならスケジュール調整は簡単だ。何しろ、「自由業」なので。
それに、確かにアランの言うとおり、いい気分転換になるかもしれないと思った。ここのところの落ち込み方は、自分でもひどいと思っていたところだ。
オスカルが彼の部屋を飛び出してからというもの、いつも通りに生活しているようでいて、どこかタガが緩んだような自分がいた。やかんを空焚きして危うく火事になりかけたり、原稿のページ数を間違えて、慌てて締め切りを延ばしてもらい、加筆修正するのに二晩徹夜したり。いつもなら、絶対にしないような失敗ばかりだ。ぼーっとして、頭がうまく回転しない。食事もきちんとしてはいたが、朝、何を食べたのか夜には覚えていなかった。食べ物の味などしなかったから。そんな調子が日を追うごとに、ひどくなっていた。
「……ありがとう。引き受けさせてもらうよ」
アンドレがそう言うと、電話の向こうの声が喜んでいるのがわかった。いい奴だなとアンドレはあらためて思う。
引き受けたものの、ふと気になって、アランに聞いてみる。どうして彼は、自分をそこまで心配して、そして信用してくれるのだろう。
「アラン、出会ったばかりのおれなんかを信用して大丈夫か?……“自由業”が“テロリスト”を指してることだってあるぞ」
アランは絶句した。沈黙していたのは数秒だったろうか。突然、吹きだして、つづいて爆笑。その笑い声があまりに大きかったので、アンドレは反射的に携帯を耳から遠ざけた。よほど笑いのツボにはまったのか、アランの笑いはしばらく止まらない。ようやく落ち着くと、
「おまえがテロリストだって?」
まだ声が余韻で少し震えている。
「ああ、意外に悪い奴かもしれない」
じゃあ、仮にそうだとしてとアランは前置きしてから言った。
「おれの信頼を裏切るか?」
「……いや……。それはできないと思う」
そうだろうそうだろうと、アランは満足気に言う。なぜか分からないが、おまえのことは信用して大丈夫だと、おれの中の勘みたいなものが言うんだと。
その言葉だけで不思議と納得させられてしまった。彼の方も、アランに対して同じような思いを抱いていたからだ。こいつとは既に友情のようなもので結ばれている、そんな風に思った。
アランはまだ喋りつづけている。アンドレは、原稿用紙の隅にアルバイトの日の日付をメモすると、丸で囲んだ。

車は市街地を抜けて、さらに西へと走りつづけていた。何だか見た覚えのある風景だなと気づいて、やっとアンドレは現実に戻った。このルートを最近、通らなかっただろうか。嫌な既視感――。
何だかまずい場所に近づいていると、心が警告を発していたが、まさか、そんな偶然があるはずはないという思い込みが、正しく客観的な結論を導き出すのを遅らせる。しかし、車のタイヤが前へ前へと回転するごとに、嫌な感じは胸騒ぎへと変わり、とうとう確信となった。本道から逸れ、見覚えのある森を貫く道に入った時だ。この先には―…。
アランからは仕事の内容と、彼が勤める会社の社長宅でのパーティーだということは聞いていたが、場所は一緒に行けばいいからと、教えてもらっていなかった。アンドレは頭を抱えたくなった。今の彼にとって他人に何かを決めてもらえるのは、とても楽だったので、この件に関しては、ただアランの言うがままに従っていたのを後悔する。いつもの自分だったならば、用心深く仕事の詳細や場所をあらかじめ訊いていたことだろうに。それに、まさか、そんな偶然があるとは思いも寄らなかった。彼が、オスカルと同じ会社に勤めているなどとは。
森の中の一本道は、薄暗くて先が見えない。まるで大きく口を開いた闇の中へ吸い込まれていくかのように、まっすぐに続いていた。思わず、運転席に手を伸ばし、ハンドルを奪ってUターンして引き返すところを想像する。しかし、そんなことができるはずもなかった。
一応、抵抗を試みる。
「アラン、ちょっと腹の具合が、いや心臓が、頭痛で急に帰りたくなったんだが……」
「おいおい、ここまで来て、それはないだろう」
実は、応募者が多数で、採用は抽選になると言って来たユランを、半ば脅すように説得してアンドレをねじこんでいた。今さらやっぱり来ないというのでは、アランの面目が立たない。
「……わかった」
アンドレは腹をくくった。アランがそこまでしてくれたのだと思うと、今さら後には引けない。せめて前日にでもわかっていれば断ることもできただろうが、今となっては、もう遅い。確認しなかった自分が悪いのだ。責任は取ろうと心に決める。
それに、仕事は前準備も必要ないような、清掃や物を運び込んだりする単純作業で、裏方が主だと聞いていたから、オスカルと鉢合わせすることもないだろう。数時間だけ、何とかやり過ごすせばいいのだ。
道路をトンネルのようになって囲んでいる森の木々が、今日は一層黒々と陰鬱そうに見えた。アランはハンドル操作をしながら、陽気に鼻歌など歌っている。こちらの気も知らずに。その暢気そうな顔を見ていて、ところで、こいつはオスカルのことを知っているだろうかと思ったが、怖くて訊くことはできなかった。

森を抜けると、例の豪壮な邸宅が現れた。今日は正門が開け放たれている代わりに、この間よりも警備員がたくさん配置されている。
アルバイトの集合時間は、パーティー開始の時間よりも3時間ほど早かったので、まだ客の姿はなかった。広々とした庭園の一角に臨時の駐車場ができていて、そこにアランは車を止めた。
敷地内も邸内も、会場のセッティングやゲストが現れる前に済ませておかなければならない山のような仕事をこなすために、どこかざわついた雰囲気があった。それは、アンドレにとって、いつか感じたことのある懐かしい雰囲気でもあった。あれは、どこだったろう。
集合場所に指定された一室に行くと、既に50人ほどが集まっていた。男性も女性もいた。年齢もさまざまだ。まずは、ここで仕事のわり振りと簡単な内容の説明を聞くことになっていた。
「それでは皆さん、名前を呼びますので、グループに分かれて下さい。それぞれの仕事内容を説明いたします」
髪を高く結い上げ、淡いピンク色の少し変わったシルエットのスーツを着た眼鏡の女性が、リストを見ながら名前を読み上げていった。アンドレの名前も呼ばれ、フランス窓の前に集まっているグループに加わる。
彼のグループの仕事は物品の運搬だった。その中で、調理場で足りなくなった食材やワインを倉庫やワインセラーに取りに行き、運んでくる係をあてがわれた。倉庫には屋敷の使用人が待機しているので、ただ言われた物を運んでくるだけでいい。これならばオスカルと顔を合わせることもあるまいと、ほっとする。
「しけた仕事で悪いな」
まだパーティーが始まるには時間があるので、一緒について来たアランが謝ったが、こういう体力勝負の仕事の方が、今はありがたいよと笑って見せる。それは本心だった。
ふと、誰かの視線を感じて振り返ると、先ほどリストを読み上げた女性がアンドレのことをじっと見つめていた。つかつかと彼の方に近づいてくる。
「あなた……!」
アンドレの顔を遠慮会釈もなく、じろじろと見つめたかと思うと、彼の周りを一周廻って、全身を上から下まで隈なく眺めまわして、次の瞬間、言い放った。
「その容姿で裏方はもったいないわ!一人、ギャルソンに欠員があるの。飲み物や食べ物を運ぶだけよ。簡単でしょ?そちらに回ってちょうだい」
「い、いやおれは……」
「うまくやってくれたら、これからも仕事を紹介してよ。連絡先はここだから。あなたなら、モデルでもいけるわ」
問答無用で、アンドレの手にカードを押し付ける。どうやら、このイベントを仕切っているのは彼女らしく、今日はきっと分刻みのスケジュールで動いているのだろう。部下らしい人物に二言三言、指示をすると、寄木細工の磨き抜かれた廊下をヒールの音も高らかに、振り返ることもなく去って行ってしまった。
カードには、“ヴィ・ド・ラ・レーヌ(女王の生活)社 エグゼクティブ・コンサルタント デザイン総合プロデューサー ローズ・ベルタン”という肩書きと氏名があり、連絡先が書いてあった。
「すげえ、押しの強え女だな。モデルだってよ、せっかくだから応募してみたらどうだ?」
アランは、にやにや笑っている。
「いや、おれは子供の頃から小説家になりたかったから……」
「プロの小説家なんて、なかなかなれるもんじゃないぜ。モデルの方が金になる」
アランにそう言われて、アンドレは苦笑すると、鼻の頭をかいた。

係員が、左翼棟から中央棟の一室へアンドレを連れて行った。この部屋だけで、彼のアパルトマンの部屋が2つか3つは入ってしまいそうだ。そこに、所狭しとさまざまな衣装が並べられている。
「さ、ここから好きな衣装を選んで。サイズも豊富だから、合うのがあると思うわ」
仮面舞踏会ということで、現代的なドレスやスーツはもとより、中世から前世紀風の衣装まで取り揃えてあって、自分で衣装を用意しないゲストは、ここから借りることになっていた。アンケートを取って、サイズとオーダーを取った結果、ほとんどが借りたいとの希望で、この数になったらしい。ベルタンの伝手で、映画で使用した衣装も中にはあったりで、なかなか本格的だ。装身具に、かつらやマスクも取り揃えてある。簡易の試着室と、化粧台が十数台設置されていて、ヘアメイクアーティストらしき数人がすでに待機していた。
会場のムードを壊さないために、表で接客をする従業員も、今夜は仮装する手はずになっているので、アンドレにも着替えろと言うのだ。普段なら抵抗があったかもしれないが、今日は、喜んでその指示に従った。
接客係用に用意された衣装の中から何着か選んで試着してみたものの、袖や裾が短くて合わなかったりで、なかなか決まらない。「そろそろゲストが来るから」とせきたてられ、サイズが合っていれば何でもいいと、最初に体に合った物に着替えた。深い緑色の絹地に縫い取りのある上着に、ジレとキュロットをはくスタイルで、首には布を巻いてリボンのようにして結ぶ。それにストッキングをはいて靴をはくのだが、この衣装は、あつらえたように彼の体にぴったりだった。万一、オスカルと鉢合わせしてしまった時のために、変装用として、長髪のかつらを選んで、仕事がしやすいようにリボンで一つに結んだ。これならば、一見、自分とは分からないだろうと思う。
鏡に映る姿を見る。まるで歴史物の映画で、きらびやかな衣装に身を包んだ貴族にかしずく従僕といった風だ。ここまで髪を長くした覚えはないが、不思議と懐かしいようにも感じる。
「ほら、ぐずぐずしないで!最初のゲストが着替えに見えたわ。持ち場に急いで!」
急き立てられて、衣装部屋を後にした。いよいよ戦闘開始だ。粛々と仕事をこなし、あとは、オスカルにさえ顔を見られなければいい。長い廊下を急ぐ。ただ、それだけのことだ。



(つづく)






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