邸内では使用人達がまめまめしく立ち働いていた。久しぶりにジャルジェ家の娘たちが全員勢ぞろいした上に、子供や孫たちまで伴って来たとあれば、目が回るほどの忙しさである。 飾りつけや、前日までに用意できることは既にすませてあった。メイン・ダイニング・ルームには、もみの木が置かれ、小さな人形や、ノエルゆかりの品をミニチュアにした、色とりどりの小物で飾られている。 今日一番大変なのは台所で、深夜ミサから帰った後に楽しむレヴェイヨンの準備の他に、軽食を用意したり、オスカルの姉達が伴って来た使用人たちへのまかないなどがあり、かまどは休む暇もない。料理人達は腕の見せどころで、料理の味はもちろん、手際よく段取りをこなすことが要求される。当日は彼らにとって、さながら戦場だった。 忙しそうな使用人たちの中に、オスカルはアンドレを探した。きっと今日は、彼も駆り出されているに違いなかった。 彼の姿がなかなか見当たらなかったので、オスカルは、会釈をしてちょうど横を通りすぎようとした小間使いの少女に、アンドレの所在を尋ねた。 少女はオスカルに呼びとめられると、頬を染めながら、後方にあるドアを手で指し示して、アンドレなら、ばあやさんのお部屋にいるはずですわと答えた。 オスカルがノックしようと近づくと、ドアは少しだけ開いていて、そこから中の様子が伺えた。ベッドに横たわる小柄な老婆の脇に腰掛けて、アンドレが何か話している。老女が大きな声で、自分のことは放っておいていいから、早く屋敷の仕事に戻るように、自分が手伝えない分、彼がしっかり奉公するようにと言い含めているのが聞こえた。大声を出したせいで老女が咳きこみ始めたので、アンドレは背中をやさしくさすってやっている。 オスカルは、現代の彼とその祖母のことを思い出した。春にアンドレの故郷であるグラースに行った時、彼の両親と祖母に紹介された。堂々たる体躯の彼が、小さくてしわくちゃな老婆に怒鳴られながら、はいはいと素直にいうことを聞き、こき使われている様子を見たとき、おかしさと同時に、なぜだか泣きたくなったのだった。 声をかけそびれ、オスカルは廊下の壁によりかかって、彼が出てくるのを待った。 しばらく待っているとドアが開いて、アンドレが出て来た。すぐ横にオスカルが立っていたので驚き、用事があるなら声をかけてくれればいいのに、と言った。 「ん……。アンドレ、今、手すきか?」 「すまないが、少しだけ待っていてもらえるか?アンリエッタから、来客用テーブルクロスの予備はどこにしまってあるか、おばあちゃんに聞いてきてくれと頼まれて、聞きに来たんだ。それを伝えたら、すぐに行くから」 「では、東屋の近くの池のほとりで待っているから」 アンドレは頷くと、午後になって冷えこんで来たから、しっかり着こんで行けよと言い残し、伝言を伝えるために廊下を去って行った。 オスカルは一旦自室にもどり、コートを羽織ると庭に出た。さきほどル・ルーと話していた時よりも気温がかなり下がっているような気がする。 池のほとりまで来ると、草の上に腰を下ろした。池の表面には薄い氷が張っている。 しばらく待っていると、手足が冷えてきた。かじかんだ手に息を吹きかけていると、枯れ葉を踏みしだきながら近づいてくる足音が聞こえた。 アンドレは、待たせて悪かったと謝ってから彼女の横に座った。 「何か話でも?」 「アンドレ……」 オスカルは打ち明けようか打ち明けまいか、まだ迷いながら神妙な顔つきになった。 「おまえ、昨夜からずっとおかしいぞ。何だかいつものおまえではないようだ」 やはりアンドレは勘付いていたようだ。彼女はその言葉で決心がついた。 「実は……。頭がおかしくなったと思われるかもしれないが、最後まで話を聞いてほしい」 オスカルは池の水面を漂っている氷の小片を見つめながら言った。 「私は、この時代の私ではないのだ」 アンドレからは反応がなかった。呆気にとられて口がきけないのだろうかと、オスカルが傍らの彼の横顔をちらりと盗み見ると、彼は意外にも微笑んでいた。 「そうか。にわかには信じがたい話だが、その方がおまえの行動の謎に説明がつく。自分の部屋まで連れて行ってほしいと甘えたり、おれのことをじっと、いつにない眼差しで見つめてみたり……その………今朝の……あれもありえないし」 アンドレは自嘲気味に笑ってからつづけた。 「何より、今は衛兵隊にいるのに、今朝、“近衛”と言っただろ?あれで確信した。おまえが自分で決めて願い出た転属だ。絶対にまちがうはずがない」 アンドレに見抜かれていたことに、ほっとする。ならば早く言ってくれればよいのにと、オスカルがアンドレの腕を肘で軽くこづくと、彼は痛いぞと言って、こづかれた場所をおおげさにさすってみせた。 オスカルは、自分が21世紀に生きる人間で、断片的な記憶や史実から、彼女がこの時代のオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェの生まれ変わりではないかと思っていることを話した。アンドレは半信半疑ながらも、彼女の話に耳を傾けている。 それから昨夜、自分の身に起こったことを全て話した。鏡の前に立ったとき、鏡から声が聞こえて来て、つづいて白い煙のようなものに包まれたと思うと、この時代にやって来ていたこと。 「まるでジョゼフィーヌ様が子供の頃に話していた、“魂を吸い取る鏡”の話みたいだな」 「おまえもその話を知っているのか!?“十字軍の財宝の話”に、“恋人を探してさまよう令嬢”の話は?」 「 おれが聞いた話では、令嬢ではなくて、“死んだ子供の後追いをして、天国に行けなくなって夜毎さまよう母親の話”だったけど」 どうやら、オスカルが現代で姉から聞いた話は、変遷してはいるが、18世紀でも既に怪談話として子供達の間に広まっていたようだ。 「鏡の話、もっと詳しく何か聞いていないか?」 アンドレは子供の頃に聞いた話だからな、と言いながらも必死に思い出そうとしてくれている。 「そうだ、その鏡は、確かどこか異世界につながっていて、夜、その鏡の前に立つと、自分ではない人間が映って、そいつと入れ替わって違う世界に引き込まれてしまう……って、確かそんな内容だった」 「それだ!」 オスカルはぽんと膝をうつと、目を耀かせた。こちらの世界に引き込まれた時、自分はこちらの世界の鏡の前にいた。たまたま同じ日の同じ時刻に二人が鏡を覗きこむことによって、次元がつながり、こちらのオスカルと自分は入れ替わってしまったに違いない。 「それならば、もう一度同じ時刻に、同時に鏡の前に立てばよいのだ!」 保証はないが、可能性は高い。 「でも、……どうやって?」 アンドレの言葉に、意気揚揚としていたオスカルの表情は一気に曇った。 偶然、ふたたび二人が、同時刻に鏡の前に立つことなど、絶望的な確率だった。 「何か、向こうと連絡を取る手段でもあればよいのだが。―…無理か」 オスカルは額に手を当てて思案に暮れた。アンドレも、どうにかならないものかと思いつくままを口にを出してみる。 「遠く離れた人間に用件を伝えるとすれば、伝言するか、手紙か……」 手紙という言葉を聞いたとき、オスカルの脳裏に、以前見た映画のシーンが浮かんだ。スポーツカー型のタイムマシンで過去と未来を旅する老科学者と少年は、旅の途中で離れ離れになるが、科学者が過去から出した手紙が少年の元に届いて、連絡をつけることができたはずだ。 「そんなSF映画を見たことがあるぞ。未来へ手紙を出すんだ。でもどうやって?」 オスカルの独り言を聞いて、今度はアンドレが何か思いついたようだった。 「それならば、適任の人物を知っているぞ。うまくいくかどうか確信はないけど」 少しでも確率の高い方法があれば、それにすがってみるしかない。オスカルはアンドレの案に賭けていることに決めた。 善は急げだ、すぐに手紙を書こうと、オスカルは立ち上がった。アンドレもつづいて立ち上がる。その拍子に、彼女の手に彼の手がぶつかって、その冷たさにアンドレが言った。 「体が冷え切っているようだぞ。だからしっかり着込めと言ったのに」 「そんなことはないぞ、ほら!」 現代のアンドレもずいぶんと心配性だが、こちらのアンドレは輪をかけて、まるで保護者みたいなだと思いながら、ちょっとしたいたずら心がわいて、オスカルは冷え切った自分の手を彼の首筋に触れさせた。彼女の鼻先は彼の胸に触れるほどに近づく。 彼はびくりと身を震わせたが、冷たさに驚いたからばかりではなかった。 彼の目の表情が先ほどと変わる。手が彼女の手に添えられた。次第に力がこもっていく。 「アンドレ?」 予想外の反応に、オスカルがとまどっていると、アンドレは、はっとしてすぐに手を離した。 「早く行こう、凍えてしまう」 キュロットについた草を払い落としたアンドレは、オスカルの方を振り返らずに、ずんずんと屋敷の方へ歩いて行ってしまった。 取り残されたオスカルは、何か、ひどく残酷なことをしてしまったような気がしていた。 自室で待っていたオスカルのもとへ、アンドレが朗報をたずさえて帰って来たのは、それから3時間ほど経過してからのことだった。冬の太陽は、もうほとんど沈みかけていた。アンドレが首尾を報告する。 「ショヴィレは引きうけてくれたよ。これで多分だが、うまくいく」 ショヴィレは、昨日聞いた、オスカルのためにリストを作ってくれたという男の名前だった。 彼女が顔をほころばせたのとほぼ同時に、ノックの音がした。 「オスカルさまにお届け物でございます」 運ばれて来たのは大きな花束だった。白い大輪の薔薇を中心に、センスよく小花があしらわれている。この時代のこの季節に、こんなに見事な花をそろえるのは、かなり難しいはずだ。いったい誰からだろうと思ってカードを見る。 〜 愛しい方へ 貴女が生まれたこの日を祝して G 〜 「元求婚者殿は、まだご執心のようだな」 アンドレはいっしょにカードをのぞき込んで言った。心なし沈んだような声だった。 「結婚話があったのか?」 「ああ、少しまえに。立ち消えになったが……」 アンドレは何かを思い出すように目を伏せた。 身分違いの叶わぬ恋。自分はプロポーズすることができないのに、横から割り込んで来た男が易々と求婚してきたとしたら、彼はどれほど苦しんだのだろうと、その辛さはオスカルにも想像がついた。この短い時間を過ごしただけでも、彼が彼女をどれほど深く愛し、求めているかがわかる。 オスカルに哀れむような目で見つめられているのに気づき、アンドレは、急に笑顔を作ってみせた。 「プレゼントといえば、昨日、ル・ルーがくれたものは何だった?もう箱を開けたか?」 そういえばまだだったと言ってオスカルは、しまってあった箪笥の引出しから箱を出す。蓋を開けようとして、手を止める。 中身は気になるが、これは彼女がもらったものだ。わたしが開けてしまっても構わないだろうか、とアンドレに尋ねると、おれの分も入っているらしいから、開けてみてくれ。もし叱られたら、おれが謝っておくからと言った。 すまないなと言いながらも、アンティークに目がない彼女は、アンドレの言葉に甘えて箱を開いた。 そこには外側に青いベルベットを張ったケースが二つ入っていた。ケースを開くと、思わず感嘆の声があがった。中身はどちらも、直径3.5cmほどの小ぶりの懐中時計だった。 18世紀当時、懐中時計はアクセサリーとしても愛好されており、外装も内装も趣向をこらしたものが多かったが、この時計の細工はその中でも一級品だった。 外側は鍍金されており、幾何学模様とつる草が細かく彫刻されていた。蔓には緑色のエマイユが塗られている。大きめの時計はつる草だけだが、一回り小さい方には、薔薇の花も彫られていて、それに塗られた白の半透明エマイユから、下の金細工が透けて見えるしゃれたデザインになっていた。二つを近づけると、ちょうど一服の絵のようにも見える。 時計を吊り下げるための鎖にも同じつる草のモチーフが繰返されていて、時計のぜんまいを巻いたり、時刻合わせをするための鍵と、持ち主の名前が刻まれた印章も付いている。時計の蓋を開けてみると、白いエマイユにローマ数字が書かれ、ジョベールの銘が刻まれていた。 一方の印章にはAndre、もう一方の印章にはOscarと刻まれた水晶がはめこまれていた。Oscarの名前が入った方の時計の鍵が、またこっている。オスカルが軍人であることを意識してか、はたまたヘブライ語で“神と剣”を意味するという由来を知っていたからか、剣をかたどったものになっていたのである。時計の裏にはジャルジェ家の紋章である剣をささげもつ獅子まで刻まれている。 細工の見事さからも、デザインに込められた意味からも、作らせた者の思いが伝わってきた。どこからどこまでも、彼と彼女のための時計だった。 「こんなに高価なものを、おれなどがもらっても構わないのだろうか?」 アンドレが時計の見事さに気後れしたように言うと、オスカルが、自分の時計を彼の目の前にぶら下げて言った。 「おまえ以外に誰が、この時計の片割れを持つと言うのだ?」 時計はカチコチと小さな音を立て、彼の鼻先でゆらゆらと揺れた。 「こっちの箱の中身はなんだろうな?」 ル・ルーから受け取った箱は、もう一つあった。そちらもついでに開けてみることにする。中から出てきたのは、真鍮でできた小鳥だった。どことなく懐かしいような真鍮の風合いは、鳥にあたたかみを与え、今にも動き出しそうだった。よく見ると、まっすぐに広げた羽の下にプロペラ状の駆動部がついていた。内部には細かい仕掛けが入っているようだ。箱の中にはぜんまいを巻きしめるための小さなハンドルもいっしょに入っており、鳥の背部には、それを差しこむための穴が開いていた。どうやらこの数ヶ月、ル・ルーがジョベールの工房に入り浸っていたのは、これを作るためだったらしい。 「なんだろう。からくり細工だろうか」 アンドレが、ジョベールはモンテクレール城で精巧な機械人形を作らされていたから、これもきっと何か仕掛けがあるのだろうと言った。 彼はハンドルを背中に差しこみ、時計回りに回してみた。すると、ジージーとかすかにぜんまいの音が聞こえ、羽の下のプロペラが回り始めたが、自力で飛び立つほどの揚力は生じないようで、ぜんまいの力は手の中でだんだんと弱まっていき、やがて止まってしまった。 今度はねじを巻いてから、紙飛行機を飛ばす要領で空中に投げてみた。小鳥は天井付近まで飛びあがると、そこで美しい円を描いて旋回しはじめた。 「かなりの重さがあるのに。すごいぞ!どんな仕組みになっているのだ?」 飛ぶことには人一倍感心のあるオスカルが目を輝かせた。 二人が鳥の動きを目で追っていると、何度か旋回した後で羽がぐらぐらと揺れ始めた。ぜんまいの動力が尽きるにつれ、軌道はだんだんといびつな楕円になっていき、とうとうきりもみ状態で失速したかと思うと、鳥は立てかけてあった例の鏡の方に落ちていった。慣性でまだ回っていたプロペラが、かけてあった布地を巻きこみ、鳥は、布に絡みつかれ鏡から惨めな格好でぶら下がった。 鏡が鳥の重さでぐらりと傾く。立てかけ方が不充分だったようで、バランスを崩したのだ。二人は慌てて駆け寄り、支えようとして手を伸ばした。 だが、その手が届くのよりも、鏡が床に倒れ込む方が先だった。 (つづく) |
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初出:2008年12月 改訂:2010年01月 |