床にぶつかって、軽くバウンドすると同時に、銀色の破片が飛び散った。ガラスの割れる大きな音がする。 床の上に転がった鏡の欠片に、放心したようなオスカルの顔が映りこんだ。二人とも呆然と立ち尽くしている。 マントルピースの上の時計に目をやる。計画した時間まで、あと数時間しかなかった。 オスカルは計画の実行を今夜と決めていた。十分に気をつけてはいるが、自分が18世紀にいる時間が長くなれば長くなるほど、歴史に重大な影響を与えることをしでかしてしまう可能性が高まるし、26日からは、18世紀でも21世紀でもそれぞれの仕事が待っている。それに何より、彼女にとって最後かもしれない家族とのノエルを出来るなら過ごさせてやりたくて、今日中に決着をつけることに決めていたのだ。 しかし、過去と現在をつなぐはずのゲートは、目の前であっけなく粉々になってしまった。手紙が届くとか届かないとか、いつ実行するか以前の問題だ。 「オスカル」 まばたきすることも忘れて、残骸を見つめている彼女の肩に、アンドレが手を置いた。 「アンドレ、鏡が……、鏡が……」 「ああ、ともかく落ちついて」 アンドレは抱えるようにして彼女をソファまで連れて行って座らせた。自分もその横に腰を下ろす。 二人共、しばらくの間押し黙っていた。言葉が見つからない。 肝心の鏡が割れてしまっては、もうどうしようもない。考えたくはなかったが、このままもう二度と戻れない可能性もあるわけだ。 「もしかして、これは彼女の意思なんじゃないだろうか?」 オスカルはぽつりと呟いた。 「え?彼女って?」 「この時代のオスカルだよ。あの時、この時代に精神が飛ばされた時、彼女は、ここから逃げ出したいと言っていたんだ」 鏡の中から聞こえて来た言葉を思い出した。不安定な世の中、休暇も取れないほどの激務。そして、さらに激しい嵐の予感。そんな不穏な時代で彼女は、女だてらに孤軍奮闘していたのだ。つらいはずがない。 「もう、戻って来たくないんじゃないだろうか」 自分は彼女の身代わりにこの時代に呼ばれたのかもしれないと思う。急にアンドレが大きな声を出した。 「そんなことはない!!あいつは誰かを犠牲にして逃げ出すような人間じゃないよ!それに、本気で逃げ出したいのなら、結婚を承知して軍を辞めればよかったのだから……!」 まるで自分が卑怯者とでも言われたかのような口ぶりだ。 「そうだな……確かに。おまえの言うとおりだ」 この時代のアンドレは、彼女のことを誰よりも理解し、愛しているのが分かる。彼女が少しうらやましかった。現代の彼も、アンドレもまた、わたしのことを信じて待っていてくれればいいのだが、彼が帰って来るのは25日の午後だ。自分がこんな状況に陥っているのを知る由すらないだろう。 すべてをもう一度抱きしめて、確かめるために帰りたい。 「大丈夫だよ。何か他の方法があるはずだ」 気落ちしている彼女を心配して、アンドレが元気づけるように言った。そうだな、とオスカルも一応はうなずいた。 「鏡、片付けようか」 オスカルが床の上に倒れている鏡に近づいた。からくり鳥は鏡の下敷きになってつぶれてしまっている。 彼女は早速、鏡を起こし始めた。アンドレが慌てて手を貸す。鏡は思ったよりも軽く、二人なら易々と持ち上げることができた。 ゴトンと重たげな音を立てて、飾りについていたアモールが床に落ちて転がる。先ほど倒れたときに、この小さな天使像と鏡をつないでいた接着部分が破損していたようだ。 鏡の下から出てきた小鳥は見事にひしゃげ、片方の翼は折れてしまっていた。頭部もわずかにだが歪み、まっすぐだったくちばしは、かぎ状に曲がってしまっている。繊細な内部機関はもっとひどい状態になっていることだろう。 オスカルは小鳥を拾い上げた。この鳥の姿がこれからを暗示しているようで、暗澹たる気持ちになる。 「元通りにガラスを取りつければ、鏡は直るかもしれないよ」 もう一度鏡を床の上に戻してから、アンドレが言った。 「そうだな」 オスカルは気のない返事を返した。そうだとしても、18世紀の技術では、一体何ヶ月先のことになるのかわからない。 もしも数ヶ月間、このままだったとしたら、史実ではフランスには革命が起こり、ここにいるアンドレと、そしてこのオスカルは命を落とすのだ。 「そう心配するな。おれが側にいてやるから」 アンドレのまなざしが一層やさしくなったのが、オスカルには少しだけ哀しく見えた。 「痛い目に合わせて、アモールにもかわいそうなことをしてしまった」 オスカルは、床に転がっていた天使の像を拾い上げた。腕を高々と伸ばした子供の彫刻は、鏡から外れてしまっても、相変わらず愛くるしかった。 ふと手の中の像を見て、違和感を覚えた。何かが違っている。ふっくらとふくらんだ頬も、ほほえんだ顔の表情も、短い巻き毛も手足の伸び具合も、目に嵌め込まれたラピスラズリも記憶のままだったが、どこかが違う。穴があくほど細部まで見つめ、それから鏡についていた時に見上げた位置まで持ち上げてみた。 「アンドレ、これ、この鏡はどこから運んで来たのだ!?」 「言われたとおり、物置部屋からだけど?」 オスカルの勢いに気おされながらアンドレが答えた。 「その上の、はしごを上った小部屋からか!?」 彼女がアンドレにつめよった。アンドレはのけぞるような姿勢になる。 「いや、物置部屋と言っていたから。探したらこの鏡があったからな。はしごの上の部屋まで行っていないよ。」 オスカルが十中八九まちがいないと確信を持った。まだあの鏡は、あの屋根裏部屋にあるはずだ。 拾い上げたアモールは、彼女の部屋にあった鏡の彫刻と、ちょうど線対称になっていたのだった。これだと、鏡の左側についていないと不自然なデザインだ。現代にあった鏡には、確かに右側についていた。 オスカルは、着いて来いと言い捨てて部屋を飛び出していた。慌ててアンドレが追う。階段を駆け下り、長い廊下を早足で通りぬける間、オスカルはぶつぶつと一人言を言っていた。 「そうだよ、あれで鏡が壊れてしまってはタイムパラドックスが……動揺して、迂闊だった……」 布で覆われたままになっていたから、あれが例の鏡だと思いこんでいた。現代に完全な形で鏡が存在しているのならば、過去に壊れてしまっているはずはないのだ。少し落ちついて考えてみればわかることだった。 アンドレはわけのわからない呟きを聞かされながら、それでもしっかりと彼女に付き従っていた。 物置部屋の扉を少々乱暴に開けると、まっすぐにはしごを目指した。置いてある品物を何度か踏んづけたり、家具にぶつかったりした。 オスカルがはしごをのぼっていくと、アンドレもそれにつづいた。 屋根裏部屋に辿りつくと、昨夜と同じ場所に、例の鏡は昨夜の姿のままに立っていた。 「こっちが私の通って来た方の鏡だよ。よかった。無事だ」 おそらく、この鏡と割れてしまった鏡は一対のものだったのだろう。近くに並べてもいいし、少し離れて置いても部屋のよいアクセントになる。よく見ると、縁取りの左側に、使わないときは鏡の縁に沿うように折りたためる、突起がいくつか付いていて、対の鏡としっかり接合できるような仕組みになっていた。 あとは、手紙に書いた時間にここに立てばよい。 (つづく) |
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初出:2009年01月 改訂:2010年01月 |