エアポケットに陥ったように、急激に下降してみたり、ビュゾーの操縦は不安定だったが、それでも少し慣れてくると、窓外の景色に目を奪われずにはいられなかった。 機体が上昇するにつれ、眼下には壮大な自然のパノラマが広がっていく。 島々を囲むリング状の珊瑚礁。その中心部には巨大なラグーンが形成され、海の色がジェイド・グリーンからターコイズ・ブルーへと移り変わる。 その中間の微妙な色合いは何と表現したらよいのだろう。たぶん人間の言語の外にある色なのだろう。物書きのはしくれとしては少し悔しくて、何とか言葉を探してみるが、すぐには見つからない。 おれは絵心はないが、どんな絵の具を混ぜても、どんな最新のCGを使っても、描ききれないのではないかと思える海の色に、神の御技を感じずにはいられない。もっとも、おれ達の神を引き合いに出したら、島の神々がお怒りになるかもしれないが。 ひととき楽園の夢にたゆたっていたおれを、セスナの急旋回が現実に引き戻した。 首都パペーテのあるタヒチ島を旅立ってから、数十分でセスナは降下を始めた。ボラボラ島の町並みが見えてくる。 停止した機体から下りて滑走路に足をつけると、ちょうどジェットコースターに乗った直後のように、少し体がふわふわとした。 そんなおれの様子を、ビュゾーが腕組をして愉快そうに眺めている。 さて、ここまでやって来てしまったはいいが、これから一体どうすれば。そもそも勘だけで来てしまったが、それが果たして正解だったのかどうか……。 「私の操縦はお気に召したかな?アンドレ・グランディエ」 ビュゾーが話しかけて来て、おれは驚いた。 口調がさっきとは違う。発音もイントネーションもアナウンサーのような美しさで、お手本のような完璧なフランス語だった。 たしかさっきまで、ひどい訛りのフランス語で話していたはずなのに。 唖然としているおれに背を向けて、すたすたと滑走路を横切って行く。 慌てて追いかけて声をかけた。 「どういうことだ、ビュゾー!」 ビュゾーは片手をあげると、黙ってついて来たまえと言う。 仕方なく後をついていくと、空港を出てしばらく歩き、船着場に着いた。 ビュゾーはあごをしゃくって一艘のモーターボートを示した。操舵席には真っ黒に日焼けした小柄な老人が立っていた。 「あれに乗ればオスカル嬢の待っている島に行けるよ。よろしく伝えておいてくれ。では。」 「待て!」 去っていこうとする奴の襟首をつかむ。 「どういうことか説明しろ」 ビュゾーの言動にいらついたおれは胸倉をつかんで問い詰めた。こいつとオスカルはどういう関係なんだ? 「まあ、そう熱くなるな。男に迫られて喜ぶ趣味はない、手を離せ」 おれが離れると、ようやくビュゾーはこれまでの経緯を説明し始めた。 彼は軍人であるオスカルの父親の元部下で、今は退役してタヒチで観光業を営んでいるのだという。1ヶ月ほど前に彼女に相談されてから今回のプランを練り、手配をしたのは彼で、おれが無事に彼女の元に到着できるように途中から見守っていたというのだ。 「オスカル嬢からギリギリまで手を貸すなと言われていたから黙ってみていたけど、なぞかけの答えをどう出すか正直、興味津々だったよ。女心を利用するとはね。君もなかなか……」 「まさかマドレーヌもぐるなのか?」 「いや、彼女はたまたま巻きこまれただけで、純粋に君に協力してくれたのだよ」 そうか、だからボラボラ島だと彼女が言った時に、あんなにもおれをせかして横道に逸れないようにしたわけか。 ビュゾーが唐突に言う。 「しかし、この3日間ほどつきあっただけだが、将軍のお嬢さんは実に魅力的で不思議な女性だね。ああいうタイプは今までなかった」 「おい…!」 こいつはおれを怒らせようとしているのか? 「冗談だよ。将軍には借りがあるのでね。令嬢にちょっかい出したりはしないさ。さあ、早く行かないと大切な姫君がご機嫌をそこねるよ。なにしろ彼女は君だけしか眼中にないようだから。Au revoir,Monsieur Grandier!」 カーキ色のバーミューダパンツのポケットに両手を突っ込んで遠ざかっていく背中に、おれも別れの挨拶をした。 「……Adieu!」 もう二度とおれ達の前に顔を出すな。 ビュゾーの立てた計画にこれ以上乗るのは癪にさわったが、ともかく用意されたモーターボートに乗ることにした。痩せた小柄な船頭は無口で、おれがシートに座るのを確認すると、黙ってボートをスタートさせた。 太陽の位置からすると、さらに南に向かっているようだ。 波はかなり高かったが、ボートはその上を滑るように走っていく。おそらく、潮の流れの細部まで知り尽くして、海の表情を読み取る力がこの老人にはあるのだろう。 ボートは風をきって南へ南へと進む。トライバルなタトゥーがびっしりと彫られた老人の腕が海上に向かって伸びた。指差した先にはイルカの群れがいた。時に戯れるようにジャンプしたりしながら、ボートとしばらく双走していたが、やがて沖へと泳ぎ出して見えなくなってしまった。 最後に光った銀色のしっぽを見て、彼女にも見せてやりたかったなと思った。 いくつもの島影を後方に見送り、ある小さな島の砂浜でボートは止まった。朽ちそうな木造の船着場の杭に、もやいをかけると、ひょいと思いがけない身軽さで飛び降りた老人の手を借りて、おれは島に上陸した。 辺りに人影はない。白い砂浜はすぐジャングルに変わり、その向こうに険しい岩山が見える。2〜3時間もあれば周囲を一周できてしまいそうな小さな島。植物と野性の動物以外は何もいなさそうだ。 背後でエンジン音がした。いつの間にか、もやいを解いた老人は、ボートの上から手を振っていた。ちょっと待ってくれ!おれはこれからどうすれば、そう叫ぶ間も与えず、モーターボートはぐんぐんと島から離れていく。波打ち際まで追いかけたが、海に帰ってしまった老人が陸地を振りかえることは二度となかった。 ビュゾーはここに彼女がいると確かに言った。 覚悟を決めてあらためて周囲を見渡すと、山と反対の方に小屋のようなものが見えた。あきらかに人の手によって造られた建物だ。おれは白い砂を踏みしめながら、たった一つのてがかりに向かって歩き始めた。 (つづく) |
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