砂浜を歩いていると、ベルルッティのアレッサンドロに砂が入り込んできた。 身に着けるものには無頓着な方だが、先月オスカルと出かけた際、靴屋のショーウィンドーで一目惚れしてしまって、おれにしては珍しく高価な買い物をしたのだった。 独特のパティーヌ(色付け)でミディアムブラウンに染められた皮が海水で変色していく。 ようやく履きなれてきたところだったのに……。気に入っていたんだがな、おれのアレッサンドロ。 こんなことならビーチサンダルでも履いてくればよかったと思う。行き先はてっきりパペーテだと思っていたから、まさかこんな無人島くんだりまで来ることになるとは夢にも思わなかった。 だが仕方ない、オスカルのためだ。 木々の切れ目から、小屋の全容が見えてきた。近くに寄ってみると、小屋と呼ぶのは似つかわしくない大きな一軒家が、砂浜から海に向かって張り出した桟橋の先に建っていた。いわゆる水上コテージというやつだ。 桟橋のたもとまでやって来たが、やはり人っ子一人いない。 丸太を組んだ桟橋を渡る。橋脚をなでるように穏やかな波が寄せては引いていく。 コテージの入り口で立ち止まった。チャイムらしきものがあったので押してみる。反応がない。大人しく座して待っていてはくれないのか、わが姫君は。 試しにドアを押してみると、音もなく開いた。こんな無人島だが、蝶番にまで手入れが行き届いているようだ。 中はすぐリビングになっていたが、やはり誰もいない。部屋の右側はすぐダイニングキッチン、左側にも部屋があるようだった。正面の大きな窓の向こうは広いバルコニーがあり、木製のテーブルと、椅子が一対置いてあった。バルコニーから海面に階段がつづいていて、そこから直接海に入れるようになっている。バルコニーの脇にある入口はおそらくバスルームだろうか。 隠れられるとしたら、バスルームか、左側の部屋か、玄関ホールの上に突き出したロフトか……。 そう考えていると、 「動くな!」 背中に何か固いものが押し当てられた。 声はもちろん聞き覚えがあった。 ここまで付き合ったのだからと、黙って両手をあげて、最後まで茶番に乗ることにした。 「ゆっくり、ゆっくり振りかえれ」 はいはい、わかりましたと後ろを振り返ると、 パンッ!! おれの目の前で破裂音がして、勢いよく何かが天井に向けて発射された。つづいてしゅわしゅわという音を立てながら、瓶の口から泡が噴き出した。 シャンパンの瓶に閉じ込められていた炭酸が空気に溶けていく。 「Bon Anniversaire!Andre!」 顔を見たら、開口一番、文句の一つも言ってやろうと思っていた。 だが、彼女の姿を見た途端、飛び出して見つからなくなったシャンパンの栓のように、いうべき言葉がどこかへ消えうせてしまった。 右手にはグラスを2つ。左手には今開けたばかりのシャンパンの瓶をもった、女神。 女神というのも陳腐な表現だと思うが、絶海の孤島という非日常が、彼女に普段とは違うベールをかけたようだった。 黒い地に極彩色の草花や鳥や蝶が舞うパレオを身につけたオスカルは艶然と微笑んでいた。身につけた原色の布地が、彼女の白い肌を強調するかのようで、真夏の太陽にも負けない光り輝く金の髪がアンバランスでエキゾチックだ。 いつもの人を寄せつけない清廉さのどこに、この妖艶さを隠していたのだろう。顔かたちは彼女なのに、漂わせる雰囲気が全く違う。 湿度のせいだろうか、気温のせいだろうか。それとも頭に照りつけていた太陽のせいだろうか。眩暈がしてきた。 「どうしたのだ?突っ立っていないで、まあそこに座れ」 女神が男言葉を話した。それで少しだけ普段の調子を取り戻す。 「オスカル、これは何の真似だ?」 オスカルが意外そうな顔をする。 「なんだ、ここまで来てわからないのか?おまえの誕生祝いに決まっているではないか」 「たぶん、そうだとは思ったけど、どうしてタヒチ、しかもこんな無人島まで呼び出されたかってことさ」 「覚えていないのか?」 「何を?」 オスカルはグラスとシャンパンの瓶を丈の低いテーブルにそっと置くと、バルコニーに面した窓辺に寄りかかった。 「先月、二人で買い物をした時に水着の試着をしただろう?おまえが、わたしの水着姿を他の男に見られたくないとか何とか言うから、おまえは靴を買ったのに、わたしは何も買えずに帰った」 そう言えばそんなことがあったっけ。すっかり忘れていたけれど。 機能性を重視した水着なら持っているが、見せるための水着など買ったことがないと、とっかえひっかえ、かなり長時間試着を繰返していた。 「だから、こうして無人島で2人っきりになる機会を作ってやったのだ」 眩暈がおれを襲った。さっきとは違った意味で。 水着姿を見せたかっただけ……? 「もっとも、そこの電話で呼べば、すぐに隣の島からセキュリティでもメイドでも駆けつけて来られるようにはなっているがな。今日は誰も来ないように、ちゃんと言ってある」 オスカルは、どうだと言わんばかりの顔をしている。 そんなことのために、丸一日以上かけて、地球を半周近く回って、ここまでおれはやって来たというのか?最初の飛行機に乗るまでに、おれがどれだけ消耗したか、その後もどれだけ引っ掻き回されたか。 「予定より少し遅かったが、ビュゾー大佐がついていてくれるから大丈夫だろうと思った。あ、大佐はあだ名で、彼が元軍人で父の部下で……」 「もう聞いた。恩があるって言ってたけど」 「うん。若い頃いろいろ女性関係が派手でな、問題になると上司である父がかばったらしい。父上の名前を騙って口説いた女性との隠し子騒動なんていうのもあった。あれはおかしかったぞ。……もし本物だったら、わたしには弟ができていたんだが。うちの親は堅物だから、かえってそれくらいちゃらんぽらんな男の方が馬が合ったらしい。結局早期に退役してしまったがな」 おれは奴の顔を思い出して憮然とする。 そんな女たらしが3日間、オスカルと2人っきりだったわけで、他に誰もいないこの島で、いったいどういう……。 「だが根はいい人だろう?優しいし、何より」 おそらくその優しさは人類の半分にしか向けられない優しさだと思うぞ。それに"何より"?その先が気になる。 「軍でならした彼の操縦テクニックは天才的だ!おまえもそう思っただろう?」 え、どこがだ?おれの時はそりゃひどい乗り心地だったけど。 「どんな気流の乱れた場所でも、それを感じさせないあの優雅な飛行。それにあの芸術的なランディングといったら」 オスカルはうっとりと宙を見つめた。 何もなかったと否定されるよりも鮮やかに、おれの疑念が解けた。 おれの時の荒っぽい操縦も、着陸時に3度もバウンドしたのも腑に落ちた。小馬鹿にしたようなビュゾーの態度は、そういうわけか。 オスカル、うっとりするポイントがずれていないか? "なにしろ彼女は君だけしか眼中にないようだから" ああいうタイプの男は、男として見てもらえないことで簡単にプライドが傷つくだろうことは、容易に想像がつく。 「本当はただおまえがこの島まで来てくれればよかったんだが、大佐が途中で苦労した方が喜びも大きいからと言って、あれこれ考えてくれたんだ。男とはそういう生き物だからって」 それも、おれへのささやかな報復か。それとも、奴が女性を落とすときの手練手管をオスカルにレクチャーしたつもりか。 普通に島まで呼んでくれた方が、普通におまえと一緒に来られた方が、ずっとおれは幸せになれたと思うのだが。 「なんだ、気に入らなかったなら、帰ってもいいのだぞ」 黙りこくっているおれを見て、オスカルは心なし口をとがらせて言った。ここまで来てそれはないだろう。 「もうとっくに誕生日は終わっているけど?」 ボラボラ島に到着した辺りで、8月26日は終了してしまったはず。ここで怒らせてしまってはと思うが、一年に一度しかない誕生日をたった独りさびしく過ごしたのだから、繰り言のひとつも言いたくなる。 そう言いながらも彼女に近づいて、腰に手をかけた。 「ああ、それなら時差があるから、こっちはまだ8月26日だ、安心しろ」 とっくに計算済みだと、オスカルは得意げに言い放ち、おれの首に腕を回してゆっくりと顔を近づけてきた。 「Bon Anniversaire,……..Andre」 もう一度、今度は耳元で彼女がささやく。 おれは、彼女のあごを捉えると、そっと一つくちづけをした。 たぶん、もう旅の目的は達している。 その言葉が直接ききたくて、おれはここまでやって来たのだから。 せっかく彼女が用意してくれたプレゼントを、おれは、ありがたくいただくことにした。 確かに待たされ苦労した分の達成感はあるかもしれない。彼女の背中に腕を回し、パレオの結び目を解く瞬間、久しく感じていなかった高揚感を覚えた。子供の頃、バースデー・プレゼントのリボンをほどこうとした時感じた、そんな気持ち。 クリスタルブルーの水をオレンジ色に染めながら、太陽が水平線の向こうに消えていこうとする頃、ベッドの中で、おれはうつ伏せになっているオスカルの背中に流れる金髪を梳きながら、ふと思った。 大変な思いをさせられたが、こんな大掛かりな計画を立てたのは、彼女一流の照れ隠しではないかと。水着を見せたいがためなどという、きっかけが些細であればあるほど、そう思えた。 忙しい勤務の合間を縫って、連絡を取り合って、自身の準備もして、水着を選んで。 初めての誕生日をどう演出しようかと、あれこれ考えてくれたのだけは間違いない。 しかし。 「この旅行プラン、本当に全部あいつ独りで考えたこと、なのかな?」 眠っていると思っていた彼女の片目が開き、少年のようにいたずらっぽく光った。 開け放した窓から差し込む夕陽に染まって、頬はほんのり赤く染まっていたが、その瞳はどこまでもどこまでも深く、青かった。 (了) |
|
<<Prev. |