2人は北翼と呼ばれる、建物正面から見て右手に伸びる棟から周ることにした。見学コースの入口は王室礼拝堂にあり、そこはかつて、王太子ルイ・オーギュストとマリーアントワネットの結婚式が執り行われた場所であった。白を基調としたその空間は、祭壇に黄金がふんだんに使われていたが、華麗な中に、やはりどこか厳粛さを漂わせている。
宮殿内部もハイシーズンほどではないにせよ、観光客でごった返しており、さまざまな言語で感嘆の声があがっていた。
オスカルは高い天井を支えるコリント式の列柱を見上げ、ぐるりと内部を見まわした後、祭壇へ向き直って他の観光客達の頭越しに、黙って十字を切った。

次に2人が向かった北翼の端にある王室オペラ劇場は、その結婚式をこけら落としに開場されたものだった。
客席の木製バルコニーの欄干はつやつやと輝き、舞台の幕として使われている空色の絹織物は今もなお色鮮やかで、その上には黄金のブルボン王家の紋章が、栄光を示す2人の天使によって支えられていた。
しかしオスカルは押し黙ったまま無表情で場内を見つめている。
青と薔薇色と金色の空間は変わらずあったが、そこにはかつての楽の音も、きらびやかに装って座席を埋め尽くした貴族たちのざわめきもなかった。
彼女は内部を軽く見回しただけですぐに部屋を出て、ヘルクレスの間を通り、人波をぬうようにして宮廷レセプションや夜会が行われた正殿を足早に抜けた。
アンドレはそんな彼女にただ黙ってついていく。

総称して正殿と呼ばれる贅の限りを尽くした部屋べやは、ひとつひとつをじっくりと眺めたら時間がいくらあっても足りないくらいだろう。各地から集められた色とりどりの大理石、金糸の縫い取りがされた美しい絹、当代の芸術家達が心血を注いで生み出した絵画や彫刻の数々、豪華なシャンデリアに家具・調度、黄金の浮き彫りがきらめく壁面。
全てが芸術品でできているような空間を、だがオスカルは、さして関心もないようにちらりちらりと見るだけで、その歩はますます速くなっていった。

正殿の最後の間を抜けると、視界が急に開けた。鏡の間だ。17のアーチ型の高窓から、だいぶ西に傾いた太陽の光が斜めに入り、反対側の壁面にある鏡に反射して、それがさらに天井から吊るされたシャンデリアや燭台のガラスに乱反射していた。
かつてブルボン朝時代、王が公式に謁見を行った場所。第一次世界大戦終結時には、ここでベルサイユ条約が締結された。目もくらまんばかりの豪華さは、各国の大使や使者達にフランスの富と威光を見せつけるには十分だったことだろう。例えそれが虚飾に満ちていたとしても。
オスカルはこのまばゆい光景にも足を止めようとはしない。やはりここも黒山の人だかりで、人にぶつからずに通り抜けるのは難しいくらいなのにも関わらず、彼女はただ前へ前へと歩を進め、鏡の間を抜けた。後ろを全く気にする風もなくどんどん先に進んでいくオスカルを見失いそうになりながら、アンドレはその後を追った。

その先の南翼に入ると、かつての王妃の居室がある。寝所や接見の間などがある一連の部屋は、やはり豪華絢爛ではあるものの、女性らしい色使いや繊細さが感じられる内装になっていた。
アンドレがやっとオスカルに追いつくと、彼女は王妃の寝所として使われていた部屋に立ち尽くしていた。
壁もベッドもその帳も、椅子などの家具も、すべて同じ白の地に、色とりどりさまざまな花が細かく描かれ、それを黄金の浮き彫りが綾取っている。天井付近にはハプスブルグ家の紋章である双頭の鷲が掲げられており、ここがオーストリアから嫁いできた王妃の住まいであったことを物語っていた。

「オスカル」
とうとうアンドレが声をかけた。彼の方に振りかえった彼女の頬には、涙が一筋伝っていた。
「アンドレ……ここは、ここは、手入れのいきとどいた…―」
わなわなと震える唇が開き、絞り出すように呟く。
「……廃墟だ」

かつて国王を取り巻く貴族達が一つの町を形成していた場所は、修復が進んで往時の姿を取り戻してはいたが、そこに住む人はなく、調度は単なる飾り物にすぎず、当然のことながら、生活というものが感じられない。
オスカルが"覚えていた"場所とは、入れ物は同じでも中味は全く違う。
頬を伝っていた涙が、彼女のややとがった形のよいあごから一粒ぽとりと垂れた時、これ以上ここにいるのは耐えきれないとでもいうかのように、オスカルは元来た方に走り出した。
アンドレが慌てて追ったが、人の流れに逆行して走っていくオスカルの姿は、すぐにその波に飲み込まれるように見えなくなってしまった。

走りながらオスカルは思った。
"私は何のためにここへ来たのだろう?何を期待していたというのだ?"
話しの流れできまぐれに、ここへ来ることに決めた。落胆する理由は全くないはずなのに、勝手にがっかりして傷ついているのが自分でもわかった。だが今は感情をコントロールすることができない。

人の流れに逆らいながら、いくつかの部屋を駆け抜け、再び鏡の間に辿りついた。
急に、これまで聞こえていた足音やツアー客を先導するガイドの声などが、ぴたりとやんだ。

うつむき加減で走っていたオスカルは不思議に思って足を止め、顔を上げてみると、そこには、Tシャツとジーパンや、丈の短いワンピースなどを着た観光客達の替わりに、時代がかった衣装を着た人々が、当たり前のように立っていた。
金糸銀糸で縫い取りのある豪奢な上着と絹のキュロットを身につけ、かつらをかぶった伊達男達は噂話しでもしている風に見え、裾の広がったローブを身にまとい、宝石をちりばめた首飾りやイヤリングで飾り立てた貴婦人達は、扇で口元を隠しながら何やら笑いさざめいていた。
不思議と音は聞こえなかったが、今までオスカルの周りを取り囲んでいた観光客達と同じくらいのリアルさで、彼らはそこに存在していた。
オスカルは声も出せずに目の前で繰り広げられる光景をじっと見つめた。

やがて、貴族達がまるで波が引くかのように広廊の両脇に並び、真ん中に道を作った。向こうからひときわ華やかな貴婦人が、しずしずと歩いて来る。両脇の貴族達は彼女が目の前を通るとうやうやしくお辞儀をし、何か一声かけてもらえまいかと期待しているのがよくわかる。
高く結った髪は羽飾りと見事な細工の髪飾りで飾られ、ドレスは刺繍や最高級のレースをふんだんに使ったデザインで、ため息がこぼれそうだった。
だが、オスカルの目を引いたのは、豪華なドレスにも煌びやかな宝飾品にも負けていない、自信と威厳と美しさに満ちたその女性の顔だった。

ふと気づくと、細身の近衛士官が、その後ろに2、3歩離れて付き従っているのが見えた。優雅な物腰は崩さないまま、主人に何かアクシデントでもあろうものなら、すぐさま飛び出して身を呈して守れるよう、青い瞳はぬかりなく周囲を観察している。背中まで伸びた金髪が、歩くたびに肩口でかすかに揺れた。
顔がはっきりと見てとれるところまで、その人物が近づいて来た時、オスカルは、ああと呟いた。
"あれは、私だ"
オスカルはその周囲に、無意識のうちにアンドレの姿を探したが、その姿は見つけることができなかった。

貴人は時折、脇にかしづく者達にほほえみかけ、一言二言、言葉をかけながらオスカルの方に近づいてくる。だが彼女には目もくれずに脇をすりぬけ、後ろをついていく深紅の近衛服も王妃の御殿に消えていった。
女王の姿が消えると、脇に退いていた貴族達も三々五々、思い思いの方へと歩き出した。オスカルのすぐ目の前にいた青磁色の上着を着た男が振り向いて、脇にいた黄色いローブを着た女性の手を取った。ぶつかる、とオスカルが身構えた瞬間、彼らは彼女をすり抜けて、何事もなかったかのように行ってしまった。
あまりに何の痛みも感触もなかったことが、オスカルにはかえってショックだった。一人、二人……。他の何人かの貴族達も、次々に彼女をすり抜けては去って行く。

まるで自分が存在しない人間のように思え、気分が悪くなりかけたところに、前方から黒い髪をリボンでしばった青年が早足でやって来るのが見えた。
"アンドレ…!"
思わず声を出しそうになって、腕を伸ばしてみたが、やはり彼も彼女がそこにいることには気づかずに、彼女の伸ばした左腕をかすめて、さきほど彼の主が消えていった方向に去って行ってしまった。

愕然とする。自分が空気か幽霊のように誰からも関心を払ってもらえない存在であることに、冷や汗が出て来て息が苦しくなった。眩暈がしてふらふらと2、3歩前に踏み出した時。

彼女の体を誰かが抱きとめた。力強い腕だった。そのまま抱き取られる。うなじと腰にあてた手で体をその胸に引き寄せられた。
「オスカル、大丈夫か?人ごみで見失って、ようやく追いついた」
聞きなれた声が耳元でささやくのを聞いて、オスカルは安堵の息を吐き、その胸に顔をうずめて体重を預けた。




(つづく)









<<Prev. Next >>