チケットを手に入れてから、オスカルのアパルトマンがあるオートゥイユ地区を経由して、2人は高速A13号線に乗った。

パリ市街を離れて高速に入る手前で、アンドレは一度バイクを停め、後ろのオスカルを振りかえって注意した。
「あまり飛ばさないつもりだけど、しっかり掴まっててくれ」
街中ではそうでもなかったが、高速に入ってからは、アンドレにしがみつくようにしていなければ振り落とされそうだった。一部渋滞していた部分も、のろのろとしか進めない車を尻目にして、バイクはその脇を軽やかにすり抜けていく。

アンドレは決して乱暴な運転はしなかったが、バイク初体験のオスカルにとっては、内心ひやりとすることが少なくなかった。
時速1000キロ以上出る旅客機を操縦している彼女からすれば、バイクの速度などたかが知れているようであったが、分厚い鉄の壁に守られた中で感じる速度と、自分の肌で直に感じる速度では、全く質が違う。
皮膚が空気を切り裂くような感覚、鼓膜を振るわせるような風の唸り声。体で感じる速さと2輪車特有のおぼつかなさは、どこか彼女を不安にさせた。

だが。

彼女の緊張が伝わったのだろうか。アンドレが彼のウェストに回されたオスカルの手を軽く握って引き寄せてくれた。大丈夫だからオスカルとでも言うかのように。
彼女は思いきってアンドレの大きな背中に体を預け、彼の運転に身を委ねて余分な体の力を抜いてみた。皮の冷たい感触からは、彼のぬくもりは感じられないはずなのに、そうすると不思議に心が落ちついて透明になっていった。
それまでは恐怖心をあおるだけだった空気も風も、打って変わって心地よいものに変わっていく。
道路を取り囲む分厚いコンクリートの防音壁の上には、かすみがかかったような空があって、雲が浮かんでいた。午前中は快晴だったが、これから雨が降るのかもしれないと、そんなことを考える余裕ができたオスカルは、アンドレに借りたジャケットから、皮の匂いに混じってかすかに彼のにおいがするのに気がついた。


高速道路を下りると、ヴェルサイユ宮殿はすぐ目の前だった。
大厩舎の横を過ぎる。1679年に建造されたそこは、かつて王族だけが乗ることのできる馬が轡を並べていた。王や王子のため、完璧に調教された馬達。
突然、オスカルの耳に、馬のいななきと歓声が届いた。
後で知ったことだが、そこは今、馬術アカデミーになっていて、観光客向けのイベントを開催していたのだった。

アンドレは宮殿正門の前でバイクを停めた。彼女をそこに降ろし、宮殿の向かいにある駐車場にバイクを置きに行った。
アンドレを見送る彼女は、まだ少し体がふわふわとして地に足がつかない感じがした。ずっと同じ姿勢でアンドレにしがみついていたために凝った筋肉をほぐそうと、左手で右手を引っ張り上げるようにして、ひとつ大きく背伸びをした。
腕時計で時刻を確かめる。14時半を少し回ったところだった。

アンドレの姿が見えなくなると、一人残された彼女は見るともなく辺りを眺めた。
宮殿の周囲も中も、たくさんの人でごった返している。
さまざまな人種の、さまざまな年令の、さまざまな服装の人々。髪の色も肌の色も目の色も実にバリエーションに飛んでいる。そこにあるのは世界中から人が集まる観光地、ヴェルサイユ宮殿。

彼女は目の前の正門を見上げた。マラカイトグリーンに塗られた柵に、黄金で華麗な装飾を施した門の上には、王冠とブルボン王朝の紋章が太陽に照らされており、ここが王宮であることを今もなお主張しているかのように輝いていた。
往時の姿を留めているであろうその門は、彼女の記憶の底にある何かを少しだけひっかいた。その中にある風景のひとつにぴたりと照合し、閉ざされていた宝箱のふたが開いて中の宝石の輝きがもれ出すように、少しずつじわりじわりと何かが染み出してくる。
『またか……』
彼女は子供の頃から繰り返し見た恐ろしい夢や、アンドレと訪れたテュイルリー公園で見た白昼夢を思い出した。どちらも18世紀頃の出来事のようで、今自分が訪れているのは同時代にフランスに君臨した国王の居城。
だが、今湧き出してきたものは、オスカルを追い詰めるような夢や白昼夢とは違って、彼女にとって胸をしめつけつつも心地よいものだった。
初めて来たはずなのに、この場所をひどく懐かしく感じる。毎朝毎夜、当たり前のようにここを通っていたような気さえする。

「どうした?」
背後から、戻って来たアンドレに声をかけられて、びくりとした。
「ん……何だか不思議な気分だ。おまえは何も感じないか?」
オスカルが逆に尋ねると、アンドレは肩をすくめた。
「おまえと出会ってから何度かそんな感覚に襲われたことがあるけど、それ以前は全くなかったしな。もし、もしもその感覚が前世によるものだとしたらだけど、きっとある程度自分の人生に満足して死んだんじゃないかな、おれは。オスカルは死ぬ直前によっぽど後悔するようなことがあったのかもな。ああしておけばよかったとか、こうしておけばよかったとか。」
アンドレの解釈に彼女は困ったように笑った。納得がいったようないかないような気分のまま、時間がもったいない、行こうかとオスカルは歩き出して正門をくぐった。


宮殿までは石畳の内庭がつづいている。長方形に切り取られた石が規則正しく敷き詰められたそこは、それでもアスファルトの道路などとは違い、微妙にでこぼことして、踏みしめるごとに歩くという行為を意識させる。
オスカルが好んで歩く、パリに今なお残る古い街並みと同じで、彼女にとってその感触はどこか心地よくて、足に馴染んだ。

宮殿の北翼と南翼が抱え込むようにして形作る内庭を過ぎると、少し狭まった"王の内庭"と呼ばれる部分に達した。
オスカルの口から自然と言葉がこぼれ出る。
「左手の建物は、いまわの際の太陽王に『心残りはあなたのことだけだ』と言わしめた寵姫マントノン夫人の御殿、右手は王がかつて居住空間とした部分」
彼女が説明しながら指差す方向を、アンドレも目で追った。

不思議なことに、建物の外観を見つめるオスカルの脳裏には、鮮明にその内部までが再生されていた。わが家のどこにどの部屋があり、どこにどんな家具があるのかが、外からでも十分に説明できるのと同じように。ここに来たのは初めてなのに、まるでそこで生活したことがあるかの如く、それはガイドなどに載っている写真などとは違って妙に生々しかった。
自分の体内から、自然と高揚感が湧き起こるのが感じられる。瞳は知らず知らずのうちに、懐かしい故郷に帰って来た者かのように輝き、喜びを湛えていた。

この先には、威風堂々とした巨大な格子門が侵入者を阻むようにそびえ、その先に"大理石の内庭"と呼ばれる部分があるはずだ。
オスカルは記憶を辿るようにしながら、期待した方向に目を移した。

ところが。
そこにはオスカルの予想を裏切る光景が広がっていた。
「これは…!?」
思わず声をあげる。
そこには思い描いた建造物はなかった。かわりに、工事用シートで被われた不恰好な物体が、周囲とはひどく似つかわしくない様子で立っていたのだ。

2人から少し離れたところで、学生らしい集団に説明しているガイドの声が聞こえた。
「この門はフランス革命中に取り払われたものを、2006年より大修復工事を行って再現したものです。現在最後の仕上げを行っておりますが、今年の9月から一般公開されますから、またぜひ訪れてみて下さい」

"そうか、あの門はもうないのか。……革命―……"
夢心地でいたところに冷水を浴びせられ、否応なしに現実に引き戻されたオスカルの胸中には、ただの落胆ともいえない、形容しがたい複雑な思いが去来した。




(つづく)









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