オスカルはテーブルの端に寄りかかりながら、じりじりとドアが開くのを待っていた。
アンドレは、なかなか姿を現さなかった。近所を散策するような軽装だったから、上着かコートをはおり、財布や携帯電話など必要最低限なものを取ってすぐに戻ってくるものだと思っていた。
物音は聞こえているから、何か用意をしていることだけは確かなようだが、ヴェルサイユはパリからさほど遠くないし、泊まりで出かけるわけでもないのに、いったい何に時間がかかっているのだろうといぶかった。
キッチンの窓ガラスがカタカタと鳴った。風が強くなってきたようだ。

たぶん実時間としては15分くらいだったと思われる。凝視していたドアが勢いよく開いた。
「お待たせ、オスカル」
ようやく現われたアンドレのいでたちを見て、オスカルは目を丸くした。
彼は黒いレザーのライダースーツに身をつつみ、やはり黒皮のブーツをはいていた。パンツの部分には反射する素材で銀のラインが2本入っている。メーカーのロゴなどが入っていないから、オーダーメイドかもしれない。彼の均整のとれた体のラインにぴったりとフィットしていることからも、そう思えた。

「その格好は何だ?」
オスカルが尋ねると、アンドレは自分の胸元から足先を見下ろして、
「おかしいか?」
と尋ねた。
「いや…似合っているが、RER(高速郊外鉄道)かメトロで行くのではないのか?」
「今、13時過ぎだろう?鉄道でも1時間ちょっとだけど、この時期、ベルサイユがどれだけ混んでいるか知ってるか?チケットを買うのに3時間待ちなんてこともあるんだぞ。宮殿の閉館時間は17時半だから、そうなるとほとんど行った意味がない」
それを聞いてオスカルはさらに目を見開いた。
そう言われてみればそうだ。宮殿はいまや美術館と化していて、開館時間があり、入場料を払って入らなくてはならないのだ。全くそのことに思いが及ばなかったのが不思議だった。ただそう説明された今も"チケット"や"閉館時間"という言葉に違和感が残る。

「さて、これから忙しいぞ。十分な見学時間を確保するためだ。文句は言うなよ」
アンドレが段取りを簡単に説明する。移動手段はバイク。鉄道を使う手もあるが、列車を待つ時間や乗り換え時間、宮殿近くの駅で下車してから歩く時間を考えると、ロスタイムが惜しい。バイクで走れば、自動車のように渋滞につかまる心配もなく、入場するまで1時間と少しで収まるだろう。
チケットは、並ぶ必要がないよう、パリを出る前に、最寄りのFnac※で一日パスポート券を買う。これでかなりの時間が短縮できる。
※パリ市内に多数の店舗があるブックチェーン。書籍の他、CD、電化製品も買え、コンサートチケットなども扱っている。

「よく、そんな細かい事情まで把握しているな」
オスカルが感心すると、
「急いでネットで情報を集めた。いい時代だよな」
そう言って片目をつむった。便利なツールがあるにせよ、わずかな時間にこれだけの情報を収集して的確な計画を立てるのは、かなりのものだ。
「おまえ、書けなくなっても、どこぞの執事でも務まりそうだ。有能な執事をほしがっている家をいくつも知っているぞ」
オスカルがからかうつもりで、いたずらっ子のような顔をしてそう言うと、
「おまえのためだけに使うさ」
アンドレが真顔でそう返してきた。
予想していなかった切り返しをされて、オスカルが一瞬固まった。冗談を言っている時に、そんな真面目な顔で見つめるのは反則だと思う。

「ではすぐに出ようか。せっかくの計画が台無しにならないように」
外に出ようとした彼女の左手首を彼が掴む。オスカルの心臓がどくんと大きく脈打った。

「その格好じゃ…。下はブーツにパンツだからいいとして、その薄手のコートは風にはためいてしまって邪魔になるだろう。これに着替えて。それとこれも」
手渡されたのは、やはり黒いレザーで仕立てられたジャケットと、メタリック・レッドのヘルメットだった。ジャケットは二の腕と前身ごろの一部が赤くて、ヘルメットの赤に映えた。
ジャケットの皮はよく手入れされていたが、袖や背中には細かい傷があって、着込んだものであることがわかる。

オスカルは言われるままにベルトを解き、ボタンを外してコートを脱いだ。コートから腕を抜くとき、少しだけ首を傾けると、背中まで伸びた金髪がはらりと揺れ、普段は隠されている白いうなじがのぞいた。
アンドレから借りたジャケットは、女性としてはかなり長身のオスカルにも大きく、身につけると、いつになく彼女を華奢に見せた。
少しだけ肩が落ちて、袖口からはほっそりとしてしなやかな指先だけが覗く。彼が身につけるとウェストで収まる裾は、彼女の腰の辺りまで伸びていた。
オスカルは着慣れぬ服を着ることがかえって楽しそうで、ためつすがめつ無邪気にジャケットの袖の辺りを眺めている。
そんな彼女の一部始終から、アンドレは目が離せずにいた。

「何をぼんやりとしている?着替えたぞ。行こう」
アンドレの視線に気づいたオスカルが発した言葉で、彼ははっと我に返った。
「そうだな」
2人はアンドレの部屋を後にした。


オスカルがアパルトマンの前で待っていると、アンドレが裏手からバイクを押して来た。
バイクには素人で、もちろん乗るのも初めての彼女だったが、そのバイクの形状が多少風変わりなのに気づいた。
飛行機の構造や設計理論には精通している彼女だから、もう少しタイヤもフレームも太く、全体的にずんぐりとさせた方が、安定性や乗り心地が向上するはずだと思った。だがそれは丸みを帯びたところがなく、ひどく直線的な感じがする。

「奇妙というほどではないが、フォルムが少し、よく見かけるものと違うような?」
彼女が素朴な疑問を口にした。
「ああ。このバイクは日本のSUZUKIというメーカーのバイクでね。ニックネームを"KATANA"というんだ。1980年代に発表されたんだけど、今でも根強い人気があって。フロント・カウルからシートにかけてが直線的で、すごくソリッドにデザインされているだろう?日本の"KATANA"をイメージしてデザインされたものなんだ」
アンドレが説明しながら、シートのやや前辺りからシートの上をつっと、ひとなでした。
安全性などの乗り物として必要とされるものを削ぎ落として、ただ走ることだけを追求すると、こういう形状になるのだろうか。
「パリは交通網が発達しているけど、田舎育ちだからかな?急に海や緑が見たくなる時があってね。そのためにバイクを買ったんだ。あまり物にはこだわらない方だけど、このバイクのデザイン画を偶然見て一目惚れしてね。手に入れてからもいろいろいじった。何しろ、車体が大きくて重いくせに、タイヤもフレームも細くて、全然言うことをきいてくれないんだ。思ったように曲がらないし、止まらないし、クラッチは重いし」
文句を言いながらも、どこか愛しおしそうな口調で、いつになく饒舌に語るアンドレの顔はどこか少年のような感じがした。
「そんな扱いづらい面倒なバイク、どこがよいのだ?」
アンドレが即答した。
「そこがいいんだよ」

「講釈はこのくらいにしよう。後ろに乗って」
アンドレは、シートに跨るとオスカルに後ろに乗るように促した。
彼女は恐る恐ると言った感じで、彼の後ろに座った。
アンドレがキーをさしてアクセルをふかすと、小気味よいリズムでエンジン音が轟いた。





(つづく)







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