きっかけは、一個のブリオッシュだった。

一度施錠した部屋にオスカルを伴って戻ると、アンドレは、ひとまずお茶でも淹れるよとキッチンに立った。
オスカルも彼の後についてキッチンまで来ると、テーブルの上に置いてあったブリオッシュとベニエを見つけた。もう焼いてからずいぶん時間がたっていたが、オスカルが取り上げてみると、まだ香ばしい匂いがした。ブリオッシュを鼻に近づけてみると、バターの匂いがし、口の中に入れた時の芳醇さが想像された。
「ブリオッシュといえば……"パンがなければお菓子を食べればよろしいじゃない"のお菓子はこのブリオッシュだとか、そうでないとか。この発言ひとつが暴動のきっかけになったのだから、言葉には魔力があるな、アンドレ。アントワネットさまの言とされているが諸説あるみたいだ」
オスカルがブリオッシュをいろいろな角度からしげしげと眺めながら、ふと頭に浮かんだことを口にした。
「また、"アントワネットさま"か」
お茶を入れる作業をつづけながら、アンドレが彼女に背をむけたままでくすりと笑った。
この時代の歴史上の人物を、まるで親しい人かのように呼ぶ癖がオスカルにはあった。以前にもそれをアンドレに笑われたことがある彼女は、少し不機嫌になって黙ってしまった。
彼女の気配が変わったことに気がついたアンドレは、手を休めて振りかえると、
「ごめん、ごめん。そんなつもりじゃなくて」
「別にいい……」
言葉とは裏腹に、彼女は彼から顔をそむけると明かに拗ねた顔をした。
アンドレは彼女に近づき、そっと髪に触れてから頬に手を滑らせて自分の方に顔を向けさせた。オスカルに抵抗する様子はない。彼女の顔をのぞきこむようにして言う。
「笑ったりして、ごめん」
「だから、別にいいと……」
彼から視線を外しているが、彼の手を振り払うわけでもなく、機嫌が直っているのがわかる。そのまま彼女をしっかりと抱きしめた。オスカルは彼にされるがままになっている。

こうやって彼女を腕に抱くのは何日ぶりだろう。やわらかな金髪が頬をくすぐるのさえ心地よい。
気持ちを確かめ合ってから2週間ほどがたつ。
アンドレはきっかけとなった事故の日のことを思い出した。事故の知らせをテレビで知ってから、彼女が顔を見せるまで生きた心地がしなかった。だが、今はこうして大人しく自分に体を預けてくれている。

その日は報告に事後処理にと忙しく、それが済んだかと思うと、左肩を痛めた彼女が病院に検査を受けに行ったりで、2人きりでいられたのはわずかな時間だった。
「もう…肩は?」
アンドレが彼女の耳元で囁いた。
「ん…おとといで通院も終わった。ただの打撲だから」
そのくせ、これまで彼女は彼がきつく抱きしめようとすると、肩の痛みを理由にして拒んできた。
アンドレも彼女も、それが単なる言い訳でしかないことは十分にわかっていた。

愛し合っていて、何の障害もなく、二人はいい年をした大人で。
おそらく彼が強引な態度に出れば彼女も強く拒んだりしないとわかっていながら、まるで刷り込まれたかのように動けなくなってしまうのがアンドレ自身も不思議だった。
その上、彼女が復活祭に合わせて長期休暇を取ると宣言してからは、休暇のために仕事をいつにも増してタイトに入れてしまったから、ほとんど会う機会がなかった。会ってもせいぜい数時間。旅行の手続きや打ち合わせをしているうちに過ぎてしまい、用事が済むと、彼女はそそくさと帰ってしまう。

"アンドレ、おまえとどこかに行きたいな……。そうだ!南仏がいい。おまえの故郷の花畑を見せてくれると言っていただろう?"
彼女は突然そう切り出した。彼女なりにきっかけを与えたつもりなのだとアンドレは解釈した。そうでもしなければこの膠着状態から抜け出せないと、彼女なりに気づいていたのだろう。
もっと二人きりでゆっくり過ごしたいというのが彼の本音だったが、彼女の奮闘ぶりの理由もよくわかっているから口にはできない。
こうして会いに来てくれたのだからよしとするか、と自分を納得させる。


「ブリオッシュひとつでそんな連想をするなら、ベルサイユ宮殿に行ったら、すごいことになるだろうな」
アンドレが話題を変えると、オスカルが答えた。
「たぶんな。行ったことがないから分からないが」
「え?それ本当?生まれた時からパリにいて?」
アンドレが驚くのも無理はない。フランスの誇る名所旧跡のひとつであり、世界に名立たるベルサイユ。パリからわずか20キロほどの近さなのに、一度も訪れたことがないとは。
オスカルと会うまではパリの名所に不案内だったアンドレでさえ、故郷から出てきて間もなくベルサイユ見物に出かけていた。
「おまえは行ったことあるのか?」
「ああ。……もしかして、チュイルリー広場みたいに気分が悪くなったりするとか?」
オスカルが広場で倒れた時のことを思い出す。フランス革命の頃の戦闘を幻視したオスカルは、そのまま、そこで倒れてしまった。
「ただ機会がなかっただけで……。今まで積極的に見に行きたいとは思わなかっただけだ。思い出がつまりすぎている場所に行きづらいような、そんな感覚かな」
オスカルは彼の胸にもたれかかったまま、レースのカーテンが風に揺れるのを目で追った。
幼い頃から、18世紀の衣装を纏った男の夢を見て、過去にあったらしい出来事を白昼夢として見るような彼女なら、そう思うのも当然かもしれないとアンドレは思った。

「そうだ!これから行ってみようか」
オスカルがアンドレの胸から顔を離して言った。
「え、今から?」
「おまえと一緒に行ってみたい」
油断するとすぐこれだ。万華鏡のようにくるくると変わって、まるで違う展開になる。
そう思っても、すっかりその気になってしまった彼女にねだるように言われると、アンドレは反論することができない。定まっているかのように、ただその願いをかなえるしかない。

「わかった。すぐに支度する」
そう言って彼女を残し、寝室に入って行った。




(つづく)







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