宮殿から庭園に出てみると、この季節にしてはいくぶん肌寒く感じた。
軽く見て回ったつもりでも、広大な宮殿内を一通り回った後では相応の時間が流れていた。夕暮れが近づいている。
ラートーナの泉水の縁に腰掛けた2人は、すぐ目の前にある宮殿をじっと見つめていた。
辺りに人はまばらだった。きっと観光バスでやってきた団体客は引き上げて、次の目的地に移動する時刻だからだろう。

ル・ノートルの設計した広大な庭園は、宮殿の西側に広がり、宮殿同様、ひどく人工的な造形美を見せつけている。庭園は、鏡の間の裏手にある大理石で囲まれた長方形の泉水から2人の座っているラートーナの泉水を通り、はるか西側にあるグラン・カナル(大運河)までを結んだ直線を境にして、ちょうど線対称の構成になっている。その左右に幾何学模様の花壇や泉水が配置されて、それぞれがギリシャ神話をモチーフにした彫刻で飾られていた。
ラートーナは太陽神アポロンと月の女神ディアーナの母親で、泉水の中心に位置する大理石でできた三層の同心円盤の真ん中に、2人のわが子をともなった立像として立っていた。いくつもの噴射口から水が噴き出す仕組みになっているが、今は水が流れていないために少し寂しげに映る。

「雨が来そうだな」
先に口を切ったのはアンドレの方だった。昼過ぎから少し雲が出てきてはいたが、夕刻になって黒っぽい雲が固まりを作り始めていた。
オスカルは自身の膝の上に両の手を組み、その上にあごを乗せたままでじっと動かない。
仕方なくアンドレも彼女の視線の先にある石造りの壁を見つめた。
ここに座って宮殿の方を見ると、ちょうど目の前が鏡の間にあたり、雲間からの西日を受けてオレンジ色に光っている高窓が、黄昏を強く感じさせる。
太陽が雲に隠れ、窓の輝きが消えた。
「この宮殿は、莫大な費用をかけて作り上げて、今また莫大な費用をかけて修復している。意味があるのかな」
オスカルがぽつりと呟いた。
「アンドレ、革命は、革命とはなんだったのだろう?」
「どういうことだ?」
あまりに抽象的な質問にアンドレが問い返す。オスカルは答えない。
革命が辿った足跡は、オスカルもアンドレも歴史としてよく知っていた。国王、王妃をはじめ、たくさんの貴族達が断頭台の露と消え、恐怖政治下には、いきすぎた粛清のために無辜の民までが多数処刑された。犠牲者は2万人とも4万人ともいわれる。混乱した政治情勢に疲れた民衆は再び絶対的な権力を望み、ナポレオンが皇帝として即位する。そして……。
「すまない。なんだか混乱しているようだ」
オスカルが首を振った。感情と思考がごちゃまぜになって、うまく言葉で伝えることができない。
「さっき見たのだ。華やかな懐かしい光景を。今でもまぶたに焼きついて離れない」
彼女は宮殿内を見て廻った時の気持ちと、鏡の間で見た光景を、一言ずつ噛み締めるように話し始めた。アンドレは黙ってそれを聞く。

鏡の間で会ったロココの女王と、それににつき従っていた自分と、彼らしき従僕。
「……子供の頃から見ていた夢と、以前チュイルリー公園で見た幻覚などを合わせると、私はラファイエット侯爵のように、平民側に寝返った貴族だったのかもしれない。それで国王軍との戦闘に倒れて」
つづく言葉を発するオスカルの顔は次第に歪んだ。
「貴族社会との決別は覚悟の上だったかもしれない。だけど、私は大切にお守りしたかったあの方をあんな風に死なせたかったわけではない。それに革命の顛末は愚かしかった。多くの血を流して王制を打ち倒しておきながら、また専制政治を望む民衆。私の命を賭けた信念はまちがっていたのだろうか」
言葉が溢れるに任せて、一気にたたみかけた。

宮殿から視線を外さないオスカルの横顔を見て、もう一度宮殿に目を移したアンドレは、しばし思考をまとめるように自分の足元に目を落としていたが、やがて、静かな口調で話し始めた。
「オスカル、フランソワを覚えているだろ?ほら、昼間会った」
オスカルの脳裏に、そばかすの少年のひとなつっこい笑顔が浮かんだ。
「あの子さ、よくサッカーを教えてやるんだけど、正直、あんまり器用な方じゃなくて、年下の子の方がずっと早く上達したりして。よく転んで怪我はするしで、最初はハラハラしたり、ちょっといらつく時もあったんだけど」
いったん言葉を切ったアンドレの髪を、湿気をはらんだ風がなぶった。髪が彼の左目を隠す。
「でも、数ヶ月、1年単位で見ていると、フランソワなりにすごく成長してるって、ある日気がついてさ。頭で描いた理想どおりにいかないけど、人間って進歩するものなんだなって」
アンドレが言わんとすることを図りかねて、オスカルが彼の方に初めて顔を向けた。
「人類もそうじゃないのかな?転んだり、失敗したりしながら。100年たらずしか生きられないおれ達には、はっきり感じられないくらいゆっくりかもしれないけど」
世界は薔薇色でもないかわりに真っ暗でもないと、自分の小説を書く時の世界観だけどねとアンドレは言った。
彼の言葉は、主観的で根拠に乏しかったが、妙に力強くて説得力があり、オスカルの心の何かを静かに揺さぶった。
「確かに革命が起こらなかったら国王夫妻は処刑されることはなかったかもしれないけど、本人達の選択の結果でもあると思う。例えば歴史で習っただろ?ヴァレンヌ逃亡事件。あれが成功していたら、また変わっていたと思うし、亡命しようとしなかったら処刑はなかったかもしれない。」
アンドレは、上空の強風に流されていく雲を見上げた。
「誰もが選んでいないようで選んでるんだ。他人の人生を左右することなんて、ほんとはできはしないんだよ、オスカル」
歴史は無数の意志の絡み合った結果だからとアンドレは付け加えた。

「オスカル、今のフランスをどう思う?」
「失業問題はじめ、問題は山積みだ」
オスカルが悲観的に答える。
「だが、18世紀の頃のように、パリ市民のほとんどが飢えているようなことはないだろう?世界規模でいえば、まだ貧困と飢えはなくなっていないけど、少なくともこのフランスでは少しはましになっていると思わないか?それに」
アンドレが言葉を切った。
「それに?」
オスカルが言葉のつづきを催促すると、アンドレが真面目な顔をして言った。
「お前が大貴族でおれがその従僕だったとしたら、18世紀では愛し合うことが許されなかったおれ達が、今は誰はばかることなく一緒にいられる」
その言葉にオスカルの顔が曇った。目を伏せた彼女に驚いたアンドレが、どうしたのかと尋ねる。
「それは、すまなかったと思っている。近くにいすぎたからか、身分の違いがあったからか自分でもよくわからないが、きっと長い間、おまえに甘えておまえを苦しめていたんだ、私は」
幼い頃から繰り返し見る夢の中に出てきたアンドレの目を思い出すと、自分がずっと深く愛されていたのだと感じる。
ふと、アンドレと出会うきっかけになった小説のラストを思い出した。きっと自分が体験したことに重なったから、あのように過剰な反応を見せたのだと初めて納得できた。

「仮にそれが実際にあった過去だとしても、今は関係ないじゃないか」
「よくない!」
自分を責めるオスカルの顔を見て、アンドレはしばらく黙っていたが、やにわに彼女の頭に手を置いたと思うと、その金髪をくしゃりと乱した。
「だとしても、それがおれの選んだ人生だ。言ったろう?他人の人生を左右することなんてできはしないって」
アンドレは立ちあがると大きく伸びをした。
「もし生まれ変わっても悔やむほどおまえに想われていたとしたら、おれ自身に嫉妬しそうだよ」
冗談めかしてそう言って声をたてて笑った。
「茶化すな!私はまじめに!!」
軽く受け流されてオスカルが食ってかかる。
彼女の抗議は取り合わないで、アンドレは逆光で輪郭の浮かび上がった彫像を振りかえって言った。
「今度はこの親子が水のアーチに囲まれる季節に来よう、また2人で」
庭園の全ての噴水から飛沫があがる大噴水ショーの時には、庭園にはかつてのようにバロック音楽が流され、往時を偲ぶことができるらしい。
彼女より一回り大きな手が差し伸べられ、彼女を立ちあがらせた。彼女は自分の手をしっかりと握る確かな感触とぬくもりを確かめた。彼の長い指を見つめ、握り返してから言った。
「アンドレ、思い出は見ることはできたが、触れることはできなかった」




(つづく)










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