彼との約束までの8日間は、あっという間に過ぎた。
待ち合わせは18時に、オペラ・ガルニエ前のカフェ・ド・ラ・ぺで。19世紀から営業している老舗のカフェで、数年前に改装されたが、往時の趣はそのままに残している。パリっ子なら知らぬ者のいないほど有名な店で、オペラ・ガルニエまで辿りつけば直ぐに分かるロケーションだから、初めての待ち合わせ場所としてはぴったりだ。
彼からのメールに、だいたいの背格好や当日の服装が書いてあった。念のためインターネットで検索をかけてみたが、作品リストや受賞歴などの記録はあるものの、ベストセラー作家でもなく、メディアへの出演もほとんどない彼のプライベートな情報は皆無に近かった。ただ、彼が自分より一つ年上なことと、南仏のグラース出身だということだけはわかった。
オスカルの方は男として通している以上、具体的なことは一切書けなかったのだが、たぶん彼を見たら一目でわかるのではないかという予感があった。

アパルトマンを出ると、植栽の上にうっすらと雪がかぶっていた。昨夜から雪が降り始め、昼過ぎにはあがったものの、5cmほど積もった。車道の雪はすぐに融けてしまったが、歩道にはまだ少し雪が残っている。
オスカルは18時ちょうどに待ち合わせのカフェに着いた。ダークブラウンの円柱と明るいベージュの壁に挟まれた大きなガラス窓から店内が見渡せる。夜半まで営業しているカフェは、オスカル達のように待ち合わせに使っている客も多いのだろう、かなりの賑わいをみせていた。
金色の取手を押して重めのドアを開け、店内に入った。彼はもう来ているだろうかと探してみると、それらしき人物が二人がけのテーブルで本を読んでいた。
黒髪に広い肩幅。身長は190cm近くあると言っていたから、少しカフェのテーブルが窮屈そうに見える。
彼のテーブルに近づく。当然、彼はオスカルに気がつかない。そのままテーブルを過ぎて、通路を挟んだ窓際の席に座った。紅茶を注文すると、直接振り返らずにガラス窓に映る彼を観察した。
肩まで伸びた漆黒の髪、無造作にはねているように見えるのが、かえって彼に似合っていると思う。瞳も髪と同じで濡れたような黒い色をしている。鼻すじが通っていて、高すぎもせず低すぎもせず、その下の唇はややふっくらとして口角がほほえむように上がっている。とても端正な顔立ちで、どことなくエキゾチックな感じがする。
オスカルが思い描いた"彼"と彼が重なる。夢中になって読んだ本の主人公。

ちらりとアンドレが顔を上げて、オスカルの方を見た。一瞬ドキリとしたが、彼はまたすぐに本を読み始めてしまった。
やや右手後方にアンドレの気配を感じながら、顔はガラス窓の方に向けたまま、窓に映る姿から目が離せない。時間ばかりが過ぎていく。

約束の時間から30分が過ぎようとした頃、彼が腕時計を確認した。入口の方を振り返り店内を見まわすが、探している人物は見当たらないようで、少し心配そうな顔をしている。
オスカルは意を決して立ちあがり、アンドレの前に立った。
「あの……オスカル・フランソワです。グランディエさん」
そう言うと、彼は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になり、それからオスカルの顔をまじまじと見つめたが、すぐに下を向いて言った。
「男の方ではなかったんですか?」
低くて澄んだ声に少し怒気がこもっているような気がする。
「……騙して、いたんですね?」
さらに追求するようにたたみかけて来た。
「え?いやその…ただ言い出せなくて、騙していたわけでは、決して―…」
オスカルは動揺して必死になって弁解した。彼を怒らせてしまったようだ。男だと思いこんで2ヶ月以上も毎日のようにやりとりしていた相手が、実は女だったら、嘘をつかれていたように感じるのだろうか。
それ以上弁解の言葉も出て来ず、ただ立ち尽くして爪が食いこむほど手を握り締めたオスカルは、なぜ早いうちに誤解を解いておかなかったのだろうと唇を噛んだ。

すると、彼の肩が小刻みに震え始めた。何も騙されたと思ったくらいで泣くことはないだろうと、オスカルは思った。
だが次の瞬間、顔をあげた彼は、笑っていたのだった。
オスカルはわけがわからず、青い目を見開いてじっと彼の顔を見つめた。
「やっぱりそうだったんだ。女の方だったんですね。日常のことはほとんど書いて来ないから確信はもてなかったんだけど、一度、滑走路の脇に咲いた小さな黄色い花のことを書いてくれたことがあったでしょう?それがとても女性らしい視点だなと思って。そちらが訂正して来ないから、Monsieurでずっと通してしまったけれど」
プロの作家相手に自分が日常のことを書いてもつまらないだろうと思ったオスカルは、質問への回答以外では、仕事で訪れた国の政治経済や空港で見聞きしたことなどを、時おり前置き程度に書くくらいだった。男として通していた以上、書きたくても書けなくなってしまったという事情もあった。

すると彼は、うすうすオスカルが女性ではないかと気づいていて、実際に会ってみたらその通りで。それでは怒る理由もなく怒ったように見せて、その上で笑っているということは。
オスカルの顔がみるみるうちに青ざめる。つまりは、からかわれたのだ。

バシンっと勢いよくテーブルを叩くと踵を返してドアに向かった。勢いよくドアを開けると、後ろを振り返りもせず、早足でサン・ラザール駅方向に歩き出した。ぬかるみも気にせず歩いたために、ブーツには黒い泥のしみがいくつもついた。アンドレが少し遅れて店を飛び出して来る。通りは人でごった返していたが、オスカルの姿を見失わないうちに追いつくと、彼女の手を掴んだ。
「待って下さい。すみませんでした。あなたの困ったような顔をみたら、つい、いたずら心がわいて来てしまって」
アンドレが息をきらしながら、そう謝った。
オスカルは掴まれた手を振りほどこうとはしなかったが、ついと顔を背けて口をきかない。
「何回でも、いえ何万回でも、あなたの気のすむまで謝りますから、機嫌を直してもらえないでしょうか?」
心から反省して許しを乞うているのが感じられたが、オスカルは険しい表情を崩さないままだった。
「ね、本当に心から謝ります。あなたの気のすむようにしますから」
「……では、今夜の食事は、そちらのおごりだ」
オスカルがようやく口を開いた。もう怒ってはいなかったが、素直に許すのは癪にさわる。だから彼が絶対に困らないような要求をつきつけてみる。
「え?それは最初からそのつもりでしたから。それでいいのですか?ジャルジェさん」
「オスカルでいい。それにvous(あなた)でなくて tu(君、お前)で結構だ」
その言葉を受けて、アンドレが一つ深呼吸をしてから言った。
「では、オスカル。予約しておいた店があるんだけど、機嫌を直していっしょに来てもらえる?」
オスカルが黙ってうなづいた。彼と並んで、今来た道を戻る。
予想外の対面だったが、一気に距離が埋まったようで内心嬉しいと思った。だがオスカルは、そんな素振りをおくびにも出さなかったが。



アンドレが予約した店はカルチェ・ラタンにあるギリシャ料理の店だった。オペラ・ガルニエ前から地下鉄7号線に乗り、サンシエ・ドバントン駅で下りた。晴れた日の昼間なら、パレ・ロワイアルを横目に過ぎ、シテ島を渡り、パリ大学の集っている学生街の雰囲気を味わいながら、散歩しつつ目的の店に向かうのもよかったのだが、今日は時間も遅いし、何より底冷えのする寒さだった。
店は地下鉄の駅からすぐのところにあり、ギリシャの神殿を思わせる白い壁のこじんまりとした造りだった。窓には赤い日よけがついており、入口の脇にはオリーブの鉢植えがあった。夏になればオープンテラスになって、陽光の下で食事ができるんだよ、とアンドレが教えてくれたが、今はテーブルも椅子も片付けられてしまっている。
店に入ると、おかみらしき50がらみの太った女性が両手を広げて近寄って来た。アンドレを抱きしめると、
「まあ、遅かったじゃないの。せっかくの料理が冷めちまうところだったよ」
どうやらアンドレはここの常連らしい。
「ごめんね、おばさん。ちょっと待ち合わせに手間取ってね」
アンドレがオスカルを振りかえると、おかみはアンドレの腕の横から丸い顔を出して後ろの人物を覗きみた。
「あらあら、まあまあ、なんてきれいなお嬢さんだろ。アンドレ、あんたも隅に置けないわねえ」
にこにこしながらも、値踏みするように遠慮なくオスカルを上から下まで眺めまわす。
「そんなんじゃないよ!仕事でお世話になった人なんだ。それよりはらぺこだよ。おばさんの料理は久しぶりだから楽しみにして来たんだよ」
アンドレが大げさに胃の辺りをなでるジェスチャーをすると、おかみは厨房に戻って行ったが、好奇の目から解放されたわけではなかった。2人には店中の注目が一斉に集り、用意された席につくまでの短い間にも、テーブルというテーブルからアンドレに声がかかって、
「そんな別嬪さん、いったいどこで見つけたんだよ。紹介しろよ」
「"まるでアフロディーテさながらに、見る人の心を酔わせてしまう〜"とか何とかうまいこと言って落としたんだろうさ。何しろアンドレは偉い大小説家だからな!」
などと野次が飛ぶ。
テーブルに2人がついても、かわるがわる酒をつぎに来たり、自分達のテーブルの料理を食べろと勧めに来るものだから、ゆっくり話もできない。しまいには、2人のテーブルを取り囲み、肩を組んでギリシャ民謡を歌い出す始末だった。
オスカルは苦笑しながらも、アンドレが困ったり、照れたりする様子を見て幸せな気持ちになった。


「ごめん、オスカル。ここは俺の遠い親戚のやっている店でね。女性だとはっきり分かっていたら、別のもっと落ちついた店を選んだんだけど」
食事が終わって、ようやく店を後にした時、アンドレが心底困ったように小声でオスカルに謝った。
「いや、こういう家庭的な雰囲気もたまには悪くないと思う。料理もおいしいしかったし、アンドレのこともたくさん聞けたし」
実際、ひき肉と茄子とジャガイモを重ね、独特のソースをかけて焼いたギリシャ名物のムサカは非常に美味だった。デザートにはバクラバという胡桃の入った甘いパイのようなお菓子が出てきたが、かなりこってりした料理がつづいたにも関わらず、それもすんなりオスカルの胃に収まってしまった。
料理が運ばれてくる前から2人を取り囲んだ客達は、尋ねてもいないのに、アンドレやその家族のことを我先に話そうとした。それによると、アンドレの母親はギリシャ人の血が入っており、ここの店主と遠い親戚らしい。アンドレの父親はグラースで調香師をしている。この店とは、作家として一人立ちできるようになったアンドレが、一年ほど前にパリに出てきた時、初めてここを訪ねてからのつきあいなのだという。
「ギリシャ人は家族、親戚を大切にする民族だからね。遠い血縁の俺のことも息子のようにかわいがってくれて、この店の常連もみんな、ひとつの家族みたいなものなんだ。それに移民同士で助け合わなければならなかった時の名残りも残ってる」
アンドレが店を振り返って、わが家を眺めるように目を細め、愛おしそうにそう言った。オスカルは、きっとアンドレは故郷でも、あんな陽気で気さくな人達の間で溢れるほどの愛情に包まれて育ったのだろうと思った。

ここからオスカルの住むオートゥイユには、地下鉄10号線に乗れば一本だった。アンドレのアパルトマンはこの地区にあるというので、数ブロック先のジュシュー駅までいっしょに歩いて、そこで別れるつもりだった。
パリの中心部よりも、少し雪が多く残っている。その雪を踏みしめながら2人は歩いた。真っ白な息が口からもれて額を過ぎ、やがて闇の中に溶けるようにして消えていく。
「謝礼の話をするつもりだったのに、全然できなかった」
アンドレが思い出したように言った。
「ああ、そのことなら、もともと最初の失礼なメールのお詫びのつもりだったから。謝礼など必要ない」
オスカルが言うと、アンドレが微笑んだ。
それからは黙って歩いた。地下鉄の入口が見えて来たところで、オスカルがアンドレを見上げて言った。
「もう、ここで大丈夫だ。そうだ、これを」
オスカルはバッグの中から小さなカードを取り出すとアンドレに手渡した。それにはオスカルの住所や携帯電話の番号とメールアドレスが書かれていた。
「もし、また何か困ったことでもあったら連絡してくれ。いつでも構わないから」
そこで手を振って後ろに2、3歩下がったところで、雪に足を取られてオスカルがバランスを崩した。アンドレは慌てて駈けよって、彼女の体を支えた。体勢を立てなおしたオスカルはゆっくり彼の腕から体を離すと、
「今日は本当に楽しかった」
そう言って地下鉄の階段を下りて行った。

地下鉄の車内は人がまばらだった。席は空いていたが、オスカルは座らずに入口のそばに立って真っ暗なトンネルの壁を見ていた。景色を映さない窓には、今日あった出来事が浮かんでは消えていく。
カフェの窓に映った彼の顔。手首を掴んだ彼の手の強さ。酔った客達の歌声。ムスカの味。そして体を支えてもらった時の彼の香り。
今日の数時間がオスカルの五感全てに焼きついてしまった。

次の約束をすればよかった。でもやっぱりしなくてよかったのかもしれない。
オスカルが反芻と自問自答を繰り返しているうちに、電車はミケランジュ・オートゥイユ駅に到着した。
改札を通って、自宅に一番近い出口の階段を昇り終わりかけたところで、携帯が鳴った。着信メロディのアイネ・クライネ・ナハトムジークの第1楽章を聴きながら携帯をバッグから取り出し、液晶を見ると着信メールが一件。
メールの件名は「会いたい」。

本文を開けてみると、「それだけでは理由にならないだろうか  アンドレ」。
その後に電話番号がつづく。

オスカルはすぐさま、その番号に電話をかけた。




(つづく)


<<Previous       Next >>