彼の「お願い」とはこうだった。 まだ作家として駆け出しの頃、小説だけでは食べていけなくて翻訳のアルバイトをしていたが、その時に世話になった人から航空会社を舞台とした小説の翻訳を頼まれた。ついては、オスカルにアドバイザーになってはもらえないだろうか、と。 最初に送ったメールで税関手続きの誤りを指摘した際、オスカルは航空会社でパイロットをしていることを明かしていたのだ。 これ以上関わりを持つのは少しためらわれたが、依頼内容はオスカルにとっては造作もないことだった。何より、これで借りが返せると思うと心にひっかかっていた棘が抜けるような気がした。オスカルはすぐに承諾する、と返事を書いた。 窓の外からはコーランが聞こえていた。就寝前の礼拝の時刻だった。オスカル自身は敬虔なキリスト教徒だったが、素朴な祈りの声は決して不快なものではなかった。 "……にあなたの恵みをたれたまえ。あなたがイブラーヒーム(アブラハム)とその後継者に恵みを賜うたように……" 翌日から、ほぼ毎日、質問と共に日々のたわいない出来事がつづられたメールが送られて来た。 同じアパルトマンの子供が遊びに来た時の話、どこで飼われているのかも知らないが、必ず月曜日に彼の部屋を訪れる猫の話、彼が毎朝新聞を買いに行っていた小さな雑貨屋が閉店した話、朝、人待ち顔で同じ時間に同じ場所に立っていた男の子が、ある日女の子と手をつないでいた話。 小説家だけあって観察眼が鋭く、文章もおもしろくて毎日一本のエッセイを読んでいるような気分になった。プロの小説家が、彼女のためだけに書き下ろした作品を一人占めしているようなものだから、何ともぜいたくなことだ。それに、彼の温かみのある大らかな眼差しは心地よい。一日の終わりに彼からのメールが届いていないかをチェックし返事を書くことが、次第にオスカルにとって楽しみになっていった。仕事の滞在先でもその習慣は欠かさなかった。 メールが来ない日は一日の疲れが、のしかかって来るような気分にさえなる。まるで禁断症状だな、と自己分析して苦笑する。 そんなやりとりが2ヶ月もつづいた頃。 いよいよ翻訳は最終章に突入し、彼のメールから、だんだんと質問事項がなくなっていった。今日もメールは来ていたが、出版社との打ち合せがあって出版日が決まったこと、本が出来上がったら進呈するという報告だけだった。 オスカルは液晶画面のカーソルが点滅するのを、ぼんやりと見つめながら一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。もうすぐ彼と自分をつないだ一本の糸は切れてしまうのだ。もう毎日のメールで彼の日常を垣間見ることもなくなってしまう。 だが、彼女は素直に「寂しい」と言うことができなかった。できるなら自分の跡をついでほしいと考えた父に、男の子のように育てられ、自分も父の期待に応えようとしてきたからか、他人に甘えたり弱さをさらけ出してしまうのが苦手だった。なんとなく女々しいような気がして、どうしてもできない。 返信に"Felicitations!(おめでとう)"と打ったところで先がつづかなくなる。手が止まったまま、ようやくメールを書上げた頃には、いれておいたハーブティーがすっかり冷めてしまっていた。 彼女がやっとの思いでお祝いのメールを打ってから2週間、彼からは何の音沙汰もなかった。自分から連絡を取ることができない彼女は、それでも彼とどこかでつながっていたくて、彼の書いた本を全て手に入れて読んだ。現代の家族が抱える問題をサスペンスタッチで描いた作品や、ファンタジー世界を舞台にした長編などがあった。どれもおもしろかった。ただ、やはりオスカルの心を一番とらえたのは、最初に読んだ作品だった。 他の本の感想でも送ってみようかとも思ったが、どうしてもできなかった。 問題なく仕事はこなしていたが、勘の鋭いジェローデルには心配するような目つきで見つめられるし、ゆきつけのブティックの店員で、妹のように可愛がっている娘からは、「オスカルさま、恋でもなさっているみたい」と笑われて内心かなり焦った。 確かに彼のファンではあるが、恋などでは断じてない。顔も見たこともない、ただのビジネス上のつきあいしかない相手にそんなことがあるものか、しかも……と必死に否定しつつ、「姉さんには余計なことを言わないようにな、ロザリー」と釘を刺した。 彼女の姉はオスカルが勤めている航空会社でフライトアテンダントをしており、そんな話が耳に入ろうものなら、翌日には会社中に知れ渡るに決まっている。それに彼女の姉、ジャンヌにかかると、噂がまことしやかなになって広まるのだから。 最後のメールから3週間が過ぎようとした頃、ようやく彼から連絡があった。 "ジャルジェ様 この度は長期に渡りご協力をありがとうございました。ようやく上梓の運びとなりました。心より感謝申し上げると共に、つきましては、一度謝礼の件など話し合いたく、お食事でもご一緒させていただきたいのですが、ご都合は……" オスカルの心臓はどくんと大きく脈打った。 彼に会えるのは嬉しかった。だが、ロザリーにからかわれたように、自分でもだんだんと彼にのめり込んで行くのを感じていて、怖いとも思った。会ったこともないのに、このところ彼のことばかり考えている。これが会ってしまったらどうなるのか……? それに、一つ問題もあった。 おそらく…………、いや間違いなく、彼はオスカルのことを「男」だと思っているのだ。 最初に彼から来たメールでMonsieur Jardjais…..と書かれていることに気づいた時、訂正しておけばよかったのだが、引け目があった手前、また文句をつけるようでためらわれ、そのままで通してしまった。その時は、まさか会うことになるとは思ってもみなかったから、どうでもよいと思っていた。 オスカルという男名なのだから、彼の誤解は無理もない。小さい頃、名前と活発な性格のせいで「男女!」とからかわれた時も自分の名前に不満を持ったことはなかった。だが今だけは、6人も娘がつづき、息子のほしかった父が末娘に男の名前をつけたのを、恨めしく思った。 謝礼などほしいと思わなかったし、そんな話ならメールだけでも十分だ。このまま会わずにいた方がいいのかもしれないとも思った。ただ、彼の作品のファンだし、あんなに優しい物語を紡げる本人に会ってみたいという気持ちはある。これを逃したら、そんな機会はもう二度とないだろう。それに自分が男だろうが女だろうが、彼には大した問題ではないに違いない。これまでの助力に感謝するために自分を呼ぶだけなのだから。 オスカルは意を決すると、「私もあなたに会ってみたいと思っていました」と送り返した。彼からはすぐに返事があり、日時と待ち合わせ場所が指定されていた。 (つづく) |
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