3日目





部屋の中には、お気に入りのアンティーク時計の秒針が立てる音以外、音と呼べるものはなかった。規則的に繰り返されながら、いつもなら優しく耳に届くはずのそれが、今はひどく耳障りだ。熱が再び上がって来たせいかもしれない。
ソファの上に横になっていた彼女は、手のひらの中のモバイルフォンを何度も裏返し、また表に返しては、弄んでいた。ブラックアウトしている画面をタップしてみて、意外に時間がたっていないことに驚きを感じる。
それでも、さきほど彼が淹れてくれたカフェは、すっかり冷めてしまっていた。彼女は部屋着から伸びた白い足を意識的に組み替えた。

彼からの連絡は、あれから無い。

アンドレの背中を見送った後、しばらく窓辺に佇んで窓の外を見下ろしていた。ちょっとした行き違い。売り言葉に買い言葉的な勢いで、彼は出て行ってしまったが、内容は大したことではない。きっと冷静になれば、すぐに思い直して戻って来るのではないか。あれしきのことで、これから楽しく過ごすはずだった数日が台無しになってしまうなんて、彼にとっても不本意なはずだ。
だが、見下ろす石畳を行き交う人々の中に、彼が再び姿を現すことはなかった。
空本来の鮮やかな青を奪い取って、低く垂れこめる鈍色の雲を見れば、こんな時は陰鬱なばかりだ。それを断ち切るように、彼女はカーテンを力任せに引いてしっかり閉め切った。
さきほどから感じている寒気は一層ひどくなり、気だるさも覚え始めた彼女は、革張りのソファに腰を下ろすと、そのまま身を横たえたのだった。


彼と過ごすはずの時間が思いがけずキャンセルになり、特にすることもない。起き上がるのも億劫だったので、しどけなく横たわったまま、彼女は何するともなく手の中の携帯をいじった。ブラウザを起動すると、ニュースサイトに接続する。フリックして画面をスクロールするが、タイトルを目で追っただけで、内容を読むほどの気力はなかった。単なる暇つぶしにすぎない行為だ。
内政・経済・国際情勢・人権問題、スポーツにエンターテイメント情報。大きな事件はなくても、世の中には報道すべきとして取り上げられる事項が山ほどあって、世界は相変わらず忙しく動いている。
ふと、画面の隅にあったホロスコープのアイコンをタップしてみると、12星座が現れた。やぎ座は、“好調な一日、恋愛運は下降気味。トラブルに注意”。
「どっちなんだ」
オスカルは一人ごちた。
当たっているようで、当たっていないような。占いの結果なんて、いつも受け取る側がどうとでも取れるようになっているもので、“絶好調”と前置きしていながら、ほぼ必ずと言っていいほど、“ただし……”とつづいて、前の語を打ち消すかのごとく警告の文句が綴られていたりする。
次に乙女座を見ると、“金運がアップする日。衝動買いや無駄遣いには注意。短気は禁物”。
オスカルには、それが当たっているのかどうか判断がつかなかった。彼の星座占いが、アンドレにとって、どうなのか、今は確かめる手立てがない。彼が隣にいないから。

やはり、アンドレからの連絡はない。


モバイルフォンの画面の向こうには、白を基調とした部屋が広がっていた。独り身の気楽さもあって、自分の好きなものにこだわって全てを決め、集めたものでしつらえられたその部屋は、彼女にとって、これ以上ないほどの場所のはずだ。だが、それさえなぜか、今は広すぎて虚ろに映った。
体調が悪いせいか、それとも――。
彼女は床や天井、ひとつひとつの調度に、ゆっくりと視線を移していった。時間をかけて吟味した家具のいくつかは、アンドレと巡ったアンティーク・マーケットで買い求めたものだ。
植物の蔓を模した優雅な曲線が左右対称に展開されている、暖炉の前のアイアンワークス。シノワズリの図柄が描かれたステンドグラスのランプシェード。
そういえばと、彼女は思い出した。
1950年代制作のマイスターシュテュックは、「お兄さんに買われたがっているよ」と勝手に値段を下げて来た店主の勢いに押されて、今はアンドレお気に入りの万年筆の一本になっているっけ。
「見るだけだと思っていたのに、とんだ散財だ……」と言いながら、書き味を試した彼はまんざらでもない顔だった。ペン先は見ていて気持ちのいいほど、白い紙の上をさらさらと滑った。ほとんど使われることのないまま、天鵞絨の箱の中でひっそりと眠っていたのだろうか、使われる日を待って。それは機能的に全く問題が無かった上に、光沢のあるブラックレジンには奇跡的にほとんど傷がない上、キャップトップの星も欠けることなく鮮明な白さを放っていた。キャップを外し、ペン先に刻まれた“4810”を確かめてから原稿に向かうと、不思議と筆が進むとも言っていた。
“4810” がモンブラン山の標高だというのは、彼が教えてくれたことだった。
彼と共に過ごした時間。一つ一つ大切な思い出になった時間は、着実に二人の絆を強めて、より近く、互いを掛け替えのない存在へと変えていき、これからも変えていくだろう――少なくとも彼女はそう思っている。
こんな些細なことで二人の関係は壊れやしないことは分かっているが。
いるはずのひとが隣にいない、寂しさ。
「どうした、わたしらしくもない!」
わざと声に出してそう言うと、仰向けになって、オスカルはアドレス帳からアンドレの番号を呼び出して電話をかけた。微かに、相手に通じた時の音が聞こえた気がして、覚えず、呼びかけてみる。
「ア……」
しかし、後に続いたのは、お話し中を示す機械音だった。一度明るい気持ちになった分、彼女はひどく落胆した。
しばらく間を置いてかけ直してみたが、やはり結果は同じだった。
彼が誰と話していようが構わない。相手がかけて来ることだってあるだろう……でも――。
3度目のコール。彼女は呼び出し音を5回やり過ごした後、通話終了をタップした。
それと同時に、寝そべっていたソファの上にモバイルフォンを投げ出す。柔軟性のある革に弾かれて、それは一度大きく撥ねたかと思うと、彼女の足元にさびしく転がった。
オスカルはまた先ほどのように自分の体に腕を回した。
感じていた寒気は、熱っぽさに変わって、悪寒を感じるほどになっていた。まずいなと思う。たぶん、昨夜、予定変更した時くらいに熱が上がっている気がする。ソファの上に何もかけずに横たわっていたせいだ。
こんな日は、もう酒でも飲んで本格的に寝てしまおうと、彼女は起き出すとキッチンに行き、カーヴからワインを取り出したが、ワインオープナーを探して引き出しに伸ばした手が止まる。
ガラスのコーヒー・サーバーが目に入る。底の方に、彼が淹れてくれたカフェの残りが入っていた。いつもならきちんと片づけをして帰る彼が、慌ただしく部屋を出て行ったことの証拠だった。
少しだけ彼らしくない言動。いつもなら、多少強気に出ても、「仕方ないな」と笑ってくれて収まるはずの状況だった。どこで間違ったのか、おかしな方向に向かってしまった。何かいらつくことでもあったのだろうか。穏やかな彼にだって、そんな日があってもおかしくはない。仕事の事か、それとの他の……。
――今日はよそうと彼女は思った。
栓を開けようと抱えていた一本は、二人で飲もうと実家のジャルジェ家から頂戴して来た、とっておきの一本でもあったから。こんな気分のまま、一人で空けてしまっても、たぶん、きっと味気ないだけだ。そっと元の場所に戻す。
ワインの代わりにといっては何だが、風邪薬と睡眠導入剤を飲んでベッドに入ってしまうことにする。睡眠導入剤は短期型で、次の日にどうしても外せない業務や用事があるのに寝付けない時に備えて、用心のため処方してもらってあるものだ。効き目は早いが効果が減衰するのも早く、翌日に響かない。
彼女は薬を服用すると、ベッドに潜り込んだ。
あれこれくよくよと思い煩いそうになって、毛布を首まで引き寄せた。それから、眠りに落ちるまで、明日からの予定を立て直すことに意識を傾ける。明日と明後日はオフ、その翌日は午前中にバイクの教習が入っていたが、どうしようか。午後は出社の予定があって、またフライトが待っている――。
洗いたてのシーツもリネンも心地よいあたたかさで、枕元のサシェから郁るラベンダーのほんのり甘い香りが彼女を眠りへと誘った。
”たぶん、一晩ぐっすり眠れば、いつものわたしになれる”
向こうの気持ちも落ち着いて、いつもの彼に戻っているに違いない。大したケンカではないし、会って話せばきっとすぐに仲直りができる。薬の効果と体調不良も手伝い、そう思いながら、幸いなことに、まもなくオスカルは眠りに落ちた。



翌朝目覚めると、体はすっかり回復していたが、起きしなの気分は、夢見がよくなくて、すっきりしなかった。眠りに落ちる直前に、ふと頭に浮かんだのは、かつて慕っていた女友達の顔だった。
彼女は夢の中にも現れて、あの、自分が最後に会ったときの妙にぎらついた熱病患者のような眼ばかり目立つ顔をして、彼女に何かをしきりに訴えた。その言葉は、起きた時には覚えていなかったが、ただ、女の業に呑み込まれた彼女の形相だけは、オスカルの脳裏にべっとりと、粘ついてこびりつくように残っていた。何かが纏わりついているような嫌な感じだ。少し汗もかいている。そのせいで、熱はすっかり下がっていたが。
アンドレを愛するようになってから、度々思い出すようになった彼女のこと。自分と似ていた彼女のこと。アンドレが彼女の相手のように自分を裏切ることは決してないと信じているが、それは、ときどき、警告を発するように自分の前に姿を現す。
いつも凛として自立していた彼女は、名門の出自もキャリアも何もかも打ち捨てて恋に溺れ、スキャンダルまみれになりながら生涯を閉じた。全身全霊をかけたあの恋がなければ、彼女は今も、彼女のアトリエで写真を撮りつづけ、オスカルに笑いかけてくれていたかもしれない……かわいそうなベアトリス。何日も物も食べずに、ただひたすら恋人を待ち続けていた姿も見かけられたという。人を深く愛するということの、業の深さ。

彼女の残像を振り払おうと、ベッドから起き出したオスカルは、熱いシャワーを浴びにバスルームへと向かった。夜の間にかいた寝汗と共に嫌な気分もさっぱりと洗い流してしまいたかった。
途中、通り抜けたリビングルームのソファの上には、昨夜投げ出したモバイルフォンが、昨日の姿のまま転がっていた。拾い上げてみる。彼からの着信はない。
「なんだ、まだ怒っているのか……?」
随分、しつこい。こちらからは3度も連絡を取ったというのに、一度も連絡すらして来ないのは、どういうわけだ。
彼女は足早にバスルームに向かうと、服を脱ぎ捨ててシャワーブースに入り込み、思い切りカランをひねった。
「熱っっ」
よく確かめもしないまま温度を無造作に上げた湯が、肌を刺した。
慌ててシャワーヘッドから逃れて温度を下げた。それから、白い肌をほんのりやわらかなピンクに染めるほどの適温のシャワーに打たれた後、彼女は流れ出ていた湯を止め、シャワーブースを出た。
厚手のバスタオルで体をふき、できるだけ手早く身支度を整えると、彼女は部屋を出た。体調が回復してすっきりした今は、昨日とは違って気力も充実していた。
行く場所は、誰が何と言おうと、決まっている。このもやもやした気持ちを解消する手立ては一つしかない。
地下のガレージに向かい、運転席に座ってエンジンをふかす。

“電話があろうが無かろうが構うものか――会いに行ってやる!首を洗って待っていろ、アンドレ”
急発進気味にスタートした車は、彼女の剣幕に驚いたようにタイヤを大きく軋ませ、ガレージに悲鳴のようなスリップ音をこだまさせた。



道路はいつも通りの混み具合で、アンドレのアパルトマン近くまで辿り着くと、彼女は愛車をいつものパーキング・エリアに止めようとした。しかし、その付近には、赤と白のストライプの工事用コーンがところどこに置いてあって、駐車することが出来なかった。作業員の姿は一人も見当たらない。昨日のうちに工事が終わらなくて、一旦帰宅してしまったのだろうか。こんな時は、世界の何もかもが邪魔をしてくるものなのかと、オスカルはハンドルを強く握りしめた。
それでも、100メートルほど離れた場所にうまく駐車スペースを見つけることができ、アンドレのアパルトマンへと急ぐ。
工事はかなり広範囲に渡っていて、コーンや囲いのあるマンホールをよけながら、彼のアパルトマンの敷地を囲む古い石壁が見えるところまで歩いてくると、誰かが立っているのが見えた。
オスカルは足を止め、息をつめた。
彼だった。
行き違いにならずによかったと、声をかけようとして、だが、声は空気に触れる前に彼女の中に押し留められた。駆け出そうとした足が止まる。
アンドレは誰かと一緒だった。
思わず、街路樹の太い幹の陰に身を隠す。
彼と一緒にいたのは女だった。すごい美人だ。ショート丈のトレンチコートの裾から伸びる細身のパンツが長身によく似合っている。女性にしてはかなり背の高い方だ。黒髪をあごの少し下の辺りで切りそろえたボブが、その姿ををさらにすらりと見せていた。
今まで会ったことのあるアンドレの友人でもなく、もちろん同じアパルトマンの住人でもない。見たことのない女性だ。


彼らは何かを話し合いながら、オスカルの来た方向とは反対の方に連れだって歩き出し、少し行った歩道脇に停めてあったジャガーのクーペに乗り込むと、すぐにどこかへと走り去った。


オスカルは凍りついたように、ただそれを黙って見つめていることしかできなかった。



(つづく)










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