2日目





地下につづく階段を下りて行くと、今年ヒットした速いテンポのポップスのメロディと大勢のガヤガヤとした声が、階段の途中まで漏れ聞こえていた。扉を開けた瞬間、バンドの生演奏の耳をつんざく大音量に、アンドレは一瞬たじろいだ。
地下鉄3号線のガンベタ駅から歩いて数分の場所にあるその店は、倉庫の跡地をリフォームした建物で、地上階は昼間はカフェ、夜はバーとして営業していた。
その地下がライブスペースになっていて、今夜の誕生パーティーはそこを借り切って開かれている。
そう広くないフロアは人で溢れていて、バンドの生み出すビートに乗ってそれぞれが体を揺らしていた。開始時間からそれほどたっていないのに、既に出来上がっているらしいのも数名いた。これだったら、妙に気をまわして時間をつぶす必要もなかったかもしれない。奴の誕生パーティーらしい。彼は耳を覆いたくなるほどの音楽と喧騒の中、そう思って苦笑した。
戸口に立つアンドレの後から、さらに数人が入って来て、新たに騒ぎに加わっていった。興奮度は増すばかりだ。
彼は今夜の主人公を探そうとしてみたが、なかなか見つからなかった。似たような年齢の人間ばかりの中、緑や赤や黄色に次々と切り替わる照明が、顔の判別をさらに難しくしていた。
曲と曲の合間に、演奏が小休止すると、音楽に合わせて踊ったり歌ったりしていたステージの周囲の人垣が崩れ、それぞれ飲み物を取りに行ったり、店の壁際に並べられたテーブルの料理に手を伸ばしたりしながら、談笑し始めた。照明も薄暗いながら安定して、ようやく個人の識別がはっきり出来るようになった。
「アンドレ!」
声高な会話が店に充満している中、その声は店の奥から聞こえて来た。目を凝らすと、人々の頭の向こうに、かろうじて手を振っているのが見える。人と人の間を縫うようにして近づくと、探していた男が、グラスとワインのボトルを手にして立っていた。
「アラン、誕生日おめでとう」
アンドレがそう言うと、アランは「おう」と短く答えて、グラスにワインをそそぎ、まずは飲めやと勧めた。受け取ってアランとグラスをカチンと合わせると、アンドレは軽く口を付ける。
「どうぞ」
アランのそばにいた華奢な女性が、気を利かせてテーブルから料理を取り分け、アンドレに持って来てくれた。アランより何歳か若そうで、ゆるやかにウェーブのかかった黒い髪を後ろできちんとまとめている。
「お前は初めて会うんだったな。妹のディアンヌだ。ディアンヌ、こいつが、かのご高名なアンドレ・グランディエ氏だ」
大げさに腕を広げてアランがおどけたように紹介すると、ディアンヌは目を輝かせた。
「ようやくお会い出来て嬉しいですわ!お噂はかねがね、兄からよく。ご本も何冊か読みました」
後で本にサインしてほしいと乞われて、アンドレが快諾すると、彼女はこぼれるような笑顔を浮かべた。
どんな妹かと想像していたが、兄のアランとはずいぶんタイプが違った。気性が激しい兄とは正反対の、穏やかで控えめな性格の子のようだ。アランが彼女に向ける視線から、この妹をどれだけ大切にしているかが感じられる。その意味では荒っぽい兄貴と可憐な妹という組み合わせには納得がいった。きっと彼女は大切に守られて育って来たのだろう。温室の片隅にひっそり咲く一輪の花のような存在。自己主張が強くない分、見つけた時にほっとするような。
会場に集まっていたメンバーは圧倒的に男が多かったために、余計に彼女の可憐さが際立って見えたのかもしれない。フロアにいる女性は、ディアンヌのほか数えるほどしかいなかった。気がつけば、アランの周囲を取り囲んでいるのは、男ばかりだ。
「ねえ、ねえ、アラン、この人が……」
アランの側にいたうちの一人が、アンドレを横目に見ながら、アランの腕を軽くつついた。
「ああ、あの女機長さまと付き合っている、大した男だぜ」
一斉に視線がアンドレに集まる。好奇心と羨望の入り混じった眼差しがアンドレを刺す。どうやら、アランの近くに集まっていたのは同じ会社の同僚達だったらしく、オスカルのことも知っているようだ。
黙っていても目立つ彼女だから、会社で何かと話題にのぼっていることは想像に難くない。そんな彼女の恋愛話ともなれば、興味津々に違いなく、こちらも、アンドレのことは“噂はかねがね”ということだったようだ。酒も入っているせいか、ギラギラした目で全員が彼に注目している。「やっぱり本当にいたんだ彼氏」、「そりゃ、あれだけの美人だもんな」というため息まじりの囁きも聞えて来た。
「ジャルジェ機長ってさ、プライベートはどんな感じなの?」
アランはあまり詳しく教えてくれないんだよね、と口火を切ったのは、プラチナブロンドの髪をしたそばかすのある青年で、恨めしそうにアランを上目づかいに見やると、「おれだって知らねぇんだから答えようがねえや」とアランが言い返す。それを皮切りに次々とアンドレに質問が浴びせられた。
「出会いのきっかけは?」
「け…ケンカすると、や、やっぱ怖いんだろうな」
場のくだけた雰囲気も手伝ってか、絶好の機会を逃すまいと躍起になっているゴシップ新聞の記者よろしく、ほとんど遠慮というものがない。
会社での彼女は、謎に包まれた存在のようだ。怜悧玲瓏かつ冴え渡った刃の如しで、周囲は憧憬を抱きつつも近寄りがたく、ましてやプライベートを聞き出そうとするなど恐れ多くてとてもできない。
以前、アランも何かの話のついでに、彼女は一つ一つの仕事を完遂するのに余念がなく、時には厳しい言葉も出るので、敬遠している人間もいると言っていたことがある。
「おれも最初の頃は、恨みたくなるくらいだったからなぁ」
そう呟いたアランに、「今は?」と尋ねると、黙って頭を掻いていた。
アンドレは矢継ぎ早に繰り出される質問に、あいまいに答えたり、適当に相槌を打ったり、質問に質問で答えたりして、上手くはぐらかしていった。
ただ、頭の中では一つ一つの質問に対する答えのように、その都度、彼女の姿が思い浮かんでいた。
自分の前での彼女は。
無防備に笑い、時には子供のようにはしゃいだり拗ねたりしてみせる。
彼の仕事が一段落つくのを待ちながら、ソファでうたた寝してしまった時の、その安心しきった、あどけないほどの寝顔――。
それを話してしまいたい衝動に負けそうになる。しかし、そこはぐっとこらえた。自分が余計なことを喋っては、彼女の仕事がやりにくくなるかもしれない。それに、いかに自分が彼女をよく知っているかを話して好奇心を満たしてやっても、それは結局、自慢話を披露しているにすぎない。
他方で、そんな彼女の姿を自分だけのものだけにしておきたいという気持ちも強かった。その方が、優越感に浸ることより、彼にとってはずっと大事なことだった。
そして、はたと、気づく。まただ。我ながら、常軌を逸するほどの独占欲。そして再び心の中で、自分を嗤うのだった。

「おい、おまえら、今日は誰のために集まってるんだ!主役は誰だ?いい加減にしろ!」
アンドレを問い質すのに夢中になっていた連中をアランが一喝したのと、次の曲の演奏が始まったのは、ほぼ同じタイミングだった。
しまったという顔をしながら、曲が始まったのを幸いにして、皆ステージの方に散って行く。今度の曲はスローなテンポで、音を抑えたイントロは聴き覚えがなく、バンドのオリジナル曲のようだった。
逃げるように離れて行った友人たちの背中を見つめながら、ふと思い出したようにアランが言った。
「そういやあ、最近、顔色が悪かったりしているんだが、大丈夫なのか?」
「ん?」
初めは何のことを言われているか分からなかったが、アランはオスカルのことを心配しているのだと気づく。
「たまにひどく疲れたような顔をしてる時があってよ」
そう言われてみれば、確かにここ一、二か月ほど、会っていてもぼんやりしていることが何度かあったように思う。仕事が忙しいのはいつものことだし、あまり詮索してうるさく言っては、かえって彼女の気が休まらないだろうと思っていたのだが。
アランにも分かるほどだと、かなり疲労がたまっているに違いない――いや、それともアランだからこそ見抜いたのだろうか。
「……意外に、よく見てるんだな」
そう彼が言うと、アランは少し慌てた。
「べ、別に…おれは!今は大丈夫だが、今後、仕事に影響が出たら困るからよ!」
ステージの曲のテンポが上がり始めたと同時に、今夜の主役にお呼びがかかった。バンドのメンバーもアランの友達らしく、ステージに上がって来いと陽気に叫んでいる。
アランが呼び出しに応えてステージに上がると、ひときわ大きく観客から歓声があがった。スターのように手を振ってみたアランは、なぜか少し不恰好にガッツポーズをしてみせたので、笑いが起こる。
オリジナル曲が再びヒットナンバーの演奏に変わると、アランはボーカルのスタンドマイクを奪い取り、少しというか、かなり調子っぱずれな歌を披露し、観客を沸かした。アドリブかそれともお約束だったのか、アランの歌声に引っ張られるように演奏も崩れていき、笑いは一層大きくなって、ヤジが飛ぶ。ブーイングの嵐の中で、そう広くない地下空間は、ますますヒートアップしていった。


パーティーは深夜になってお開きとなったが、一部はまだ騒ぎ足りないと、さらに別のクラブに繰り出すことになった。この辺りは若者が多く集まるスポットなので、明け方近くまで営業している店がいくつもある。
アンドレも一緒に行こうと誘われたのだが、今夜はと断ってしまった。機関銃のように質問を浴びせかけて来た連中は、初対面にも関わらず、すっかりそれで距離を縮めた気になって、彼を旧知の仲のように扱ったから、その後のパーティーはかなり楽しめたのだが。
去り際にアランが言った。
「さっきの話、あんまり気にすんなよ。おれの思い過ごしかもしれないからよ」
ぽんと肩を叩いた彼に、アンドレは笑顔を返して、またと別れを告げる。
ふと一人取り残されて見上げたビルの壁に、派手な色使いのグラフィティアートが描かれていた。“ぶっとばせ!”と威勢のいい踊るような文字が書かれた横で、デフォルメされた男の顔は、なぜか泣いているように見えるのが不思議だった。
喧騒と、猥雑なアートの街を後にして、アンドレは地下鉄の駅に向かって歩き始めた。



アンドレがオスカルのアパルトマンを訪ねたのは、翌々日の午後のことだった。
「風邪気味って大丈夫なのか?こじらせると、ことだぞ」
予定では彼の部屋に来ると言っていたオスカルが、少し風邪気味で熱っぽいから、彼に自分の部屋に来てほしいと連絡して来たのは、前日の深夜だ。
もちろんどこで会おうが一向に構わなかったので、二つ返事で了承したが、アランに言われたこともあって、今日の彼女は、アンドレの目にはいつもより、やつれているように映った。ゆったり目のシルエットの部屋着をまとった彼女は痩せたように感じられて、熱のためか青い瞳も少し潤んで見える。
アンドレは部屋に迎え入れてくれた彼女の頬にそっと手のひらをあててみた。外にいた自分の手が冷えていたからかもしれないが、彼女の頬は少し熱く感じられる。
「冷たいな……」オスカルがくすぐったそうに笑い、「昨夜は熱があったが、それも下がった
。大したことはない。薬を飲んでぐっすり眠ったから、もう大丈夫だ。悪かったな、寒かったろう?部屋に入って温まれ」そう言って、彼女は彼の手を引いた。
アンドレのアパルトマンの部屋が3つか4つすっぽり入ってしまいそうな広さの部屋は、いつも通り完璧に温度・湿度管理されていて快適だった。
何か温まる物をと、彼女がキッチンに向かおうとしたので、アンドレは「おれがやるよ。座っていろ」と制止する。
「カフェでいいか」と尋ねると、彼女は素直に「ああ」と頷いた。
物の配置はもうすっかり分かっていたので、彼は迷わずカップの入っている棚を開け、ジアン社製の花と鳥が絵付けされたカップを二人分取り出した。コーヒーメーカーにカフェ・ムゥリュ(挽いたコーヒー豆)を入れ、スイッチを入れる。濃褐色の水滴がしたたり落ちて行くのを、彼はしばらく、じっと見つめていた。


カップに注いだカフェをリビングに運んで行くと、彼女はソファに横たわって、雑誌を読んでいた。長い足はソファの上に投げ出され、くつろいだ様子でページをめくってく姿は、洗練された調度の中で、写真家ならば思わずシャッターを切りたくなるような絵面だ。思わず足が止まる。
彼の気配に気づいた彼女が顔を上げると、弾みで傾いた雑誌の間から、白い紙が落ち、床を滑った。
「拾うよ」
アンドレはローテーブルの上にトレイを置くと、A4サイズほどの紙を拾い上げた。見るとは無しに印刷されている文字を見ると、意外な内容で、眉をひそめる。
彼は無言でその紙きれを、起き上がった彼女に渡す。すると、それを見た彼女の頬がぴくりと動いた。おそらく他の人間では気づかないほど僅かだったが、内心の動揺が彼には確かに伝わった。
オスカルは受け取った紙をさりげなく雑誌に挟むと、閉じて脇に置いた。それを見て、アンドレは、彼女と向い合せの肘掛け椅子に腰を下ろした。
何も言わず、カップに手を伸ばした彼を見つめて、オスカルは思った。何か隠していると勘付いているのは間違いない。いつもなら当たり前のように横に座る彼が、テーブルを挟んだ向こう側に座っている。
あの紙に書いてある内容を見たら、なぜこんなものがと思うのは当然だし、説明もせずに慌てて雑誌に挟んでしまったのはかえって失敗だった。隠し事をしていると告白しているようなものだ。
こうなっては話してしまった方がいいだろう。本当は合格した暁に打ち明けて驚かせたかったのだが。無理に隠しておく必要もないことだしと、オスカルは観念した。彼女は雑誌を再び開き、挟み込んでいた紙をテーブルの上に広げた。
「……そういうことだ」
「そういうことって。どういうことだ、バイクの免許なんて。そんな時間――。」
印刷されていたのは、インターネットからダウンロードした、大型バイク免許取得のための学科試験の模擬問題だった。オスカルが細切れの隙間時間を見つけては解いていたものだ。そのうちの一枚が雑誌の間に紛れ込んでしまったのに、彼女は今まで気付いていなかった。
「合格したら、これでおまえとツーリングに行ける」
「そういうことじゃなくて!」
彼は、声を荒げた。熱を出したという彼女の体を気遣ったのに、オスカルの返事は少しピントがずれていた。学科試験の勉強や最低20時間は必要な実技教習、さらに実技試験を、ただでさえハードな業務の合間に詰め込めるのか。彼女は既に車の免許は取得済みで、2台も自家用車を所有している。バイクの免許なんて必要ないはずだ。
「アランだって心配していた。疲れているんじゃないかって」
そう言われると、彼女は唇を尖らせた。
「ちゃんと休養は取っているし、融通のきく教習所を通しているから、無理をしてということもない。それに、私はプロのパイロットだぞ。バイクの運転なんてすぐに覚えられる。最低限の時間でクリアして、仮免許も本試験も、一発で通ってみせる!」
心配無用だと、彼女の反論する声は大きくなった。
現に、隙間時間を使って勉強した学科試験は一発でパスしていた。自動車免許を取得した際の知識があるとはいえ、その間に変わった法規や制度も多かったが、もちろん満点での合格だ。
彼女が声を荒げたのは、彼の反応が遺憾だったからだ。最初は驚いても、てっきり喜んでくれると思っていた。自分もバイクに乗れるようになれば、彼の世界をもっと理解できるし、話題も増える。それのどこが、いけないのだろう。
アンドレが彼女の体を心配してくれているのは分かるし嬉しかったが、それとこれとは話が別だ。
二人の間に置かれた、まだ一口も口をつけていないカフェから、ゆらゆらと湯気ばかりが立ち上っている。
バイクの免許を取得しようと思い始めたきっかけ。
彼の背中にもたれて体を預け、一つになって風を切って走るのは好きだ。だけど――――。

なぜ彼女がバイク免許を取得しようと思ったか説明しようとした矢先に、わかっていないというようにアンドレが目を閉じて首を振った。
「現に熱を出したのだろう?無理しすぎている証拠じゃないか。体調不良の機長の操縦する飛行機に乗りたい客なんていると思うか?」
「仕事のことまで心配してもらわなくていい!自分で何とかするっ!」
とうとう怒鳴ってしまった。売り言葉に買い言葉、喧嘩するつもりなどなかったのに。そう言い放たれたアンドレの目が見開かれたのを目の当たりにして、オスカルの胸にも、自分の言葉が突き刺さった。言ったそばから後悔する。
一歩も引く気配のない彼女に、アンドレはもうそれ以上、言葉を継がなかった。彼は少し考え込むようにしながら、前髪をかきあげた。やがて一つため息をつくと、絞り出すように言った。
「だったら、会う時間を減らそう。……その分で休め」
そう言うやいなや、アンドレは椅子から立ち上がりジャケットを手に取った。
オスカルは引き留めようとして、だが、ほんの少し迷った。ソファに座ったまま固まって動けない。
引き止めるなら、謝るべきだろう。しかし、彼と共有できる世界を広げるためにしたことなのに、謝るのもおかしい気がした。自分は謝罪するべきことはしていない。免許取得の件は、驚かそうとして黙っていただけだ。いわば誕生日のサプライズと同じ程度のものだったし、事前に相談がなかったと責められるほど、重大事だとも思えない。だから、何と言っていいのか分からない、引き止められない。

彼女が葛藤しているうちに、彼はためらいも見せずにジャケットを着込んだ。やがて、ドアを開閉する音が背後で聞こえ、彼の気配は消えた。
しばらく動けないままでいたが、窓に駆け寄って外を見降ろすと、長身をまるめた背中が遠ざかって行くのが見えた。


どうしてこんなことになってしまったのだろう?

オスカルは刺繍の入った厚手のカーテンの布地をきつく握りしめた。急に寒気を感じる。熱がぶりかえしたのか、それとも窓からわずかに伝わる冷気のせいか。
「……寒い……」
思わずそう小声でつぶやくと、彼女は一人、自分で自分の体を抱きしめた。



(つづく)










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