4日目





何て幸せな男なのだろうと、そのとき、そう思った。
彼女を初めて抱いた夜の翌朝、自分の腕の中で泣きじゃくる背中をさすりながら。
まだ昨夜の余韻が残るベッドの上で、彼女は言った。
“そばにいてくれ。わたしを一人にしないで。どこへも行かないと……アンドレ”

朝の習慣で街に出かけた自分が部屋に戻ると、彼女はベッドの上で膝を抱えていた。背中がかすかに震えているのが分かった。
最初はなぜそんなに取り乱しているのかが分からなかったが、彼女がうわごとのように言う言葉の端々から、おれが隣にいなかったことが、過去の記憶とリンクしたのだろうと、しばらくして推測がついた。目覚めた時におれの姿が無かったことで、オスカルはフラッシュバックを起こして、混乱しきっていた。
――彼女の前世の記憶によれば、初めて結ばれた翌日、男は死んだ。
そのことが、今も彼女に刻みつけられ、その痛みに苛まれる。置き去りにされた子供みたいに怯えている彼女をしっかりと抱きしめ、額や頬に何度もそっと口づけを落としながら、安心するまで何度も何度も同じ言葉を繰り返した。
“大丈夫だ。おれはもう、どこへも行かない――”と。
愛の深さに比例して、痛みも苦しみも重く深くなる。そのことは自分も知っている。

こんなにも彼女に愛された男。
彼女の魂を傾けて愛されながら、その死を目にすることもなく旅立てたその男は、何と幸せ者なのだろうと、そのとき思うと同時に、 彼女がこんなにも取り乱している理由が、自分にあるということを思う。
正直言って、不思議な感覚だった。自分が二人いて、同一人物でありながら別々の存在であるなんて、どう表現したらよいのだろう。一つだけ言えることは、その朝の自分が、例えようのないほどの多幸感を感じながら、おかしなことだが、軽い嫉妬にも似た、何ともいいがたい気持ちを覚えていたということだ。

こんなにも、おれは彼女に愛されている。



オスカルの部屋を飛び出したアンドレは、そのままの勢いで真っ直ぐに駐車場へと向かった。
バイクにキーを差し入れて回し、左手でクラッチを切る。ギアペダルを乱暴に数回踏み込んだ後でニュートラルに戻したが、エンジンはうまくかからなかった。いつも当たり前のようにしている動作だというのに。こんなことは滅多にないことだ。
一度しっかりと両足をコンクリートの地面につけ、一呼吸置いてから仕切り直す。今度はギアの音を確かめながら、0.5段ほどわずかに上げる。
するとエンジンは、やっと小気味よく咆哮をあげた。すっかり目覚めて、走り出すのを今か今かと待ちわびているようだ。アンドレが乱暴に扱えばそれなりの反応を返し、丁寧に扱えば、いつもより調子のよい音を出す。
しかし、アンドレはせっかくかかったエンジンを切った。バイクに跨ったまま、目を閉じる。そのまましばらく動かずにいる。
彼は思った。彼女は女性で、いくら鍛えていても男性に比べれば体力的に劣る。彼女が自分の体を労わらなかったことは指摘すべきことだ。だが、もう少し違う言い方があったと思う。
あんな言い方をしてしまったのは、おそらく、彼女の体調の変化に気づきながら、それを看過してしまっていた自分に対する憤りも交じっていた。アランですら、少しおかしいと気づいていたというのに。八つ当たりだ。
ただでさえハードな仕事をこなしているというのに、自分のために無理をさせてしまったこと。
嬉しいが、自分のことなどより、彼女自身のことを考えてほしい。
そう言えばよかった。
それに、彼女の仕事のことまで口出ししたのは、出すぎた真似だったかもしれない。そこは彼女の領分だ。
アンドレはバイクから離れると、オスカルのアパルトマンのエントランスの方へと戻った。建物に入る前に、歩道で立ち止まり、彼女の部屋を見上げる。窓にかかるカーテンは固く閉ざされていた。
彼女が顔を出しはしないかと、じっと目を凝らして見つめていたが、薔薇色の厚地のカーテンは微動だにしなかった。それが、彼を拒んでいる印に見えた。
しばらく佇んで建物を見上げていたアンドレの頬に冷たいものが一粒落ちてきた。
やがて雨は次第に激しくなり、彼の髪に肩に降り注いだ。
冬の雨は、雪よりもずっと始末が悪い。衣服や髪に沁み込み、体温を奪って気持ちまで凍えさせる。
アンドレはもう一度、窓に目を凝らしたが、そこにはわずかな隙間もなかった。彼は踵を返すと再び駐車場へと向かった。
おそらく、今行っても事態を悪化させるだけかもしれない。彼女に時間が必要ならば、いくらでも待とう。
道行く人々は肩をすくめて足早に通り過ぎる。だが、ほとんど傘も差さずに歩いている。
大丈夫だ、こんな雨はすぐ上がる、そう分かっているからだ。


アンドレが自分の部屋にたどり着き、ジャケットを脱ぐか脱がないかのうちに、モバイルフォンが鳴り始めた。
最初の一音が鳴るなり、着信音がメロディーへと変わる前に電話に出る。
「よお」
短い挨拶は低い男の声だった。期待していた相手ではない。
「なんだ、アランか……」
ため息交じりでそう答えると、「なんだはないだろう、なんだは!」と電話の向こうの相手は少し声を荒げたが、彼らしい軽口をたたく明るいトーンは変わらずで、アンドレは素直に謝ってみせる。
一昨日会ったばかりだが、何か忘れ物でもあったかとアンドレが尋ねると、アランは「実はディアンヌが――」と用件を切り出した。
「いつもおまえの所で飯を食べさせてもらっていると言ったら、一度くらい家に招待しろって、あれからうるさくってよ」
大したものは出していないからとアンドレは遠慮したが、「うちだって大したもんは出せねえから」と、自分の顔を立てると思ってと頼み込まれて、結局、招待を受けることにした。日時は妹や母親と相談してから改めて連絡するという。
それじゃあ切るぞとアンドレが通話を終わらせようとすると、アランが慌てて、ちょっと待ってくれと引き止める。
「――いや、その……あの時、余計なこと言っちまったかと思ってよ。機長さんのことだが」
本題はそちらの方かと察すると、アンドレは「大丈夫だ、問題ないよ」と明るく返した。ケンカがあったことをアランに話しても、ただいたずらに心配させるだけだ。
「そうか。ならいいんだが。何だか気になっちまってよ」
あの日、ちょっとした会話の中でも、アンドレの表情の変化を見逃さなかったのだろう。アランはああ見えて周囲に気遣いをしているし、勘も鋭い。それに意外と生真面目だ。
「本当に大丈夫だから」
アンドレが重ねて言うと、ようやくアランは納得したのか、「高級料理は出せねえが、ディアンヌの料理の腕前はなかなかだぜ、期待してろ」と、最後に妹自慢を付け加えて、ようやく電話を切った。
切れた途端、モバイルフォンからアラートが鳴った。
通話終了とほぼ同時だったせいで、アンドレは何事かと、反射的に肩を震わせる。画面を見ると、バッテリーの残量がほとんどない。
しまった、こんな日に限ってと彼は思った。オスカルが機嫌を直したら、連絡をよこすかもしれないのに。昨夜、充電し忘れたせいだ。昨日はほとんど仕上がっていた原稿の内容を大幅に書き換えるようにと編集者から言い渡され、議論の末に結局書き直すことになって、慌てて資料を探して手を加えたりしていたせいで、いつもなら夜間に充電しているはずが、携帯電話にまで気を回す余裕がなくて、うっかり忘れていたのだった。原稿の修正は、今日からオスカルと数日を過ごす予定がなければ、それほど慌てることもなかったのだが、その後で取りかかるとすると、締め切りまでの時間が足りない計算で、会うまでにある程度目途をつけてしまわなければならなかった。
それに、夜になってオスカルから体調が悪いとの連絡もあって、それも気にかかっていた。
アンドレは充電コードをセットすると、コンセントにつないだ。ところが、充電中を示すランプは、いくら待っても点灯しない。
おかしい。彼ははっと気づいて、ためしに照明のスイッチを押してみたが、点かない。部屋を見渡すと、固定電話のディスプレイからデジタル表示が消えている。キッチンに行くと、ガス・オーブンに付いているタイマーは暗転したままだ。よもやとブレーカーを確認したが、そちらに問題はなかった。
停電。
隣の住人に話を聞きに行くと、一時間ほど前から停電中だという。隣人であるマグレブ出身の黒い肌をした子だくさんのマダムは、EDF(フランス電力)に問い合わせたが、担当者は「eRDF(配電部門を担うEDFの子会社)の方に訊いて」と言い、eRDFのカスタマー・センターは、「EDFでないと詳しくは分からない」と言う。たらい回しにされながら分かったことは、この区域の配電装置のどこかがショートしており、辺り一帯が影響を受けていて、目下故障箇所を調査中だということだけだったそうだ。復旧の目途は立っていない。
帰ってくるとき、道路脇にカラーコーンと立ち入り禁止のバーが並べられ、何かの工事をしているのを見かけたが、このせいだったのかと、そう説明されて初めて理解する。
電力会社は、もともとサービスのよくなかったところに、市場経済原理とやらで分社化すると、ますます混乱が大きくなった。その上、コスト削減をうたってサービスは低下する一方で、カスタマー・センターなぞは、ただ顧客に「わかりません、他を当たって」と同じ言い訳を返す役割を担っている部署に成り下がった。問い合わせても有効な回答は得られないものとパリ市民は半ばあきらめている。そんな中で、状況を把握できるだけの情報をかき集めてくれた隣人には、感謝しなければならなかった。

彼は自室に戻ると、モバイルフォンを手に取った。手の中のそれを見つめながら思う。わずかに残ったバッテリーを使い尽くす前に、彼女に一言連絡を入れてしまおうか。
そう考えていた矢先に、また着信があって、飛びつくようにアンドレは電話に出た。
「アンドレ・グランディエさんですか?」
知らない声だ。
「そうですが……」
思わず暗いトーンで答えてしまう。
「よかった。だいぶ前の記録から辿ったので、通じないかもしれないと心配しましたが、ようやく連絡がついた」
電話の向こうの相手は、最初、固定電話の方にかけたが繋がらなかったので、携帯電話の番号にかけたのだと説明した。
とにかく通話を早く終わらせたかったアンドレは、多少素っ気ない言い方で、「ご用件は?」と尋ねたが、相手はこちらの不機嫌な様子をいささかも意に介さず、冷静に淡々と話をつづけた。
「申し遅れました。私はルイ・アントワーヌ・レオン・フロレル・ド・サン=ジュストという者です。弁護士をしています――」
”弁護士”と聞いて、警察官に声をかけられた時と同じ反射で一瞬ひやりとしたが、心当たりは特にない。可能性があるとすれば、自分の書いた文章が権利侵害や名誉棄損に当たって訴えられるくらいだろうか。だが、小説もコラムも批評といった文章も、これまで相当な量をこなしてきたが、そんなトラブルは一度たりともなかったし、常にそういった点には気を配って筆を進めているつもりだったから、その方面ではないのではと思えた。
サン=ジュストと名乗った男は、男性にしては高めの声で、説明をつづけた。
「実は、あなたに財産を遺した人がおりまして。その手続きを顧問弁護士として契約していた、わが法律事務所が行っております」
遺産だなんて、寝耳に水だった。
親戚に不幸があったとは聞いていない。一体誰の。
「アレクサンドル・イヴァナビッチ・ボレツキイという名前に心当たりは――?おそらくすぐには思い当たらないでしょうが。その方があなたに遺産の一部を贈与したいとの遺言を残していて。詳しいことは、明日、出来ればお会いしてお話したいのですが」
名前からすると、ロシア人か東欧系だろうか。彼の言うとおり、名前を言われても、遺産を相続するような関係に全く心当たりはなかった。ギリシャ系には親族はいるが、ロシア系には聞いたことがない。だが、名前には聞き覚えがあるような気もする。
明日か。
明日は――。
彼女と過ごすはずだったが、今日の諍いで予定はキャンセルになってしまった。オスカルの部屋の窓を覆うカーテンが思い出された。
「お時間はそれほど取らせません、2、3時間もあれば」という彼の言葉に、申し出を受け入れることにした。待ち合わせの時間を決め、電話を切る。彼はアンドレのアパルトマンの前まで車で迎えに来てくれると言った。


ネットでボレツキイ氏のことを調べようと思ったが、停電中ではLANは使えないし、もし、オスカルが連絡を取って来た時のことを思うと、携帯のバッテリーは出来るだけ温存しておきたい。とはいっても、風前の灯なのだが。
誰かがドアをノックした。顔を出すと、同じ階に住む奥さんで、懐中電灯の電池と、あれば蝋燭を少し、夜まで停電がつづいた場合に備えて分けてくれないかと頼んで来た。
故障箇所が特定されていない、いつ復旧するか電力会社さえ見通しが立っていない事態に備えるならば、それくらいは必須だろう、お安い御用と取りに行こうとすると、数人の子供たちが連れ立って駆け出していくのが見えた。今日もいつもと変わらぬ元気な声を上げて。その中に自分の子供を見つけた奥さんが、「宿題はどうしたの!」と怒鳴りつける。
「今日はネットが使えないから、出来ないんだよ」と殊勝な声で答えたあと、廊下に顔を出したアンドレを認めると、強力な助っ人を得たみたいに声のトーンが変わった。「だから、仕方ないよね。アンドレ、またね!」と明るく言い放ち、仲間の子供たちを追って外に消えた。
アンドレは既に視界から消えてしまった背中に軽く手を振る。奥さんには、険しい表情で睨まれた。
廊下の奥さんに、蝋燭と予備の電池を渡した後、すぐにモバイルフォンを手に取ると、隣人とのやり取りの間に、完全にバッテリー切れしてシャットダウンしていた。真っ暗な画面を見つめながら、アンドレは深くため息をついた。お手上げだ。
ああ、これで薔薇色だったはずの数日間が台無しだ。
どんなに痛切にそう思っても、その気持ちは16区にいる彼女まで届かなかった。



結局、停電は朝になっても復旧しないままだった。それでも朝日は昇り、人間たちに光をそそいでくれる。部屋の中が明るくなるにつれ、普段、当たり前に思っていることのありがたさが身に沁みた。
昨夜は電気が通じている区域の公衆電話まで行って、オスカルに一回電話をかけた。だが、応答はなかった。やはりまだ腹を立てているのか。
朝食を済ませ、手持無沙汰で、他にすることもないので、弁護士との約束の時間まで本を読みながら過ごす。
約束した時間の5分前になると、アンドレはコートを羽織り、いつも仕事関連の書類を持ち運ぶのに使っている皮製のブリーフケースを手に取った。その中には、暗転したままのモバイルフォンと念のために充電器も忍ばせてある。初対面で多少図々しいかもしれないが、事情を話せば、彼の事務所かどこかで充電くらいさせてもらえるだろう。そうなれば、彼女とつながれる。

アパルトマンの前の歩道に出ると、視界の端に昨日のカラーコーンやら、それらをつなぐバーやらが放置されているのが見えた。深夜に及んだので作業員は一度帰宅してしまったらしい。一刻も早く復旧してほしいものだが、そこは労働者の権利という奴で。

アンドレがそちらを恨めしそうに見つめていると、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、ショートカットの黒髪美人がすぐ後ろに立っていたので、慌てる。
「ムッシュウ・アンドレ・グランディエですね」
整った唇から発せられた声は、昨日の電話の主と同じだった。
「サ、サン……ムッシュウ・サン=ジュスト?」
若き弁護士は笑顔を浮かべて頷くと、握手を求めて来た。少年のような白い肌は透き通り、唇はどこまでも赤い。男性と知っているからこそ、余計に感じるのだろうか、妖しいまでの、その中性的な冷たい美貌。
「それでは、早速ですが、あなたが受け取る遺産のある場所にお連れします。少しかかるので、資料は車に用意してありますから、移動中に目を通して下さい。」
女性と見まごうばかりの美青年だが、時間を一刻も無駄にしない計画性と合理性、てきぱきとした指示に、かなりの切れ者の印象を抱く。アンドレは言われるまま、彼の車に乗り込んだ。

車の中の封筒には、ボールドのサンセリフ体で「ロベスピエール&サン=ジュスト法律事務所」と印刷されていた。その下に事務所の所在地やHPのURLが、細字のサンセリフ体で添えられている。

車が発進した後で、資料を封筒から取り出した。まずは難解な法律用語が並んだ免責事項やらが書いてあるページが目に入る。一通り目を通してから、なぜボレツキイなる人物が自分の電話番号や住所を知っていたのかを尋ねると、アンドレがボレツキイ氏と会った際に、連絡用にネームカードを渡したのと、その後、アンドレが出した礼状に住所が書いてあったことから、転居の記録等を辿って判明したのだと、サン=ジュストはアンドレの方を見もせずに淡々と説明した。

それを手掛かりに、記憶を辿る。
自宅前の通りをバックで抜け、サン=ジャック通りを横断する頃には、アンドレはボレツキイ氏の顔をおぼろげに思い出していた。



(つづく)










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