フラクタル 〜奪回〜




外部からの情報が遮断され、時間の感覚が麻痺していく部屋の中で、一人、オスカルはベッドに横たわり、天蓋を見つめていた。時折、換気口から気まぐれに漏れて来ていたざわめきも、今はすっかりやんでしまっている。まるで、時間の流れが止まったようだ。
「明日の朝には」とベルナールは言った。
部屋の外では、着実に時が流れ、何かが進行している。そして、再び扉が開け放たれた時には、自分は何食わぬ顔をして、日常に戻れることが約束されていた。そうすれば、アンドレにも会えるのだ。
なのに、彼女の中には、ざわつくものがあった。
自分に約束された安寧よりも、今、おそらく起きてしまっている事象に、知っていながら、関われないことが口惜しかった。今夜、どれだけの血が流され、そして、その後、どれだけの血が流れるのだろう。
加えて、娘を助けるために、自分の信念を曲げた父の苦しみを思うと、どうにも、居たたまれなくなる。まだ、父親がそんな決定を下したことが、信じられないくらいだ。
天蓋に向かって両手を伸ばす。握り締めた掌は、むなしく空を掴んだ。

堂々めぐりに、同じ思考を何度、反芻しただろうか。
ガチャガチャと音が立つほど乱暴に、忙しなく鍵が解かれる音がした。もう朝になったのかと、オスカルが思った瞬間、ほとんど叩きつけるような勢いで扉が開かれた。
見ると、肩で息をしたベルナールが立っていた。尋常ではない気配に、オスカルは飛び起きる。彼は、大股で彼女の方に近づいてきた。表情は険しく、目は怒りに燃え、口元が痙攣するように震えていた。
とても、彼女を解放するために、やって来たとは思えなかった。
ベルナールは、入って来たままの勢いで、オスカルの側まで来ると、彼女に掴みかかろうとしたが、驚いた表情で見上げているオスカルと目が合い、かろうじて感情を抑えて、テーブルに向かって拳を振り下ろした。固い黒檀のテーブルが割れるのではないかと思えるほどの音が響く。さすがのオスカルも、びくりとし、身を固くした。
「…………やられたよ」
ようやく絞り出した声は、苦々しさで一杯で、オスカルは固唾を飲み、ベルナールを見つめた。
「将軍め……!我々には同意したと返事をしながら、政府関連の要所に軍を配備して、攻め込む隙も与えず、我々の実行部隊の動きを封じやがった。油田も押さえられて、我が方は壊滅状態だ……!失敗だ。交渉などしたことが、かえって、こちらの動きを知らせる結果になった……くそっ!!」
自分達の作戦が裏目に出たことが、よほど悔しいのか、ベルナールは椅子を蹴り倒すと、自分の肉体を傷つけるかのように、何度も拳をテーブルに打ち付けた。
拳から怒りを放出して、ようやく少し冷静になったベルナールは、オスカルの方に向き直った。彼女に、宣告すべきことがあった。
「……残念だが、これで、あんたの――」
オスカルは、俯いて、肩を小さく揺らしていた。ベルナールは、さすがに父親に裏切られたことがショックなのだろうと思った。父親に切り捨てられる苦しみは、自分にも理解できる。わずかに同情したものの、だが、このまま返すわけにもいかなかった。オスカルが、嗚咽のような小さな声をもらす。
残念ながら、解放でなく、死刑の宣告を下さなければならない。
「あんたの命は――」
そう、言いかけたところで、オスカルが吹き出した。ベルナールは、ぎょっとして、彼女を見つめる。彼女は、両手をベッドにつき、大きく頭をのけぞらせて、高笑いし始めた。背中に流れた金髪が、笑いのリズムに合わせてはねる。
ベルナールは、一瞬、気でも狂ったのではないかと思った。だが、彼女の笑いは、狂人の叫びに近いけたたましいそれではなく、心の底から愉快でたまらないという様子で、かえって混乱する。
「やってくれる!さすがは、父上だ」
「お、おまえ、父親に裏切られたんだぞ」
ベルナールが目を白黒させる。オスカルは、目の端にたまった涙を指でぬぐった。
「父は、なすべきことをしたまでだ。わたしは、裏切られたなどとは思っていない」
ベルナールは予想だにしなかった彼女の反応に、言葉を失う。娘の命を顧みない父親と、それを是とする娘と。いったい、どういう父娘なのか。
ひとしきり笑った後で、オスカルは真顔になった。
「――油田。確か、ワルディリアからは石油は産出されていないはずだが、今回、事を焦ったのは、それのせいか」
再び、鋭いところを付かれて、ベルナールは密かに舌を巻く。最新の探査・掘削技術により、油脈が発見されたのは、数年前のことだった。これまで経済的に本国に依存してきたため、独立に踏み切ることが叶わなかったが、これが大きな足がかりになることは、間違いなかった。だが、それは、諸刃の剣でもあった。石油が産出すると本国が知れば、独立運動への締め付けは、一層、厳しくなる可能性が高い。
開発は、できるなら秘密裏に行いたかった。密かにスポンサーを探し、それに応じたのが、オルレアン氏だった。一定期間、産出した原油を独占的に販売することを条件に、資金提供を受け、生産可能な状態にまでこぎつけたのは、つい最近だ。
今が千載一遇のチャンスだった。だが、それは、この目の前にいる女の父親のせいで失敗に終わり、油田の存在は公に知られるところとなってしまった。
怒りが再び、こみ上げて来る。ベルナールは彼女を冷徹な目で見下ろすと、エベールとアフメッドの名前を呼んだ。先ほど延期した刑の執行を命じる。
「始末しろ」
部屋を出て行くベルナールと入れ違うようにして、にやついたエベールと、どこか、おどおどとしたアフメッドが入って来た。オスカルは、しばし、二人の男達と無言で対峙する。
「殺るなら、銃殺か毒殺にしてくれ」
彼女がそう言うと、エベールが嘲笑した。
「はは……余裕だね。いい度胸だ。殺しちまうには、本当に惜しい」
舐めるような視線を浴びせられ、オスカルの背筋に悪寒が走る。
「おい、アフメッド、ロープ持って来い」
アフメッドは言われた通り、縄を取りに部屋を出て行った。
チャンスだと、オスカルは思った。さすがの彼女にも、男二人を倒して逃げることは不可能に近かったが、一人ならば、何とかなるかもしれない。しかも、相手は、女と見くびり、自分が優位に立っているためか、隙だらけだ。
オスカルは、思い切りよく立ち上がると、エベールの顎に下から掌打をヒットさせ、そのまま膝蹴りを腹部に命中させた。エベールは腹部を抱え込むようにして、よろけながら、2、3歩後ずさりした。すかさず、オスカルは出口に向かって駆け出した。もう少しで部屋の外というところで、戻って来たアフメッドとかち合う。
「おい……っ、そ…いつを押さえろ!」
呻きながら、エベールが命じると、アフメッドはオスカルに体当たりするような格好で、部屋に押し戻した。バランスを崩したオスカルの体が、アフメッドが覆いかぶさるような形で、床に倒れる。
油断した、とオスカルは思った。アフメッドと言葉を交わすうちに、自分の方も彼をどこか、こちら側にいる存在のように感じてしまったのだろう、攻撃の手が繰り出せなかった。彼も心を開いてくれたように感じていたが、父親が約束を反故にした時点で、彼は敵側の人間に戻っていたのだ。
「しっかり、押さえてろ!」
アフメッドに押さえつけられた彼女を後ろ手に縛ると、エベールは足首も拘束した。完全に抵抗できないように縛られながらも、オスカルは身をよじり、もがいた。
「ううっ……くそ!離せーっ!」
オスカルが叫ぶ。
「このアマ……!もう容赦しねえからな」
エベールは、床に転がされた状態のオスカルの上に覆いかぶさろうとした。しかし、その肩をアフメッドが掴んで、引き戻した。
「もう、やめようぜ。こんなこと……。逃がしてやろうよ」
「今さら、何言ってやがる!おまえが関わっていることは、こういうことなんだよ」
それでも、アフメッドは、腕を離さなかったので、エベールは舌打ちすると、青年を怒鳴りつけた。
「脱走中のくせに!邪魔するなら、警察に突き出すぜ!」
弱みを突かれて、アフメッドはようやく手を外した。下唇を噛み、色を失いながら、後退る。彼は、首を何度も何度も横に降りながら、廊下に消えて行った。
「お望みどおり、銃殺か毒殺で、あの世に送ってやる。だが、その前に……」
エベールの指がオスカルに伸び、白い顎を捉える。オスカルは反射的に顔を背けた。
身体をよじって、何とか男から逃れようとするが、手足を縛られたままでは、叶わない。両足を蹴り上げ、抵抗を試みるものの、簡単に押さえつけられてしまう。
「大人しくしてろ。死ぬ前に、いい目を見せてやるぜ」
わずかに触れられただけでも、反吐が出そうになった。エベールは、捕らえた獲物を弄ぶ獣のように、勝ち誇って、彼女の髪に触れ、下卑た薄笑いを浮かべた。彼女が青ざめ、怯えるのを明らかに楽しんでいる。
「いやだ……!離せ!――――アンドレ!アンドレ!!」
オスカルは、本能的に、彼の名を呼んだ。届かないことは重々承知していた。それでも、思わず口をついて出たのは、彼の名前だった。


アンドレが廊下に出ると、ホールを横切る人影が目に入った。よろめきながら、あぶない足取りで、ホールの奥の方から、出口に向かっている。先ほど、そこにひしめいていた、煌びやかに着飾った客達とは、シルエットが異なっている。もっとラフな格好をした若い男だ。手足がひょろりと長く、縮れた短い髪をしている。アフリカ系の若者。アンドレは、はっとして階段を駆け下りた。
「おいっ!おまえ!」
腕を掴むと、虚ろな目が振り返った。よくは覚えていなかったが、あの日、オスカルが捕まえた、引ったくり犯の一人に似ているような気がした。アンドレは、青年の胸倉を掴んだ。
「おまえ、オスカルを付けねらっていた奴だろ?オスカルはどこだ、どこにいる!?」
オスカルの名前が出て、アフメッドの方も、アンドレのことを思い出したようだった。
「あ、あんた……、あのひとと一緒にいた……助けてやってくれ。この奥の部屋に――」
そこまで聞くと、アンドレは、アフメッドが指差した方向に走り出していた。半分ほど引かれたゴブラン織り風のカーテンの向こうに、扉が見える。隠し部屋だろうか。それを開けると、細い廊下があり、その突き当たりに、もう一つ扉があった。彼は廊下を一気に駆け抜けると、突き当たりの扉も押し開いた。
誰かを組み敷いている男の後ろ姿が見える。床の上に広がる波打つ金髪が、男の背中の向こうに垣間見えた。
倫理も道徳も何もない男女の放埓と、首輪をはめられた哀れな生贄の姿がオーバーラップし、頭に血が上る。
何者にも侵されない強い光を放つ、金の光。絶対に守らなければならない存在。
アンドレは、我を忘れて、男に躍り掛った。


「アンドレ、もういい。もう、やめてくれ。わたしは無事だ」
懇願するようなオスカルの声に、アンドレは、ようやく自分を取り戻した。もう、何度、相手を殴ったのか。はっきりと、覚えていなかった。まだ、振り上げていた拳を相手にお見舞いする前に下ろす。エベールは、とうに失神していた。
「全く、なんてバカ力だよ」
床にしりもちをついたエオンが、悪態をついていた。かろうじて結われた髪は乱れ、ドレスにも皺が寄っている。おそらく、慌てて最低限の身支度を整え、アンドレの後を追って来たのだろう。床に倒れ込んでいるのは、なぜだろうとアンドレは思ったが、制止しようと腕を掴んだ彼を、力任せに振りほどいたような気がする。
立ち上がったエオンが、殴られて白目を剥いている男の呼吸を確認する。息はあるようだ。
アンドレは、自分を現に呼び戻した声の主の方を見た。彼女は、半身を起こしていたが、腕は後ろ手に縛られ、足も拘束されている。少し乱れた髪と着衣が、彼女の激しい抵抗を想像させた。彼女の悲鳴と、自分を呼ぶ声。やはり、間違いではなかった。今も耳の奥にこびりついて、離れずにいる。
アンドレは、ゆっくりとオスカルに近づくと、戒めを解いた。四肢が自由になったオスカルは、足首をさすり、それから手首をさすった。手首には、うっすらと赤い跡が付いている。アンドレが、震える手で、その跡に触れた。そっとさする。
オスカルは、彼の指先の動きを見つめた。触れた指先から、彼の感情が伝わってくるようだ。心配といたわりと、そして、少しの叱責と。彼に何も告げぬまま、側を離れて、こんな結果になって。
「大丈夫だ。それほど痛くはない。それより、おまえ、どうして……」
“ここにいるのか”と、言い終わらないうちに、オスカルはきつく抱きしめられていた。頭部に当てられた手も、腰に回された腕も、痛いほどに強くて、呼吸もままならない。胸が締め付けられる。
子供がふいに、思わぬところで抱きしめられて、驚き戸惑っているような表情をしながら、オスカルは、張り詰めた緊張がほどかれ、彼の腕の中で、全身の力が抜けていくような感覚を覚えた。
「もう、もうこんな思いは二度とごめんだ。……寿命が3年は縮んだぞ」
“すまない”と言いかけて、オスカルは彼の背中に腕を回し、しっかりと絡めた。指が食い込むほどに、強く抱きしめ返す。
目を閉じ、一番近くにいる彼にしか聞こえないほどの小声で、何度もその名を呼んだ。何度も。彼はその度に、抱きしめる力を強くして、自分の腕の中にいる、彼女の存在を確かめた。



(つづく)





<<Prev. Next >>