フラクタル 〜終劇〜




「あのー、お取り込み中、悪いんだけど、できるだけ早く、ここを離れた方が――」
エオンに恐る恐る声をかけられて、やっと、オスカルは顔を上げた。
「貴女は、確か、ホテルでお会いした……」
オスカルの言葉が、そこで止まる。
彼女は、アンドレから少し体を離すと、ドアの方を振り返った。アンドレも、警戒するような表情で、そちらを見る。ドアの所には、アフメッドが立っていたが、やはり、廊下の先にあるホールの様子を伺っている。
今は、廊下の向こうの扉まで開け放たれているそこからは、数人の男の怒号が、かすかに聞こえていた。大勢の足音と、もみ合うような気配もする。
「あら、もう?」
そう言った、エオンだけが冷静だった。まるで、事態を予測していたかのような素振りに、アンドレが訊く。
「おまえ、何かしたのか?」
「“布石は打った”って言ったでしょう?うちの上司に、ここで行われた“行為”の隠し撮りを送ったから、早速、動いたみたい。わたしの専門はサイバー犯罪だけど、うちは、よろず監視団体だから、賭博や売春、テロなんかも扱ってるのよ。ここ、内偵はしてたけど、決定的証拠がなくて踏み込めなかったから」
ちょっと、出張るのが早すぎるのは、どこかから突っつかれたせいかもしれないけれどと、ちらりと横目で、オスカルの顔を見る。
「結局、黒い騎士は捕まえられなかったけど、ここの摘発で、点数稼ぎになるし、もし、お嬢さんが囚われているなら、どさくさ紛れに救出できるかもと思って」
どう転んでも、彼にはプラスになると踏んでのことらしい。
「おまえ、どこまでも、行き当たりばったりだな……」
あきれるアンドレに、オスカルが割って入った。
「“黒い騎士”なら、ほら、そこに転がっているぞ」
アンドレもエオンも、驚いた顔をして、オスカルが指し示した方を見ると、そこには、先ほど、アンドレにしたたか殴られて、のびている男の姿があった。
「ええっ?こいつが黒い騎士?この間抜け面が!?確かに、通信可能ポイントを知ってたけど」
エオンが男の顔をよくよく見ると、それは、昨夜、自分に言い寄って来た男で、しかも、ちょっと色よい態度を取ったら、妨害電波が張り巡らされている館内から、通信可能なポイントまで、見つからずに出る方法を簡単に教えてくれた男だった。その男が黒い騎士である可能性はなくはなかったが、慎重で周到なハッカーと、目の前で、だらしなく横たわっている男の姿が、にわかには一致しない。
「まあ……いいわ、取り調べれば、分かることだし」
エオンは、オスカルが縛られていたロープでエベールの体を縛り上げると、アンドレに手伝ってもらって運ぼうとした。
「どこへ?」
「この男に教えてもらった抜け道から、外に出ましょう」
昨夜、男が教えてくれたのは外に通じる秘密通路で、その時、この館がどこにあるのかも、だいたい分かったという。
「オスカル、警察に関わると、また面倒なことになるし、今は、こいつの言うとおりにしよう」
エオンと二人でエベールを担ぎながら、アンドレはそう言ったが、オスカルは首を横に振った。
「まだだ」
「おい、オスカル!」
何が残っているのだと、アンドレはオスカルを説得しようとしたが、彼女は全く聞く耳を持たなかった。さっさと身を翻すと、急展開に対応できずに、呆然と立ち尽くしていたアフメッドに近づいた。
「ベルナールの所に連れて行ってくれ」
アフメッドはびくりとして、背筋を正した。有無を言わせぬ口調に、混乱していたせいもあるのだろうが、まるで、上官の命令に従うかの如く、一も二もなく「はい!」と素直に返事をした彼は、オスカルを先導し始める。
「ちょっと、ちょっと、あんたの恋人は、何を考えてるの!?」
エオンの言い分は最もだった。だが、ああいった顔をした時の彼女に、何を言っても無駄だということがアンドレには分かっていたので、仕方ないと肩をすくめる。
「すまないが、オスカルを追わせてもらう」
アンドレは、支えていた男の体をエオンに押し付ける。エオンの肩に、ずしりと失神した男の体重がのしかかった。
「……もう、あんた達は!仕方ない、早く行きなさいよ!」
エオンに、抜け道の場所について手短に説明を受けると、アンドレは、オスカルの後を追った。
「はぁ……もう、どうするのよ、これ」
アフメッドとオスカル、それを追うアンドレがホールを抜け、つづいてエオンが、まるで死体でも引きずるかのように、縛られたエベールの体を抜け道への隠し扉まで運んだ直後、パンッと乾いた音が館内に響いた。拳銃が発射された音だ。その音で均衡が一気に崩れる。同様の破裂音が数発つづき、警備側も応戦していた様子だったが、決壊した防波堤から溢れ出る水を押しとどめることが不可能なように、国家権力の部隊が、ホールになだれ込んだ。
階段を駆け上がる足音、ドアを蹴破る音、逃げ惑う人々の悲鳴。何か重いものが床に落ちた鈍い音がし、制止を求め、鋭い声が飛び交う。

混乱の極みを背後に聞きながら、アフメッドを先頭に、オスカルとアンドレは、ベルナールの元へ向かっていた。
アフメッドは、昨夜、アンドレが佇んでいた付近に据え置かれていた彫像まで駆け寄ると、剣を持った方の手を持ち上げた。すると、像の台座が動き、大人が一人やっと通れるほどの入り口が現われた。彼は、するりとそこに潜り込んだ。
「こんな所に。まるで、からくり館だな」
アンドレが小さく口笛を吹く。いくつもの隠し扉に抜け道に。
「貴族の館など、どこもこんなものだ」
そう言って、正方形の穴に、しなやかに体を滑り込ませたオスカルの後を、少々、窮屈そうにしながら、アンドレも抜ける。
中は、暗い石造りの階段だった。螺旋状に下へ下へとつづいている。ところどころに灯っている電球のおかげで、足元はかろうじて確認できたが、煉瓦の壁の隙間から滴っている水滴で表面が濡れており、アンドレが足を滑らせ、少しよろけた。
何度も出入りしているのだろう、アフメッドが階段の上から五段目の隅にある、出っ張った敷石を迷わず踏むと、反対側の隅にある敷石が持ち上がり、同時に、頭上の台座がゆっくりと動いて、入り口は再び閉ざされた。
螺旋状になっている階段を何周か回り、数メートルも潜っただろうか。行き止まりに、鉄の扉が見えた。アフメッドが重たそうな扉を押し開くと、カチャカチャとキーボードを叩く音が耳に入った。扉は自重で閉まっていく。
室内はほとんど真っ暗で、PCのディスプレイだけが闇に浮かび、その光で、画面に向かっている男のシルエットが、黒く形作られている。壁に沿って、アクセスランプが忙しく点滅を繰り返していたので、何台か置かれている直方体の金属の箱が、ハードディスクやCPUだと分かった。それらを繋いでいるケーブルは、床の上を蛇のように這っている。
「黒い騎士!」
アフメッドが声をかけたが、ベルナールは振り返りもせずに、作業をつづけていた。
「アフメッド、上が騒がしいようだが、何かあったのか?あの女の始末はつけたのか?」
質問しながらも、忙しく指を動かし、コマンドを確認して、最後のエンターキーを押す。それから、ベルナールは、ようやく振り返った。
アフメッドの後ろに他の人間がいるのに気づいた彼は、声こそあげなかったが、一驚して目を見開いた。まるで、幽霊でも見たかのように、硬直する。そこには、ここにいるはずのない人間が立っていたからだ。
その背後では、いくつもの“deleted”と“complete”の文字が交互にスクロールして、上から下へと流れて行った。
「どういうことだ、アフメッド……!裏切ったのか?」
「そ、そんなつもりじゃ……」
アフメッドが慌てて否定する。
「ベルナール・シャトレ」
オスカルの低めてはいるが、よく通る声が、小部屋に反響した。ベルナールは、彼女の顔をまじまじと見つめた。その間も、マシンは律儀に命令された通りの仕事を実行しつづけ、その結果がディスプレイに映し出される。
オスカルがベルナールに、ゆっくりとした歩調で、一、二歩、近づいた。何かあってもすぐにガードできるように、アンドレはすぐ後ろにぴったりと寄り添う。
万事休すだ。ベルナールは椅子から立ち上がった。この女は、自分を拉致監禁し、あまつさえ殺めようとした首謀者を、軍か警察にでも突き出すために来たに違いなかった。この追い詰められた状況には、さすがに、青ざめて下唇を噛む。袋小路に追い詰められた獲物にでもなった気がして、全身が総毛立つ。しかし、大人しく捕まるつもりはなかった。彼は、二人にいつ、飛び掛られてもいいように身構えると、PCの載っている机の引き出しの下に、右手を滑り込ませた。
ベルナールの緊迫した動きとは裏腹に、オスカルの動きは、どちらかといえば緩慢だった。すぐにはベルナールの方には向かわず、鷹揚に部屋を見回して、チカチカと忙しく点滅を繰り返すマシンのアクセスランプに触れ、それからコンクリートの壁にも触れた。指先がひやりとする。
「こんな所に引き篭もっているから、暗い考えばかり浮かぶのだ」
笑顔すら浮かべたオスカルにそう言われ、ベルナールは肩透かしを食らわされた思いで、眉間に皺を寄せた。しかし、油断することなく、彼女とその背後の男の動きを凝視しつづける。仕掛けるタイミングをはかっているのかと、臨戦態勢は取ったままだ。
彼女の動きは相変わらず、ゆったりとしていた。さらに、彼女の口からは意外な言葉が飛び出す。
「もっと明るい場所で、もう一度、生まれ変わったつもりで、別の方向から、独立運動を支えてみないか?」
「は?」
予想だにしなかったことを言われて、ベルナールは唖然とした。この女は何を言っているんだと、困惑する。アンドレも、彼女の顔をじっと見つめた。
オスカルが、つかつかと真っ直ぐに、今度こそベルナールの方に向かった。ベルナールは反射的に、引き出しの下から右手を出し、オスカルに向かって大きく振り上げた。
手には短剣が握られている。
アンドレが、彼女をかばうように、慌てて前に躍り出ると、今度は振り下ろされた白刃が鼻先をかすめ、切られた前髪が、はらりと落ちた。
「アンドレ!」
叫びながら、オスカルは、すかざずベルナールの手首めがけて手刀を振り下ろし、短剣をはたき落とした。大振りしたため、次の攻撃に移るまでに僅かな隙が出来ていた。
「アンドレ!大丈夫か?すまない!」
オスカルが蒼白になって、彼の顔を確かめる。
心臓に鉛の弾でも打ち込まれたような痛みを感じた。脳裏に、血で染まったかつての彼の顔が浮かび、心臓は全力疾走した直後のように早鐘を打った。また自分の身勝手な振舞いに巻き込んで、彼に消えない傷を負わせてしまったのか。
しかし、アンドレが額に手を当てていた手をどけると、幸い、そこには、傷一つなかった。
一滴の血も流れてはいない。きれいな頬、開かれたままの黒い瞳。泣きそうな顔で、それでも安堵の表情を浮かべた自分が、確かに映っていた。オスカルは思わず、そっと、左目の辺りに触れた。
アンドレの無事を確認した彼女がベルナールを一瞥すると、彼は抵抗する気が失せたのか、手首を押さえ、その場に立ち尽くしていた。床に落ちた短剣は、アフメッドが拾い上げていた。
誰も何も言わない。次に何が起こるのかは、それぞれの頭の中で、映画のシーンのように展開されていたが、しばらく、すくんだように動かなかった。
その均衡を破ったのは、オスカルだった。
彼女は、机の上にあったメモパッドに、ボールペンで何やら書き付けた。
「その気があるなら、ここに連絡しろ」
そう言って、ベルナールに破り取ったメモを渡すと、さらに、もう一枚に、ペンを走らせ、破り取る。
ベルナールは、渡されたメモに視線を落とした。そこには、2件の連絡先が書かれていた。
一つは、報道関係者ならば、誰もが知っているカリスマ的存在の名前だった。国際的な通信社のデスクを長年務めている人で、これまで、世界的に著名なジャーナリストを何人も育てている。彼の元で働けるなら、無給でも構わないと言う者もいるくらいだ。
もう一つは、女性の名前だった。
「なんだ、これは……!どういうつもりだ!?」
ベルナールが声を張り上げる。
「パリに出て、やり直せ。当座の面倒は見てくれるよう、その女性に、わたしから頼んでおく――ただし、条件がある。今の組織とは手を切って、黒い騎士としての活動は、もうやめろ」
「おれに指図する気か!?余計なお世話だ!それに、お…おれは、おれは、あんたを殺そうとした男だぞ」
「そうだったな」
彼女は、そんなことは忘れていたという表情で、ふふっと笑った。
「その貸しは返してもらわないと。険しい長い道になるだろうが」
「情けをかけて、いい気になるつもりか……!偽善者め!」
動揺した様子のベルナールは罵り続けていたが、オスカルは意に介さず、ディスプレイに映し出される文字を目で追っていた。
黒い騎士の過去の記録。これまで、ベルナールが黒い騎士として活動してきた痕跡とデータが、次々と消去されていく。
「見せてくれないか?血の流れない革命を。おまえになら、それが出来ると信じている。新聞記者、ベルナール・シャトレ」
オスカルがセリフを言い終わるのを待っていたかのようなタイミングで、コマンドの流れが、ふっつりと途切れた。最後に、“complete”の文字がもう一度表示され、数度点滅すると、そうプログラミングされていたのだろう、ディスプレイの電源がいきなり落ち、つづいて、全ての周辺機器と演算装置が一斉に停止した。急に訪れた暗闇に、視界を奪われる。

壁伝いに、入って来た扉を探り当ててアンドレが開け、階段からの光が部屋に入った時には、既に、その部屋からベルナールの姿は消えていた。



階上での騒ぎが、ある程度の収束をみた頃を見計らって、三人は再び彫像を動かして、ホールに出た。館に滞在していた人間は連行された後で、踏み込んで来た大半も引き上げたようだ。残っていた見張り役の目をかいくぐり、エオンに教えられた場所に向かう。教えられたその場所には、先ほどと似た螺旋階段があった。ただし、先ほどと反対で、今度は昇りの階段だった。
少し息を切らした三人が、階段を昇り切ると、石造りの天井に突き当たった。すき間を見つけ、その辺りを動かしてみる。ゴトリと音を立てて、平たい石が動いた。新鮮な空気が流れ込んでくる。
外に出てみると、そこは小高い丘の上だった。水が流れ落ちる音が聞こえる。辺りには崩れた石組みが転がり、かつては屋根を支えていたであろう柱の残骸が、規則正しい間隔で立っている。どうやら、城跡のようだ。眼下には海と、目覚めかけのニースの街が広がっていた。
「……こんな所に、あったとはな」
意外だったとオスカルが苦笑する。そこは、プロムナード・デザングレの東端に位置する展望台のある丘の上で、ジャルジェ家の別荘とは、目と鼻の先だ。
アンドレは、館につづくエレベーターに乗る際に垣間見えた、特徴的なアーチ型の柱のことを思い出した。どこかで見たことがあると思ったが、昨日の昼間、別荘を訪れた時に遠目に見えた、展望台につづくエレベーター前の柱だったのかと、やっと合点がいった。
悪徳の城は、丘の地下に築かれていて、展望台に行くエレベーターとは別のものか、もしくは同じエレベーターが、ゲストを迎える夜だけ、特殊な仕掛けで、あの城の入り口に向かうように制御されているのかもしれなかった。
「おれ……あの……」
二人の背後に、成り行きでここまで付いて来てしまった、アフメッドがいた。身の置き所がなくて、そわそわしている。彼もオスカルを窮地に陥れる片棒を担いだのだから、このまま、二人に付いて行くわけにもいかないと思っていた。
「おまえは自首しろ、アフメッド」
オスカルは、彼に、先ほど書いた、もう一枚のメモを差し出した。そこには、彼女の連絡先が書かれている。一度、逮捕された彼は、このまま逃がしても、脱走犯として追われるだけだ。まだ彼は若い。罪を清算して、やり直すべきだと思った。そのためには、協力を惜しまないつもりだった。
ベルナールのことは秘密にしておいてやってくれと言い含めると、彼は小さく肯いた。アフメッドは、オスカルとアンドレに背を向け、一目散に走り出す。
「それと、食べ損なった手料理、よかったら、いつか食べさせてくれ」
走り去る背中に向けて投げかけたオスカルのその言葉が、彼に届いたのかどうか。アフメッドの姿は、朝もやの中に消えて行った。二人は、黙って彼の後ろ姿を見送っていた。
「そうだ、これ」
アンドレが、シャツの胸ポケットから、オスカルの携帯電話を取り出した。エオンから預かったそれを、お守りがわりに持っていたものだ。祈念していたように、電源が生きているうちに、無事に彼女に返すことができた。彼女の白く長い指に、それは、しっかりと握られた。
「家族に。もう連絡は行っているかもしれないが、本人の声を聞いたら、安心するだろう」
オスカルは、登録してある番号から一つを選び出し、発信した。一回目の呼び出し音が終るか終らないかのうちに、相手が出る。
「――オスカルです、母上」
電話口の母親は、事情を知っていたらしく、彼女の名前を呼んだその声は、震えていた。涙声で、怪我はないか、今は安全な場所にいるのかと、矢継ぎ早に訊く。オスカルは肯きながら、大丈夫です、はい、と安心させるようにしっかりと答えを返す。
娘の無事を実感して落ち着くと、彼女の母親は、口ごもった。それから、今度はオスカルを諭すような口調で言った。
「……オスカル、これだけは分かって下さい。お父様は、決して、あなたを見放したのではないのですよ。事後処理にお忙しくて、今すぐには、あなたの所へは向かえないけれど、どれほど、あなたのことを心配していたか。最後まで、お心の中では、迷われて――――」
蜂起を鎮圧したとはいえ、まだ残党は残っているだろうし、刺激を受けたその他の反政府勢力の活動が活発化する恐れもある。治安維持ばかりでなく、今回は油田の件もあり、おそらく、数週間は対応に追われることになるだろうことは、オスカルにも重々分かっていた。自分の父親は、そういう立場の人間だ。
「母上、どうぞ、父上にお伝えください。オスカルは――」
彼女は、穏やかな声で言った。そばに立ち、彼女を見守っていたアンドレには、清々しいくらいに聞こえる。
「オスカルは、父上の子として生まれたことを、誇りに思っておりますと」
通話を終了すると、やりとりを聞いていたアンドレは微笑んだ。
「うちも、ちょっと変わった父子だけど、オスカルのところも、だいぶ変わっているな」
あきれただろうと、オスカルが愉快そうに笑う。アンドレは少し首をかしげみせた。それから、二人は、じっと見詰め合った。
ようやく、落ち着いて、互いの目を見ることができた。わずか一日しか離れていなかったというのに、もう何日も離れていたような気がする。
アンドレの目に、微笑んだオスカルが映り、オスカルの目に、彼女をしっかり見下ろすアンドレの顔が映る。彼の目、彼女の瞳。どちらからともなく相手に手を伸ばし、存在を確かめるために、体に触れようとした。
「脱出成功、おめでとう!ずいぶんかかったじゃない?」
そう声をかけられ、二人は伸ばしていた手を引っ込めた。声のした方角を見る。白みかけた東の空を背にして、誰かが近づいて来ていた。二人は朝日のまぶしさに目を細める。
女性にしては大柄なドレスのシルエット。エオンだ。
「おまえも無事に脱出できたか。エベールは?」
アンドレが一歩進み出て尋ねると、とっくの昔に、駆けつけたエオンの仲間に引き渡したという。ともかく、互いの無事を喜びあう。オスカルは、二人のやりとりを見ていて、少し唇を尖らせた。彼女に背を向けていたアンドレは、オスカルのその微かな表情の変化に、その時は気づかなかった。
アンドレの半歩ほど後ろに立ち、二人の様子を黙って見ている彼女に気づいたエオンが、彼女に笑いかけた。
「今回は、大変な目にあわれましたね。でも、ご無事で何よりでした」
「……ありがとうございます」
しかし、オスカルの声には、どこか警戒したような、相手との間に壁を作っている固さがあった。
「オスカル、どうした?」
彼女の態度が、少しおかしいことに気づいたアンドレが、気持ちの張りがほぐれたところで、どこか痛み始めたのではないかと、彼女を気遣った。労るように彼女の肩に触れようとしたが、オスカルは、その手をはねつけた。
「大丈夫だ。心配してもらわなくても」
彼女の言葉がとげとげしかったので、アンドレは戸惑った。急に、どうしたというのだろう。わけが分からない。
先にピンと来たのは、エオンの方だった。意地の悪い笑みが口元に浮かんだが、オスカルに気を取られているアンドレは、また、その表情を見逃した。
エオンは、女神のごとき極上の微笑を浮かべると、素早くアンドレの手を取った。意表をつかれた表情のアンドレの手を、両手でしっかりと包み込み、妙にやさしげな、艶っぽい声を出す。
「今回は、あなたの協力のおかげで、一件落着したわ。本当に、本当に、ありがとう、アンドレ。あなたがいなかったら、どうなっていたことか」
ため息すら交え、感謝の言葉を並べ立てる。
「いや、それほどでも」
まだ、オスカルとエオンの間に流れる微妙な空気に気づかないアンドレは、彼の言葉を素直に受け取り、少し照れながら頬を緩ませた。こいつには途中、腹を立てさせられることもあったが、なかなかいい奴だったのだな、とまで思う。
「……もういい、二人でよろしく、やっててくれ」
さらに不機嫌になったオスカルは、耐えられないと、二人から離れ、すたすたと歩き出した。
「おい、ちょっと待てよ、オスカル!」
アンドレが慌てて追ったが、オスカルは止まらないばかりか、かえって足を速める。彼が追いついても、まっすぐ前を見たままで、顔を見ようともしない。
「どうしたっていうんだ?」
早足の彼女の横に並びながら、アンドレが尋ねる。オスカルは無言で歩き続け、やっぱり、彼の方を見ない。もう一度、アンドレに同じ質問をされて、ようやくオスカルは口を開いた。
「彼女とは、おととい会ったばかりなのに、vous ではなく、もうtu か。ずいぶん親しそうじゃないか」
「あ……」
“彼女”という単語を聞いて、アンドレは、ようやくオスカルのお冠の理由を察した。焦る。エオンが女性だったら、もっとオスカルの気持ちに配慮したかもしれないが、彼の中では、どんな格好をしていようと、エオンは男性という認識だったから、まさか、オスカルがそんな風に勘繰っているとは、夢にも思わなかった――誤解だ、オスカル。
「一緒に過ごした、昨夜のことは一生の思い出にするわ!」
説明しようとする彼に追い討ちをかけて、さらに混乱させる言葉をエオンが叫び、大きく手を振った。アンドレはたまらず振り返り、きっと彼を睨みつけた。こいつ、面白がってやがる。絶対にわざとだ。やっぱり、性格のねじ曲がった嫌な奴だった。
「おい、リア……いや、エオン!おかしな言い方をするな!」
違うんだ、オスカルと振り向くと、青ざめて唇をわななかせ、殺気すら帯びた彼女の姿があった。
「…………アンドレ、どういうことだ……わたしが、とんでもない目にあっている間に、おまえは、一体、何をしていたんだ!」
エオンは、アンドレにキスを投げると、オールボワール、また連絡するわと、朗らかに笑いながら、二人とは反対の方向に、軽やかな足取りで立ち去って行った。
オスカルも、アンドレを置き去りにして、再びつんと顔を背けて歩き出す。
「あ、ちょ……っ、待てよ、オスカル!!こら、エオン!このままで行くなっ!頼むから、誤解を解いてから行ってくれーっ!」
気の毒すぎる叫びは、空に吸われ、東の空からは、ニースに到着してから、2回目の朝日が穏やかに昇りつつあった。



(つづく)





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