フラクタル 〜on the edge〜


【ご注意】
場面の雰囲気を表現するため、反社会的な行為の描写があります。不快に感じられる方もいらっしゃるかと思われます。そのような表現が苦手な方は、一部、描写を省いた別バージョンをお読み下さい。そちらでも、お話の筋は全く変わりがありません。
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大丈夫な方は、このまま、お進み下さい。




ワルディリア、フランスの海外県の一つ。アフリカ大陸における唯一の海外領土。チュニジアの南に位置し、西はアルジェリア、東はリビアと国境を接する。
総面積は11,294平方キロメートル、人口は約60万人で、そのほとんどが首都のワルド(アラビア語で「薔薇」を意味する)に居住している。
民族構成は、ヨーロッパ系混血住民(主にフランス人と、アラブ、あるいはアラブ以前の先住民との混血)が、人口の約96パーセントを占め、それに、ヨーロッパ系(主にフランス人)、華人、ユダヤ人、印僑などがつづく。ベルべル人の集落も一部に存在する。
公用語はフランス語だが、実際にはフランス語クレオールも話されている。
ほとんどが砂漠地帯で、北部ではわずかに小麦などが栽培されている。通貨はユーロ、主な産業は観光業、鉱山業(亜鉛、銀、鉄、鉛などがわずかに産出)、繊維業、農業など。行政区画は西部、中央部、東部の計3つあり、中央部に首都がある。
カトリック教徒が多かったため(現在は85%以上がカトリック、5%がプロテスタント、以下、イスラム教などが信仰されている)、チュニジア独立の際、フランスの領土として残った。フランス軍の駐屯地がある。
近年、独立運動が盛んになっているが、経済的にフランス本国に依存しているため、実現には至っていない。




オスカルは、ベルナールの口元を見つめ、言葉を待った。父は何と回答したのか。彼女にとって、生死の宣告。そして、それは……。
表情には出さないように努めたが、テーブルの上に置いた拳の中が、じっとりと汗ばむ。
「…………おめでとう」
ベルナールは笑ってみせた。「将軍は、愛娘の命を救うために、我々の要求を飲むそうだ」
オスカルは全身の力が抜けたような気がした。無表情のままで、ベルナールの目をじっと見つめる。あの父が……?
「なんだ、嬉しくはないのか?これで無事に帰れるんだぞ。それに、父親が職務を犠牲にしても娘を思う気持ち、ありがたいじゃないか」
オスカルは沈黙を貫く。
「密約を反故にされては困るから、念のため、事が終るまで、ここにいてもらうが、明日の朝には戻れる。何か欲しいものでもあれば、できるだけのことはさせよう。アフメッドに言いつけてくれ。ではな」
ベルナールは、そう言い残すと、慌しく部屋を出て行こうとした。“決行”のために、やるべきことが山積みなのだろう。
「――ワルディリアの独立か」
ベルナールの背中に向かって、オスカルが言葉を投げつけた。彼は、足を止めると、固い表情をして振り向いた。
「誰から聞いた?」
「誰からも。身代金目当てでなく、“父親が職務を犠牲にして”要求を飲んだのなら、軍事行動しか考えられん。南フランスの近傍で火種になりそうな場所といえば、独立運動が盛んな、北アフリカのワルディリアくらいだろう」
ベルナールが舌打ちをした。彼女は自分の考えが正しいことを確信する。
今夜、首都で蜂起が起き、一気に制圧しようと目論んでいることは、もう間違いない。
「女だと、ちょっと甘く見すぎていたかな。さすがはジャルジェ将軍の娘だけのことはある。だが、今さらそれが分かったところで、どうということはない」
ベルナールの顔は、少し青ざめているようだったが、まだ声は冷静さを保っていた。オスカルは、もう少し揺さぶりをかけ、情報を引き出そうと、言葉をつづけた。後で、何かの役に立つかもしれない。
「ワルディリア駐留軍の統合司令官は、何という名だったかな。確か、最近、体調を崩して療養中と新聞で読んだが。その代理として、父が引っ張り出されたのか――」
「黙れ」
ベルナールの声音が、急に厳しくなった。オスカルは、その変化を聞き逃さなかった。彼女としては、ワルディリアに関して知っている限りを並べ立てただけのつもりだったのだが、意外なところで弱みを突いたようだ。
あの司令官は何という名だったか。確か、父から昔、話を聞いたことがあったはずだ。年は父と同じくらいだったが、あまり素行がよくないので、父とは親しくはなかったが――。
頭の中では、必死に情報を関連付け、まとめようとしながら、表面は極めて冷静を装い、口元には微笑すら浮かべる。何もかもわかっているとでも言いたげに、彼女は腕を組むと、鎌をかけてみた。
「“黒い騎士”というあだ名で通しているのは、司令官の関係者だからだろう?親戚……」
そこまで、全くのあて推量だったのだが、ベルナールが気色ばんでいくのが、ありありと感じられた。意外に直情径行で、激しい性格の男だったようだ。オスカルはさらに畳みかける。司令官の年齢と、ベルナールの年恰好を考えれば。
「息子……」
「黙れ!」
ベルナールが一喝する。彼としては、公にしたくない話なのだろう。しかし、精神的に優位に立ったオスカルは、チャンスとみて、攻撃の手を緩めない。
「司令官はシャトレ姓ではなかったと思うが、庶子かな。でも、関係など、少し調べればわかるからな。関係者となれば、内通していると疑われかねないし」
「あんな奴、父親だなどと思ったことはない!あんな最低の人間……!」
言い切ったベルナールの言葉には、彼女に対する怒りではなく、父親に対する恨みが篭っていた。オスカルは、それ以上は言葉を継がず、ベルナールの言うがままに任せた。
「パリに家庭があるくせに、駐留先のワルディリアでおれの母親に手をつけて、引き上げることが決まったら、あっさりと捨てやがった……おれが5才の時だ。母は、絶望して、おれを抱えて身投げして……死んだよ……。それから、おれがどんな思いで生きて来たか、何の苦労もなく、家族の愛情に包まれて育った、あんたのような人間には、想像もつかないだろうが」
ベルナールは激して、肩で息をしている。
「またワルディリアに駐留が決まった時は、踊りだしたくなるくらいだったよ!あいつの面子を徹底的に潰して、復讐してやろうと!!すぐに独立運動に加わった。ワルディリアに対するフランスの圧制には、昔から反感を抱いていたしな、一石二鳥だった!それが、それが……」
ベルナールは、握り締めた拳を震わせた。
「公には“体調不良”になっているが、愛人に刺されたんだよ。笑えるだろう?そんな末路!息子の復讐すら引き受けない、最低の男…………だがもう関係ない――もう、この世にはいないんだから。一昨日、意識が回復しないまま、死んだよ」
感情を爆発させて、気持ちが落ち着いたのか、ベルナールの声は、少し冷静さを取り戻していた。
「父親が亡くなったのならば、もう復讐する必要もなくなったということではないのか?」
まだ、スタートしていないのならば、武装蜂起を何とか止められないだろうかと、彼女は思った。たとえ、父が進軍を多少、遅らせても、両者に死傷者が出るのは、目に見えている。
「もう遅い。もともと、おれ個人の問題は、おまけみたいなものだ。賽は投げられたんだ」
ワルディリアの独立が、正しいことなのか、間違っていることなのか、オスカルにも分からなかった。だが、武力で実現した革命が、その後も多くの血を要求するということは、歴史が証明している。
「なぜ、こんなに事を急ぐ必要がある。おまえならば、もっと着実に、世の中の見方を変えさせることもできるだろうに――何か理由があるのか」
オスカルは、ベルナールの新聞記者としての力量を思った。彼ならば、世の中の見方をゆっくりではあるが、着実に変えられるに違いないと、本気でそう思っていた。
ベルナールはもう、その件に関しては答えなかった。ただ一言、最後に、言い捨てる。
「不思議だな。なぜか、あんたには、いつも喋りすぎてしまう……」
彼はドアを開けると、顔をのぞかせたアフメッドに、「監視は厳重にしろ」と命じた。アフメッドは、彼女の父親が要求を飲んだことを知らされたのだろう。ひょこっと顔を出すと、親指を突き立てて、白い歯をむき出しにして、にっと笑ってみせた。
彼女は、力なく微笑みを返したが、うす暗い室内の表情が読み取れたのかどうか。すぐに扉は再び閉じられ、彼女は複雑な思いを抱えながら、身を固くした。


アンドレは、天井から吊り下げられたカーテンのドレープの陰で、壁にもたれながら、一人、目に入る光景を見るとはなしに見ていた。エオンは「探りを入れてくる」と言って、彼の側を離れていた。
そこは目立たない場所になっていて、不本意ながらこの場にいる彼には、都合がよかった。少し湿気ってカビ臭いにおいがするためか、休息できる長椅子なども置いておらず、誰も近づいて来ない。人影といえば、彼以外には、ニーシュ(壁龕)に立つ、ローマ時代の戦士の格好をした彫像くらいのものだった。
本当は、オスカルを探し回りたいくらいだったが、衝動をぐっとこらえる。下手に動いて、ここを追い出されては、一縷の手がかりさえ失うことになりかねない。
黙ってしばらく見ていると、自然と、そこで繰り広げられる人間模様がわかってくる。超が付く高級な部類なのだろうが、明らかに娼婦とわかる女性が何人もいて、男性に媚を売っていた。昨日のパーティー会場にいた、太り方に特徴のあるマダムが、息子ほど年齢の違う男にしなだれかかっている。やがて、二人は階段を昇ると、中二階にあるドアの一つに消えた。そういうためにあるのかと、いくつもあるドアを見上げて、アンドレは納得した。
広間を行き交う、一見、華やかで優雅だが、退廃的で、全てに飽いた、どこか毒を含む人々の群れ。
「ねぇ」
知らない女から、声をかけられる。育ちのよさそうな若い女性だったが、目がうつろで、仕草もどこか不安定だ。
「あなた、クスリ持ってない?」
「いや、おれは……」
女は何がおかしいのか、くすくすと笑った。アンドレが避ける間もなく、その腕を取ると、自分の胸を押し当て、さらに、彼の胸を服の上からなでるようにしながら、鼻にかかった甘ったるい声を出した。
「ムッシュウ、一人なら、今夜、私と……」
そう言って、彼の肩に頭をもたせかけようとした時、アンドレが反対方向に引っ張られたので、女はバランスを崩した。
「ごめんなさいね、彼、私と先約があるの。悪いけど、他を当たって下さるかしら?」
そう言って、アンドレの腕にしっかりと自分の両腕を巻きつけたのは、エオンだった。女は、忌々しげにエオンを睨んだが、何も言わずに、さっさと二人の元を離れた。女のもとに、すぐに、もみ上げの濃い、たれ目の男が近づいて何か話しかける。女は、それで機嫌を直したようだった。
「助かったよ、エオ……えっと、リア」
アンドレがほっとして言う。
「本当に?ちょっとくらい遊んでもいいのよ。彼女には内緒にしておいて、あ・げ・る・から」
エオンがからかうように言うと、アンドレは眉をひそめた。
「そんな気になるか。それに、おれはオスカル以外の女なんて」
「あらあら、もったいない。いくら彼女があれだけの美女でも、もてるでしょうに……」
アンドレはエオンの言葉を遮ると、憮然として言った。
「ところで、収穫はあったのか?」
「その話は、部屋で。ここではまずいわ」
エオンは辺りをそっと見回すと、アンドレの腕を引いて、広間の縁の階段を昇った。下からは見えなかったが、扉の表面には、金細工の様々な花の飾りが付いていた。エオンが同じ飾りのある鍵で、百合の花の飾りの付いたドアを開ける。階下からどよめきが聞こえて、見ると、半裸の女性が首輪をつけられて、引き立てたてられているところだった。周囲の客達は、蔑むように笑ったり、品定めするように近づいたりしていた。
部屋の明かりをつけると、中には最低限の家具と化粧台があり、キングサイズのベッドが置いてある。そのどれもが、18〜19世紀頃を思わせるアンティークで、アンドレは目を見張る。壁の上部に換気口のようなものがあり、防音がしっかりしているのか、静まり返った部屋の中では、空気が出入りする音と、かすかな機械音が耳に届く。
エオンは化粧台の鏡をちらりと見てから、ベッドに腰かけた。アンドレは、その脇にあるソファに座り、エオンが何か言うのを待った。
「直接、彼女につながる情報はなかった。ただ……」
エオンは男の声に戻って言った。
「今回のパーティーは、国内外の石油関連企業のお偉いさんが何人か呼ばれているみたいで。オルレアン氏は、不動産と運輸業の裏で、軍事関連、いわゆる武器商人として財をなしているけど、そっち方面には手を伸ばしていないはずなのに。新しく始めるつもりなのかな」
オスカルの消息に関する新たな情報が何も掴めなかったと知って、アンドレは落胆した。正直、オルレアン氏の新しい事業のことなど、どうでもよかった。
「新しい油田が見つかったとかいう話もしていたけど、その開発にオルレアン氏が関わっているとしたら、また大きな儲けになるだろうね。でも、一体、どこだろう」
心当たりがあるかと尋ねられたが、アンドレに見当がつくわけもなかった。
「もう少し、探りを入れに行って来ようと思っているけど、君はここにいた方がいいよ。さっきみたいな誘いもあるだろうし、これから、夜が更けるにつれて、あまり尋常でないことも起こるから」
アンドレは、さきほど階上から見えた場面を思い出す。エオンは、“享楽と悪徳の許された、地下の楽園”と評したが、売春、不倫、薬物、そして人身売買まで何でもありの、金まみれの王国。
もし、彼女がここに囚われているのなら、一刻も早く連れ出したいと思う。彼女の陽の光のような笑顔を想う。
「いい?ここで、しばらく大人しくしていてね」
リアに戻ったエオンは髪を整え、手早く化粧を直すと出て行った。
アンドレは、上着を脱ぐと、ソファに横になった。長身のアンドレが横になると、足の先が少しはみ出し、窮屈だった。窓が一つもない部屋は、大きめのサイズのベッドが置いてあるせいもあり、かなり手狭で、圧迫感があったが、さっきのような、情交を目的とした男女にとっては、そんなことは大した問題ではなく、秘密の保証された、格好の場所なのかもしれなかった。
アンドレは、ふと思い出して、背もたれにかけた上着のポケットから何かを取り出した。それは、エオンが拾ったオスカルの携帯電話だった。試しに、自分の番号に発信してみたが、電波が届かないのか、不通のまま、通信はすぐに切れてしまう。パタンと音を立てて畳んだそれを、シャツの胸ポケットにしまう。そうすると、少しだけ気持ちが落ち着いた。単なる気休めだと自分でも分かっていたが、この携帯電話の電源が生きているうちは、彼女も無事でいてくれるような気がした。

2〜3時間ほどたっただろうか。エオンが戻って来た。着衣が少し乱れている。アンドレが指摘すると、もみあげの濃い、たれ目の男に付きまとわれて、やっとのことで逃げ出して来たのだという。男は、この館の主の知り合いで、エベールと名乗ったそうだが、エオンの目から見て、ペテン師臭いところがあったので、撒いて来たのだそうだ。
やはり、オスカルに関する情報は得られなかったと知り、アンドレは肩を落とす。
「もうパーティーもお開きだ。泊まりでない客はみんな帰ったよ。これ以上、歩き回っていると、疑われる。今のうちに休んでおこう。それに、ちょっとした布石も打って来たしね」
「おまえの布石は当てにならん」
アンドレにすげなく言われても、エオンはどこ吹く風で聞き流し、イヤリングと髪飾りを外すと、化粧台の上に置き、髪を解いた。さっさとドレスを脱ぐと、椅子の背もたれにかけ、べッドに潜り込む。アンドレは、また、ソファに身体を横たえた。
部屋は、また、しんと静まり返る。空調の音だけが聞こえたが、それは、今のアンドレにとって、耳障りでしかなかった。
「アンドレ」
エオンが呟いた。
「ん?」
眠れるはずのないアンドレが、すぐに返事をした。
「…………狭いだろ、こっちに、一緒に寝てもいいんだぜ」
「冗談だろ」
くすくすとエオンが笑う。それから、しばらくして、彼は寝入ったようだった。しかし、アンドレの目は冴える一方だ。一日中、神経を張り詰めて、あちこち歩き回ったから、体は疲れているはずだったが、休息をとる気持ちにはなれなかった。
長い一日に、さらに長い夜がつづく。

まんじりともせず、どれだけの時間がたったのか。
アンドレは、ソファから跳ね起きた。辺りを見回す。じっと聞き耳を立て、何かを捉えたのか、確信した顔つきになると、換気口のある壁に駆け寄った。また何か聞こえないかと、椅子を壁際に寄せて、そこに上り、耳を近づける。
「どうしたんだ?」
気配に気づいたエオンが目を覚ました。
「オスカルの声が……悲鳴のような声が聞こえたんだ」
「まさか。空耳じゃないのか。何にも聞こえないぜ」
エオンが欠伸をする。
「違う、確かに彼女の声だ。オスカルの声を、おれが聞き間違えるはずがない」
換気口から、再び、かすかな声が、アンドレの耳に届く。彼は、椅子から飛び降りると、素早く鍵を開けた。
「あっ!ばか!勝手に動いたら、追い出されるぞ!」
エオンの制止も聞かず、アンドレは、廊下に飛び出していた。

彼女は、確かに呼んでいたから。「アンドレ」と、彼の名前を。



(つづく)





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