フラクタル 〜オランジーナ〜




二人の注文した品物が、カフェのオープンテラスの丸いテーブルの上に供された。予想最高気温に近づきつつある昼下がりだが、濃紺の日よけの下で日陰に入ってしまうと、少し肌寒くなって、オスカルはロールアップしていた袖を伸ばした。目の前に広がる海岸線は日差しを照り返して白く輝き、その向こうで、碧い海がきらきらと光っている。ときおり吹きつける海風が、じつに心地よい。
自分たちより5歳は若いだろう、体躯のいい、伸ばしかけのブルネットを後ろで短く結んだギャルソンが、オスカルに向かって思わせぶりに微笑みかけ、あまつさえウィンクまでしてテーブルを離れた。彼女は社交辞令的に、口角を上げてみせる。
彼は、向いにいるアンドレの目を盗んだつもりでいたが、アンドレがそれを見逃しているはずはなかった。だが、オスカルが極上の笑顔でアンドレに微笑みかけてみせると、そんなことはどうでもよくなってしまった。
オスカルの前には、洋ナシに似た形の少しずんぐりとしたガラスのボトルと、よく磨かれたグラスが置かれている。中の飲料はオレンジ色をしていて、ラベルと王冠の青との対比が目に鮮やかだ。
自分の注文したエスプレッソのカップを口元から静かにソーサーに戻しながら、“オスカルにしては珍しい”と、彼女の前に置かれた、その飲み物を見つめて、アンドレはそう思った。


オスカルの父親がニースの別荘に滞在することになり、急遽、宿泊先を探すことになった二人だったが、まだ夏のバカンス・シーズン前でもあり、ホテルの部屋にはかなり空室があって、オテル・ネグレスコに宿を取ることができた。プロムナード・デザングレ沿いに建つ、ベルエポックの名残を色濃く残す高級ホテルである。
「アンドレ、交渉成立だ」
彼女はそう言って、パタンと音を立てて、携帯電話を勢いよく畳んだ。
アンドレは、一度止めてしまったエンジンを再び目覚めさせると、車をスタートさせた。最初のカーブに差し掛かかる。車はややスピードを緩めた。
オスカルは、少しだけ開けた窓から入り込んで来た風に乱された髪をかきあげて言った。
「ジャルジェ家といえば、ニースでも、父の威信がまだ通用するらしい……」
そう抑揚のない声で言って、窓の方を向くと、彼女は流れる景色を眺め始めた。今の独り言のようなセリフが気になったアンドレが、ちらりと横目で彼女を覗き見る。しかし、表情が伺えなかったので、その時は言葉の意味を確認できなかった。
車は渋滞に悩まされることもなく快調に通りを進んで、高速道路へと向かった。
ホテルに着き、チェックインをしていると、身なりのいい上品な紳士が近づいて、彼女に挨拶した。
「これはこれは、ジャルジェさま、当ホテルをご利用いただき、誠にありがとうございます」
支配人だというその紳士は、型どおりの挨拶ではあるが、ひどく丁寧な物腰で彼女に接していた。
こういうことかと、アンドレは先ほどの言葉に、ようやく合点がいった。

チェックインを済ませた二人は、プロムナード・デザングレに散歩に出た。海岸線を抱きかかえるように東西に伸びる目抜き通りだ。リゾート地としてのニースに着目したイギリス人の出資で19世紀に造られたため、この名を冠している。
ホテルから、その大通りを東に向かって歩けば、600メートルほどで旧市街に入る。そこからさらに600メートルほどの所にジャルジェ家の別荘があった。
しばらくビーチを眺めながら、のんびりと歩いた。今日の予報は一日快晴、気温は20度以上まで上がるとのことだったが、ほぼ、その通りの日になった。ふと喉の渇きを覚えた二人は、最初に目に止まった店にふらりと入ってみることにした。

そこでアンドレはカフェを、そしてオスカルはオランジーナという炭酸飲料を頼んだのだ。
オスカルにとって、高級レストランでの食事は、文字通り日常茶飯、実家には専属のシェフがいるという話だから、彼女の舌はかなり肥えていた。その彼女が、ずいぶんと庶民的な清涼飲料水を頼んだことに、アンドレは軽い驚きを覚えたのだった。彼女には縁がない存在というか、そういう商品があることすら知らないと思っていた。
フランス国民が広く愛飲している商品であるから、知っていてもおかしくはないし、たまにはそんな気分になることもあるのだろうと、アンドレは一人で納得してしまったものの、それでも、何となく気になって、彼女の手元を興味深く観察していた。
グラスには、縦に八等分ほどに切った皮つきのオレンジと氷が入っていて、黒い細めのストローが差してあった。彼女が栓抜きで瓶の蓋を開けようとしたので、アンドレは彼女の方に片手を伸ばして、その動作を止めた。
「こうするんだよ」
彼は栓をしたままのボトルを逆さにしてから、わずかに振ると、ゆっくりと元に戻した。
「こうすると、沈殿した果実分が均等になるんだ」
「そうか、それが正式な飲み方なのだな。知らなかった。ありがとう」
彼女が大真面目に“正式”などという単語を使ったので、アンドレはおかしくなって小さく笑った。笑われて、少し唇を尖らせたオスカルは、さきほどのアンドレの動作を正確に繰り返してみせると栓を抜き、それからグラスに向かって傾けた。
オレンジ色の液体が透明なグラスに満ちていく。わずかに細かい炭酸の泡が大気に帰ろうとするかのように立ち上るが、他のよく出回っている炭酸飲料のように、派手な音を立てることはない。
彼女はグラスから伸びる、黒いストローを吸った。
それから彼女は、「懐かしい味だな」と呟いた。
開け放された窓から店内のざわめきが聞こえてくる。いくつか聞き取れる会話の一部。呼ばれたギャルソンの、あまり当てにはならない「すぐに」という返事。ガラスや陶器の立てる音。人の動く気配。
彼女がグラスをコースターの上に置いた。カランと溶けかけた氷が澄んだ音を立てる。
「……子供の頃、ここに来たとき、一度だけ飲んだことがあった……」
アンドレが相槌をうつ。
「10歳になるかならないかの頃、別荘を一人でこっそり抜け出して、街に出て」
伏し目がちになった目が、とても優しい表情をしている。ぽつりぽつりと述懐する彼女に、アンドレは黙って耳を傾けた。
「あの頃はまだ父親が第一線で活躍していたから、必ず家族にも警護の者が付けられていたのが、息苦しくて。――あの日は、楽しかったな。マルシェを見て回っていたら、無料で果物をくれたり、路地で遊んでいた子供たちに混ざって遊んだり。すぐ見つかって、その後、こっぴどく叱られたけれど」
彼女はストローでグラスの中をかき混ぜた。また細かな泡がわずかに立った。
「その時に、飲んだんだ。友達になった子がくれて、直接瓶に口をつけて飲むなんて初めてだったけど、あれは今でも忘れられない味だ……ん?」
彼女は急に話をやめた。後ろを振り返り、それから、きょろきょろ辺りを見回す。
「どうした?」
「いや……誰かに見られているような気がして――。気のせいかな?」
アンドレも慌てて辺りを見回したが、怪しげな人物は見当たらなかった。店の中は相変わらず、陽気な喧騒に包まれ、周囲もゆったりとした空気に満たされている。
「大方、さっきのギャルソンが、おまえのことを見てでもいたんじゃないか?」
アンドレが冗談ぽく言ったが、オスカルはまだ気になっているようだった。アンドレも真顔になる。
「もしかして、昨日の新聞記事が気になっているのか、オスカル?」
「いや、別に。警察も、手配の網をかいくぐって、ニースまでやって来るのは難しいだろうと言っていたし。第一、わたし達がここにいるなんて、知る由もないだろうから」
オスカルは、散歩の途中で手に入れておいた新聞を広げてみた。例のお気に入りの地方紙だ。そこに脱走事件の続報はなく、まだ逃亡者は捕まっていないようだった。しかし、警察の見解はもっともだったから、彼女はいたずらに不安に思ってばかりいても仕方がないなと首を振った。事件のことは頭から追い出すようにして、他のいくつかの記事の見出しにさっと目を走らせる。交通事故や、南仏の某市の議員に対してリコールが起こったことなど、相変わらずローカルな記事が多かった。紙面をめくっていき、論説に目が留まる。
「お、見てみろ、アンドレ、またあの記者の論説が載っているぞ」
そう言って、彼女はその文章にざっと目を通すと、アンドレに新聞を回した。この地方紙を読むのが日課になっていたオスカルだったが、あの事件記事を執筆した記者をかなり気に入ったようで、名前を見つけると嬉しそうな顔をする。
論説は南仏、ひいてはフランス全土における移民の問題を取り上げており、経済格差に対する、政府の無策に鋭い批判を浴びせかけていた。海外県での同様の事例も列挙し、このままでは、国内で暴動が相次ぐようになり、海外領土でも独立運動が活発化していくに違いない。それも無理からぬことだと支持しつつ、フランスに大きな混乱をもたらす前にと、強い口調で警鐘を鳴らしていた。
その論説の隣には、フランスのアフリカにある海外県でのニュースが報じられていた。この論説に絡めての紙面構成なのか、現地の駐留軍統合司令官が体調を崩して療養中であり、独立運動が活性化している地域であるため、影響が懸念されているとのことだった。
「かなり舌鋒鋭いな」
アンドレが苦笑しながら、オスカルに新聞を返す。
「こういう文章を書かせたら、フランスでも十指に入るだろう、この記者は」
オスカルは新聞を受け取ると、それを細かく畳んだ。
一息ついた二人は、また海岸沿いの散策に戻ることにした。夏には色とりどりのパラソルが並ぶビーチだったが、今はまだ人がまばらだった。それでも、日光浴を楽しんでいる姿が、あちらこちらに散見された。
ホテルからずっと東に歩き続けていた。あと少し足を伸ばせば、ジャルジェ家の別荘だ。アンドレが切り出した。
「オスカル?」
「ん?」
オスカルは歩を止めた。
「その、泊まらないにしても、せっかくお父さんがこちらに来ているのだから、会いには行かないのか?」
彼女は、にわかに眉根を寄せた。
「うん……、まあ、今回はやめておこうと思う」
オスカルにしては歯切れの悪い口調だった。
会いに行かないのは、自分が一緒にいるからだろうか。
アンドレの脳裏に、また心配そうな祖母の顔がよぎったが、“自分が一緒にいるから”という理由が当たっていたにしても、二人だけの時間を邪魔されたくないからかもしれないと思い直して、それ以上、問い詰めるのはやめた。
いつかは会ってみたかったが、もともと今回の旅で会う予定はなかったのだし、そのことにこだわっていては、せっかくのこの時間が、美しい季節が、台無しになってしまう。
また、きれいに舗装された道路を進む。車道を通る車が何台も、先を急ぐようにして、二人を追い越していく。歩道に沿って等間隔で植えられたパームツリーを何本か通り過ぎると、オスカルは、風景を眺めながら、再び、ここで過ごした子供の頃の思い出を、ぽつりぽつりとアンドレに話し始めた。アンドレにとって、ほとんど初めて耳にする話ばかりだったので、彼は彼女が思い出すままに口にする、幾分、とりとめのない話を聞きながら、少女時代の彼女の姿を思い描いていた。
きっと肩より少し短いくらいの髪をして、いつも仕立てのよい服を着ていて、でも滅多に私服ではスカートなどはかない活発な子で。
通りの向こうの路地に向かって、そんな少年みたいな女の子が飛び込んでいくのが見えたような気がした。先ほどのカフェで聞いた、ちょっとした冒険の話。その子は、アンドレの方をちらりと振り返ってから、路地の中に吸い込まれるようにして消えた。

先に進もうとする彼女の手を、アンドレはそっと捕まえた。オスカルが急に手を掴まれて、目を見張ると、彼はおもむろに腕を曲げて、彼女の方に差し出した。
オスカルはクスリと笑い、一度、目を伏せてから、淑女の優雅な動きで、彼の腕を取った。

春の日の入りはまだずっと先だ。
そして、二人には目的も予定も何もない。
二人は心ゆくまで、気ままな散策を楽しむことにした。海沿いの道から逸れて、市街地に向かう。海から吹く風が、寄り添うふたつの背中を後押ししてくれていた。



(つづく)





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