フラクタル 〜modulation〜




部屋の明かりを点けると、オスカルは早足で広いリビングを突っ切った。髪留めとピンをはずし、いつもとは違い、結い上げられて窮屈そうだった髪を振りほどきながら、真っ直ぐにつづきの寝室へと向かう。リビングのテーブルの上には、クーラーの中でよく冷やされたシャンパンと、生ハムやチーズ、パテなどの前菜風のアペリティフが並べられていた。気づいた彼女は、忌々しげな視線を投げかけたが、やはり立ち止まることはなかった。料理や酒は、急な招待に応じてくれた、ささやかなお礼だとして、その夜のパーティーのホストから届けられたものだった。
彼女は寝室に入ると、ベッドに勢いよく腰を下ろした。華奢なサンダルのベルトを踵から外し、勢いよく足を蹴り出す。勢いでサンダルは宙を舞い、放物線を描いて寝室の壁際まで飛んだ。
もう片方も脱ぎ捨てて、両耳からイヤリングを外してしまうと、彼女は、ベッドカバーの上に倒れこんだ。光沢のあるロイヤル・ブルーの布地の上に、黄金の髪が波打つように広がる。
「ずいぶんと、お冠だな」
後から入ってきたアンドレが寝室のライトを点けようとしたが、「そのままにしておいてくれ!」と言われて、手を止めた。
リビングから届く明かりを頼りにベッドへ歩み寄ると、アンドレは彼女の脇に座った。寝転んでいる彼女の体の横に片手をついて体重を乗せ、機嫌を伺うように顔を見下ろす。
アンドレが側に来ても、彼女は彼と目を合わせようとせず、じっと天井を見つめていた。
「……疲れたのか?」
「当たり前だ」
不機嫌そうに言うと、オスカルはアンドレに背を向けるように寝返りを打った。大きくあいた背中が白く、薄暗闇の中に浮かび上がる。膝上まで入ったスリットからは、すらりと伸びた足がのぞいている。
アンドレは声をかけようか、それとも少し放っておこうかと考えながら、この部屋に戻るまでの彼女の姿を思い出していた。またいつ、お目にかかれるか分からないから、しっかりと脳裏に焼き付けておかなくては。
もう彼女の手によって、かなり乱されてしまっていたが、先ほどまでの、ドレスアップしたオスカルは本当に美しかった。


散歩から戻ると、フロントで支配人からのメッセージカードを手渡された。
オスカルが、ホテルの名前入りの白い封筒からカードを取り出すと、そこにはこう書かれていた。
”今夜、ある私的なパーティーが催されます。ぜひ、貴女様にもご出席いただきたいとのことです。お連れの方もご同伴下さい。”
同封されていた招待状に書いてある主催者の名前を見ると、彼女の顔が曇った。アンドレも覗き込む。
「ルイ・フィリップ・ド・オルレアンって?」
「誰か知り合いと鉢合わせするのは覚悟していたが、よりによって……。社長の従兄なんだが……」
そこで、オスカルは言い澱み、ため息をついた。アンドレにだけ聞こえるように声をひそめる。
「…………いろいろと、黒い噂のある人物でな」
社長の親族とあっては無碍に断るわけにもいかなかったが、正直、今は仕事モードに切り替えて、パーティーで社交する気分ではなかった。オスカルが衣装の用意がないことを理由に辞退しようとすると、応対していたフロントマンは、心得ていたかのように「こちらへ」と、ふたりを別の階の客室に案内した。
ドアを開けると、色とりどりのドレスが目に入った。数十点はあるだろうか。アクセサリーや靴の箱らしきものもある。そばに、数名のお針子を従えた、派手な化粧で若作りの中年女性が待ち構えていた。上流階級の紳士淑女の相手は手慣れたものといった感じのその婦人は、オスカルを見るなり、ワンショルダーの白いイブニングドレスを選び、それに合わせて、靴、バッグにアクセサリーに至るまで一式を、瞬く間に見立ててしまった。つづいて、アンドレのコーディネートを済ませると、強引にふたりを簡易のフィッティングルームに押しやる。試着をして出てきた二人を今度は、数人のお針子が取り囲んだ。サイズの合わないところを、これまた見事な早業で手直しし、仮縫いを終えてしまう。さっと波が引くようにその一団がふたりの側を離れると、にこやかにスタイリストの婦人は告げた。
「パーティーは午後7時から始まるとのことなので、6時厳守で仕上げてお届けいたします。メークアップ・アーティストも手配済みですから、ご安心を。代金は全てオルレアンさまにご請求するようにと言い付かっております」
何から何までお膳立てが出来ていた。退路はすっかり塞がれているというわけだ。
渋々、招待を受けることにしたものの、服その他一式をプレゼントするという先方の申し出だけは固持させてもらうことにした。
「……借りは作りたくない」
この時点で、オスカルの機嫌は既にかなり悪かった。
にわか作りの高級セレクトショップのような部屋から解放され、ようやく自室に引き上げられることになったので、エレベーターを待っていると、到着したそれからは、女性が降りて来た。エレベーター内にイヤリングが片方落ちている。アンドレが慌ててボタンを押して、閉じかけたドアを開く。
「これ、落としませんでしたか?」
「あら、ご親切にありがとう。気づかないで行ってしまうところでしたわ」
女性は耳たぶを確かめてから、アンドレの差し出したイヤリングを優雅な仕草で受け取り、にっこりと彼に微笑みかけた。見つめ合ったまま、なかなか立ち去ろうとしないので、オスカルが少しいら立ち、声をかけて初めてドアが閉じられる。
オスカルは壁にもたれて腕組みをしている。相当不機嫌なのが、見ただけでわかる。彼女は感情の起伏が激しいところがある。彼の前では包み隠さないので、この旅で一緒に過ごす時間が長くなると、それがわかってきた。そこが彼には、一層愛おしくも感じられるのだが。
不本意に参加するパーティーはこれからだ。「これ以上、雲行きが怪しくならなければいいが」と、アンドレは先のことが思いやられたのだった。

約束の時間が来て、仕上がったドレスとタキシードが届けられると、それぞれ身支度を始めた。もちろん男のアンドレの方が先に済み、オスカルの支度が整うのを待つことになった。肘掛椅子に腰かけてリラックスした姿勢で待ったが、何だかそわそわする。
しばらくすると、彼女が現われた。アンドレは一目見て、息を飲んだ。思わず椅子から立ち上がる。
ドレスを身に纏い、髪を高く結い上げてもらった彼女の姿を初めて見た。この時のことは生涯忘れないだろうと、アンドレは思った。そこには、どこから見ても一部の隙もない貴婦人のような姿の彼女が立っていた。この世の者とは思えないほど、美しい。
シルクのサテン・ドレスはシンプルなデザインで、パールホワイトなのだが、光の加減で淡いピンクや水色にも見えた。ぴったりと彼女の体に沿い、ほっそりとしたラインを浮き立たせている。金糸で織り上げたセカンドバッグと同色のサンダルを合わせ、胸元と腕、足首と耳には、いくつものダイヤモンドを連ねたジュエリーがきらめく。まとめた髪には、ルビーに真珠をあしらった金細工の髪飾りをつけている。ちょうど鎖骨の辺りにくるネックレスの中心にも、大粒のピジョン・ブラッドのルビーが輝き、装いにアクセントを加える。全てが彼女の魅力を倍加するのに役立っていた。少なくとも、スタイリストのセンスは一流に間違いなかった。
「窮屈で動きにくいから、ドレスはあまり好きじゃない」
「…だけど……すばらしくきれいだ……」
眩しそうに自分を見つめるアンドレの誉め言葉を聞くと、ほんの一瞬、オスカルの頬に赤みが差したように見えたが、すぐに彼女は口を一文字に結ぶと、くるりと後ろを向いてしまった。
「アンドレ、さっさと行って、帰るぞ」
彼女は、彼の返事も待たずに歩き出す。
アンドレは軽く握った手を口元に当てて、くすりと笑うと、少し急ぎ足のオスカルの後を追った。

二人が会場に到着した時点で、既に招待客はほとんど揃っているようだった。招待状を見せ、扉が開かれると、穏やかなアンサンブルの楽曲が聞こえてきた。“私的な”というが、100人は下らない人間が集まってきている。
オスカルがホールに足を踏み入れるとほぼ同時に、主催者とおぼしき男が近づいて来た。
「オスカル・フランソワ!よく来てくれたね。いつ以来だろう?」
二人はにこやかに挨拶を交わし、しばし談笑する。アンドレは隣でじっと二人を観察するようにして、黙っていた。
男は、人当たりがよく、物腰おだやかで、好人物のように見えたが、確かに目つきには鋭いものが光り、腹に一物あるようにも思われた。
オスカルは感情を表に出さず、終始クールな姿勢を崩さない。さきほどの不機嫌さは微塵も感じられなかった。アンドレは、さすがだなと感心する。
「ところで、お父上はお元気かね?今はどこに?」
「はい、おかげさまで達者にしております」
「……一緒ではないのかね?」
さり気なく後半の質問をはぐらかしたオスカルに、男は、畳みかけるように尋ねた。
「さあ……?いろいろ忙しく、あちこち飛び回っているようですが、最近はあまり連絡を取っていないので。今頃、海外にでもいるかもしれませんね」
別荘にいるはずなのにとアンドレは怪訝に思った。しかし、オスカルが何の思惑もなく嘘をつくとは思えなかったので、そのまま黙っていた。
それ以上は詮索することなく、社長一家の話などをひとしきりすると、男は、アンドレにも愛想よく挨拶をして握手を交わし、それから次のゲストの元へと去って行った。二人は会場を回っていた給仕からシャンパングラスを受け取った。
「おれにまで挨拶してくれて、感じのいい人にも思えるけどな」
アンドレがあえてそう言うと、本気かと問いただすように、オスカルの目がつりあがった。
「さっきの強引な手口を思い出してみろ」
「確かにそうか。ところで、お父さんは……」
そこまで言いかけると、オスカルが人差し指を唇の前で立てて見せたので、彼は口をつぐみ、さきほどの自分の推測がまちがっていなかったことを確信した。オスカルが彼の耳元で、囁くように言う。
「うちの父親は職務上、所在を明らかにしたくないことが多いのだ。特に、今回のように急なスケジュール変更の場合は……な」
それで、会いに行くのをためらっていたのかと、アンドレは少し納得がいった。
「お父さんって、どんな人なんだ?」
「そうだな。一本気の堅物かな?今は顧問のような立場で、一線から退いているから、前に比べれば丸くなったが、相変わらずの頑固親父だ」
誉め言葉は一つもなかった。だが、彼女の口調には、どこか愛情が感じられる。父娘は、とても似ているのではないかと、アンドレは何となくそう思った。
いつの間にか、会場の真ん中に向かって緩やかな輪ができあがっていた。中心にいるホストが、シャンパングラスを掲げて、乾杯の発声をする。
「それでは、皆様のご健康と、旅のご無事を祈って――」
乾杯の唱和と同時に、一斉にグラスが掲げられた。それと同時に、しばらく途切れていた音楽が、再び流れ出す。
来てしまったのだから、それなりに楽しむしかないか。二人はそう、目と目で会話して、グラスをカチンと合わせ、泡立つ黄金を飲み干した。

「久しぶりだね!オスカル・フランソワ」
「お父様はお元気?」
「来週、あなたの会社の予約、どうにかならないものかしら?」
「先日、パリでお姉さまにお会いいたしましたのよ……」
早々に退散しようと目論んでいたオスカルだったが、想像以上に彼女の知り合いが多く出席していて、後から後から引きも切らずに話しかけられた。その上に、さらに新たに知人を紹介されて、退出するどころではなくなった。
オスカルが爆発するのではないかと内心、心配していたアンドレだったが、彼女は決してにこやかな姿勢を崩さない。培われた習性に、再び感心する。
しかし、アンドレも傍観者でいるばかりでは許されなかった。彼女に近寄って来る人間たちは、もれなく彼にも好奇の目を注いだ。無理もない。かのジャルジェ家の次期当主と目されるオスカルが連れて来た相手なのだから、どんな人物なのか知っておきたいし、知己になっておいて、損はない。
仕事は何か、どこに住んでいるのかなどの質問が、異口同音に繰り返される。その度に、何度も同じ答えを返さなければならないのに少しうんざりしたアンドレは、飲み物を取ってくるのを口実に、席を外そうとした。「ずるいぞ」とオスカルが目で訴える。彼は、「勘弁してくれ。すぐに戻るから」と目配せすると、苦笑いしながら、その場をそそくさと離れた。
着飾った人々の間を縫い、バーカウンターのところにようやくたどり着くと、アンドレはカクテルを二人分注文した。やっと一息つけると思った。しかしその矢先、声をかけられる。
「あら、さっきの」
聞き覚えのある声が背後からして振り返ると、そこには、さきほどの落し物を拾った婦人が立っていた。
かなりの美人だ。何よりも、独特の雰囲気をもっている。身長がオスカルくらいあって、彼女よりもしっかりした体つきをしているせいか、中性的な魅力と妖艶さを兼ね備えていた。その何とも表現しがたい色気は、わずかに舌がしびれるほどの毒気をもっている。
「ガーシュインね」
カウンターにもたれるようにしながら、女が呟いた。ちょうど、流れている曲が、クラシックから、趣向を変えて、現代音楽に切り変わったところだった。
「“ラプソディ・イン・ブルー”」
しばし、クラリネットの音色に耳を傾ける。
「一緒の方、ジャルジェ家のお嬢さんなのですってね。確か、こちらには別荘がおありだと聞いているけれど、なぜ、わざわざここに滞在なさっているの?」
トランペットが主旋律を引き継いだところで、女が切り出した。アンドレはひときわ音楽が大きくなったこともあり、一拍置いて答える。ピアノのソロがメランコリックに響いてきた。
「えっと、今、改修工事中みたいで」
咄嗟に思いついた嘘をつく。女の質問は単なる好奇心だろうが、余計なことは言わないに越したことはない。さきほど、オスカルから事情を聞いておいてよかったと思う。でなければ、口をすべらせていた。
「あら、そう、残念ね」と女は笑った。しかし、目が笑っていなかったので、アンドレはうすら寒いものを感じた。不思議な女だ。目の奥が物言いたげで、何もかも見透かされているようだった。
「リア!」と呼ばれて、彼女は「すぐ行くわ」と手を上げて合図した。
「失礼。オスカル・フランソワによろしく」
そう言って、彼女はアンドレの元を離れて行き、彼もオスカルの元に戻った。
華やかなさざめきは、それから数時間、日がとっぷり暮れてしまってからもつづいた。


結局、パーティーがお開きになるまで付き合わされた二人は、正直くたくたになった。
「せっかくおまえとゆっくりできると思ったのに、これでは先が思いやられる」
そう言ってオスカルは軽く目を閉じた。
「おれは、まんざらでもなかったんだが」
確かに同じような質問に答え続けるのは苦痛だったし、アンドレの出自を知ると、あからさまに少し蔑みを含んだ眼差しを向ける人間もいたから、決して居心地がよいわけではなかった。だが、これまで縁のなかった上流階級のパーティーがどんなものか、自分の目で見ることができたし、何より、そんなことは些細なことだと思わせる収穫が、彼にはあった。
アンドレはそっと彼女の背中に触れ、上から下へ、撫ぜるように指を滑らせた。
いつもの姿も彼女らしくて好きだが、この姿の彼女は、目が離せないくらい魅力的だ。
めったに姿を現すことのない幻の蝶。かすかに羽を震わせながら、目の前で花にとまる。それを、じっと息を殺して見つめる。それは、きっとこんな感じなのだろうと思う。
たとえば、盲いた目で、決して自分には見えないと信じ込んでいたものを、何かの奇跡で見ることができて、天を仰ぎたくなるような感覚。
「……おまえは、麗しいご婦人方に囲まれて幸せだったろうな」
楽しげなアンドレの気配に、オスカルの声が八つ当たり気味になった。
そんなことはないとアンドレは否定するが、彼を紹介する度、色目を使う女性は、実際、多かった。正装した彼は、場の雰囲気になれてくると、周囲の紳士達と遜色なく振舞って、衆目を引いていた。
「わたしから離れた途端、美女に声をかけられて、でれでれしていたじゃないか」
バーカウンターでの様子を、オスカルはしっかり見ていたようだ。アンドレが「でれでれなんて、していないよ」と否定しても取り合ってくれない。
オスカルがやおら起き上がった。それから、首筋にかかる髪をかきあげる。
「ネックレス、取ってくれ。自分では取りにくいんだ。こんなもの、さっさと着替えてしまいたい……!」
オスカルにとっては退屈でしかないパーティーだった。早く忘れて、本来のバカンスに戻りたい、そんな気分だった。
アンドレの方は、まだ、この姿をしばらく眺めていたいと思ったが、言いそびれ、間近にさらされた、無防備な白い首筋に手をかけた。
美しい。その姿と裏腹の、乱暴なほどの無造作な言葉遣いと仕草。それがかえって、どれほどの男を惑わすのか。彼女は知っているのだろうか。どれほど男の欲望をかき立てるか。
“あの会場で、この背中を、何人の男が見つめていたか”
「おまえの方こそ……!」と言いたいところを飲み込んで、アンドレは髪をひっかけないよう、慎重にネックレスの留め金をはずした。
“だけど、こうして触れられるのは――”
アンドレは、両肩を軽く捉えて、露わになっている首筋に、そっと唇を這わせた。しっとりとした感触に、彼女の体がかすかに震えた。
「あの人より、おまえの方がずっと美人だ」
そう囁いても、彼女はかえって、鼻で嗤う。
「本気でそう思ってるのか?どうだか……」
オスカルは彼の手を振りほどき、体をよじって向き直った。上目遣いで挑むように睨みつけながら、ヘッドボードの方に後ずさる。
アンドレはタイを緩めながら、彼女を追う。
「……証明してみろ」
そう挑発する彼女の口調に、彼は、ゆっくりと離れていく体を捕まえて、のしかかるようにして、力強く両肩を押さえつけた。オスカルの体がベッドに沈む。それでも、彼女は不敵な笑みを浮かべている。
“だけど、こうして触れるのを許されるのは、おれだけだ”
「それで?どうしようというのだ、アンドレ?」
圧倒的に不利な体勢になっても、彼女の強気な口調は変わらなかった。青い瞳は、さざ波を立てながら秘密を隠して沈黙する湖の底のように静かで、嗤っているのか笑っているのか。
こんな時、不思議だと、いつもアンドレは思う。男の目から見れば、妖しいまでの魅力を放っているのに、彼女の口調にも態度にも、どこか子供が友達を挑発して、遊びに誘っているような無邪気さがある。
アンドレは押し付けるように唇を合わせた。肩を押さえつけていた手が、彼女の肩にかかる布地を、するりと滑り落とす。彼女は抵抗しなかった。
だからいつも、その言葉と仕草の意味がひとつひとつが気になって、その奥底に何があるのか、確かめてみたくなる。彼女の真実の姿は何なのか、世界の不思議さに瞠目して一生かかっても解ききれない謎に挑む人のように、憑りつかれて、求めて。

きっと、一生かけても、答えなんて得られないと、どこかで分かりながら。
それでも求めることをやめられない。

花の蜜は、甘い対価だ。
自由に舞う蝶を両手の中に捕らえる。掌の中のはばたきは、罪の感覚を伴っても、残酷なほどの独占欲を満たし、かりそめに彼女を手中にしたような気分にさせてくれるから。



翌朝、遅めの時間にセットしたアラームで、アンドレは目覚めた。隣にオスカルの姿はなかった。
体はまだ昨夜の余韻に浸って、気だるくぬくもっていて、すぐには意識がはっきりしない。
彼にしては寝起きが悪かったのは、夜中に彼女の携帯に間違い電話がかかってきたせいもあった。目が冴えてしまって眠れなくなり、再び入った眠りはより深くなって、彼女が起きたのに気がつかなかったようだ。彼女の方はすぐに眠ったので、先に目覚めて起き出したのだろう。シーツの上からはぬくもりが消えている。
「オスカル?」
呼んでみたが返事がない。
にわかに胸騒ぎを覚えたアンドレは、ベッドから滑り降り、ガウンを羽織るとリビングに向かった。
「オスカル!」
そこにも彼女の姿はなかった。テーブルの上の料理は手付かずのまま放置されていて、ワインクーラーの氷はすっかり融けて水になり、周囲には小さな水溜りができている。その隣に一枚のメモが置いてあるのに気づく。
“急用で別荘に出かけてくる。後で連絡する”
オスカルの筆跡だ。
「一人で出かけたのか……」
アンドレはメモをくしゃりと握りつぶした。


不安にかられながらも、アンドレは、昼過ぎまでじっと連絡を待ち続けた。しかし、彼女からの着信に設定してある、リストのピアノ曲は一向に鳴らなかった。



(つづく)





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