フラクタル 〜紺碧海岸〜




目覚めた時には、まだ薄暗かった。
やがて、東に面した窓から、朝の透明な光が差し込んで来る。太陽は、さざ波立つ海面を煌かせながら昇り、夜の間、色を手放していた空も海も、彩度と明度を取り戻す。また、一日が始まる。
アンドレは傍らの規則正しい寝息に耳をすました。あどけない顔で眠る白い顔を、息を殺し大切そうに見つめる。
ふわふわと。曙光を受けて、金色の毛先が、むきだしの白い肩先でやわらかく踊りだした。ベッドの天蓋から下がる淡いベージュ色のオーガンジーの覆いをすり抜けた日差しに、彼女は黄金色に縁取られる。逆光のせいで、その鼻筋も目の縁の窪みも、軽く閉じられた唇も、そして、胸元まで引き上げられたパイル地のケットから、つつましやかに覗くなだらかな曲線を描く隆起も、普段よりも一層陰影を濃くして、アンドレの目に、なまめかしく映る。
なんて贅沢な時間だろうと、彼は思った。こんなにも無防備な彼女の寝顔を、こんなにも間近で、独り占めできるなんて。
少しでも長く眺めていたいと思いながら、なぜか、自分の手で壊してしまいたいという衝動にもかられる。まだ瞳を閉じていてくれと願いながら、彼女の波打つ髪に手を伸ばす。触れた一筋は思ったよりも軽やかで、もう少し確かなものが欲しくなって、髪の一房をそっと指に絡めてみた。
彼女の夜の色をした絹糸のような睫毛がふるえた。後悔し、慌てて手を引っ込めたが、もう遅い。ゆっくりと目蓋が開かれる。伏し目がちに半ば開かれたと思うと、ニ、三度まばたきをした後、ふいに顔を上げて、目の前にある男の顔に焦点を合わせた。
少しだけ不思議そうな顔をした彼女は、なぜ男がそばにいるのかに思い至って、安堵したような微笑をたたえると、「……おはよう」につづけて、恋人の名前をしっかりと呼んだ。
天蓋を支える、精緻な彫刻がなされた焦げ茶色の柱、柱と柱の間に渡された布地が形作るドレープ。中世の面影を残す部屋の中で、白いシーツの上に、うねるように広がった豪華な黄金の髪と、ギリシャの彫像を思わせる美貌をもつ女が横たわっている。一体いつの時代の光景だろうと、幻惑されそうになる。
海とも空とも、どちらとも同じようでいて、違う色の青が、彼を射すくめ、釘づけにする。そうなれば、もう目が離せない。

――朝が来るから今日が始まるのではなく、この瞳が開かれた時から、世界は回り始める。
アンドレはそう思った。


結局、昨晩はエズのホテルに泊まった。
立ち寄ったシャトー・エズのスイートが、たまたまキャンセルになって空いていることを知ると、オスカルは隣に立つアンドレの顔をちらりと見上げた。彼女の表情を読んだ彼は、軽く唇の端をあげると、すぐにフロントで宿泊の手続きを取り始めた。
彼女は彼から少し離れた壁際で、携帯から電話をかけた。
アンドレの故郷であるグラースの後でニースに行こうと決めたのは、そこに、ジャルジェ家の別宅があるからだった。
旧市街の外れにある海沿いの場所に立つその瀟洒な城館は、イギリス貴族達が競ってニースに別荘を建てた19世紀末頃に建てられたものだ。父親がまだ若い頃、コルシカ島のフランス陸軍第二外人落下傘連隊の司令官だった時期があり、その時に購入した館で、まだジャルジェ家の娘たちが子供だった頃は、よく遊びに来たものだったが、今は主一家が訪れることも滅多になく、管理人夫婦と庭師など数人の使用人が維持のために住み込んでいるのみだ。古くから仕える使用人達は礼儀正しく、よく気がつく上に口が堅い。広い敷地内には町の喧噪も届かず、二人がゆったり逗留するにはもってこいだった。到着が一日遅れることをオスカルが告げると、管理人夫人は少し残念がったが、馴染みの漁師から活きのいい魚を仕入れて待っているからと、早めの到着を催促して、電話を切った。

オスカルが身支度をして鏡に向かい髪をすいていると、彼女の目覚めの後、すぐにアンドレが頼んでくれたカフェと新聞が届いた。
テラスにつづくフランス窓の近くの小卓にカップとソーサーを置き、アンドレがポットからカフェをそそぐと、深煎りの豆をドリップした香気をたっぷり含んだ、白い湯気が立ち上った。ありがとうと言いながら、オスカルが香りに誘われたように椅子に腰かける。アンドレが対面に座ると、彼女は早速、先ほど届けられた新聞をかさりと広げた。
それはアンドレの家にもあった地方紙で、オスカルがわざわざ指定して取り寄せたものだった。
休暇中とはいえ、全く情報から隔絶されるわけにもいかず、政治、経済、国際情勢などについては、インターネットのヘッドラインをチェックしていたが、この新聞は、そうした報道とは違う価値基準で運営されているのが面白いとオスカルは言った。
全ての地方紙がそうではないが、彼女が普段購読している新聞ならば、大きく報じているであろうはずのニュースが、全く取り上げられていないか、極小さく載っているだけであったりする。昨日のニュースを例にとれば、国の要人が心臓発作で倒れたとか、原油価格が高騰しつづけていることだとか、某国の国債の格付けが下がったことだとか、そういったことよりも、近海で起きた漁船とタンカーの衝突事故や、マルシェの野菜の高騰や品揃えの方が重大記事で、それはレベルが低いとかそういう問題ではなく、私は私の、この地方はこの地方としての観点をもって何が悪いと、堂々と頭を上げて主張しているように感じられた。グローバル・スタンダードにおもねることを潔しとせず、わが道を貫く姿勢を、大いに彼女は気に入った。
オスカルは、目についた記事の一部か、あるいは全部を声に出して読み上げた。それをアンドレはカフェを口にしながら、楽しげに聞いた。
彼女の朗読を耳にしながら、アンドレはふと立ち上がると、部屋の空気を入れ替えようとテラスにつづく窓を開けた。テラスからは海が望めた。今は比較的風が凪いでいて、日差しが心地よい。テラスの端にはジャグジー・バスが設えられていて、ゆったりと浸かりながら真っ青な地中海を堪能することもできた。
標高400メートルから望む眼下には、切り立った断崖と、遥かにかすむ水平線までつづく青い青い海が見渡せた。紺碧海岸。小さなマリーナに停泊するヨットの帆は、春の光を存分に浴びて、一層白く見えた。
ふいに一陣の強い風が海から吹き上げて来て、アンドレの黒髪をかき上げるように乱した。突風には、強く潮の香りがした。
急に、ボサノヴァのBGMのように、耳に優しく届いていたオスカルの声がやんでしまったので、アンドレは室内を振り返った。明るい空と海を眺めていたために、部屋の中に目が慣れるまで、少し時間がかかった。そのせいか、黙り込み、ある記事を読んでいるオスカルの姿が、何だか深刻そうに見える。
「どうした?」
たまらず声をかけると、彼女は紙面から顔をあげて彼の方を見た。
「……まあ、心配ないとは思うが……」
その後の言葉がつづかない。彼女は思案するように、軽く顎に手を当てていた。アンドレが再度尋ねると、オスカルは少し浮かない表情ながらも、微笑んで返答した。
「この間の、引ったくり犯の一人が、脱獄したそうだ」
新聞を渡されて、アンドレはその記事の文章を目で追った。
「マルセイユはここからだいぶ距離があるし、何かあれば警察から連絡があるだろう」
そう言ったオスカルの声は、落ち着いていた。アンドレもその見解に同意する。後でこちらから連絡してみるかと彼が言うと、オスカルは穏やかに肯いた。
チェックアウト時間ぎりぎりまで部屋で過ごした後、二人は車の停めてある駐車場まで歩いて向かった。スーツケースなどの大きな荷物はトランクにしまったままだったので、すぐにニースに向けて出発できる。
今日はアンドレがハンドルを握ることになった。助手席に座を占めたオスカルは、だいたいの到着時刻を知らせるために、別荘へ電話をかけた。アンドレはキイを回してエンジンをかけ始めた。
「もしもし……わたしだ、オスカルだが、これからそちらに向けて出発する……え?」
電話の向こうの相手の話に、じっと耳を傾けて無言になった彼女の気配に、シフトチェンジするために伸ばしたアンドレの手が止まった。彼女は少しいらついたように小さく何度も肯いている。彼はクラッチから足を外した。
「……そうか。それならば仕方がないな。こちらは何とでもなるから心配はしなくていいよ。特にわたしのことは伝えなくてもいい。……ま、把握されているかもしれないが」
電話を切ったオスカルに、アンドレが、どうしたのかと通話の内容について説明を求める。アイドリングしたままのエンジンは、早く走り出したいと、まるでせがむように快調な音を立てていた。
「アンドレ、予定が若干変更になった」
「どういうことだ?」
さきほど、自分が打ち取った犯罪者が脱獄したと知った時も、ほとんど動揺していなかった彼女の声が、かすかに揺らいでいた。アンドレはわずかに不安を覚える。
彼女は彼の方を見ることもなく、手にしていた携帯端末を操作し始めた。
「うちの親父殿から、急に逗留したいと、昨晩遅く連絡が来たのだそうだ。――ホテル、どこかあいているといいが」
そう言っている間に、もう、ニースのホテルの検索結果が画面に映し出されていた。



オスカルの父親が別荘にやって来ることになったので、彼女は、顔を合わせるのを避けるように、そこに滞在することを、すんなりあきらめてしまった。

自分たちを送り出した時の、昨日の祖母の心配そうな顔が一瞬、アンドレの脳裏をよぎった。



(つづく)





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