夢でも見ているのだろうかと、オスカルは頬をつねってみた。
痛い。だが夢の中でも、痛みを感じたつもりになるのかもしれない。夢ならば自分に都合よく、戻りたいと思えば戻ることができるはずだ。目を閉じてじっと念じる。しばらくして目を開いてみたが、やはり薄暗い部屋に一人立っている自分がいた。
肌寒さを感じた。どこからか、すきま風が入りこんでいるようだ。やはり夢にしてはリアルすぎる。
床の上に置かれていた燭台を取り上げ、じっくりと鏡に映る自分の姿を観察してみた。
服装も違うが、顔はやつれているようだし、手首はいつもより一回りほど、ほっそりとしているような気がする。そっくりではあるが、あきらかに自分の体ではないと感じた。
そういえば、さきほど白いもやに包まれた時、何かが自分の体に入りこんで、押し出されるような感覚を覚えた。
“魂を吸い取る鏡の話”
オスカルはジョゼフィーヌの語った物語を思い出した。あれは本当の話で、自分は鏡に魂を吸い取られてしまったのだろうか。しかし、仮にそうだとしても、ここはどこなのだろう。
まとっている装束は18世紀後半に流行ったもののようだった。

もう一度、鏡の面に目を凝らす。指で弾いてみると、硬質な音がした。今は何の変哲もない鏡だ。オスカルは天井を仰いだ。
ともかく、ここでこうして突っ立っていても助けは来そうになかったし、鏡は反応してくれそうにもなかった。自分で何とか帰る道を探るしかない。ずっとこうしていても仕方がないと、オスカルは割り切ることにした。まずはここがどういう世界なのか知っておくべきだろう。
燭台をかかげて部屋の中を照らすと、床の一部が切り取られて持ちあがっていた。のぞき込んでみると眼下に梯子がある。慎重に下りると、その下の部屋も物置のようになっていた。かなりの広さがあったが、ここにも普段使われていない調度や木箱などが所狭しと置かれている。納戸か倉庫として使われている部屋なのだろう。
それらにぶつからないように、そっと通り抜けると、長い廊下に出た。壁にいくつかのドアがあり、突き当たりの角を曲がると、さらに廊下が続いていた。その向こうに玄関ホールが見える。オスカルはおそるおそるホールの方に向かった。
広い玄関ホールは吹き抜けになっており、階上から見渡せるようになっている。ホールまで下りてみたが、人の気配はない。さてここからどうしたものかと思案していると、後ろからいきなり肩をたたかれた。
「わっ!!」
思わず声をあげて振りかえると、そこには、ブラウスの上にジレを着こみ、やはり自分と同じように短いキュロットをはいた男が立っていた。
「驚かせてすまない。どうした、こんな夜更けに。眠れないのか?」
低音のやさしく響く声は聞き覚えがあった。オスカルは反射的に答えた。
「ア……アンドレか?」
「どうした、おれの顔を見忘れたのか?」
くすりと笑う気配を伴って、男は彼女の持っていた燭台をそっと取り上げると、自分の顔の高さまで上げた。
オスカルは男の顔をまじまじと見つめる。声も顔も、よく似た人を知っている。自分が愛してやまない男とそっくりだった。だが、その顔の左半分は短く切った黒髪で隠されている。オスカルの脳裏にもう一つの像が浮かんで、目の前の顔と合致した。幼い頃から夢で繰り返し見た、あの男に違いなかった。
まだ混乱している頭を何とか回転させる。信じがたいし、ありえないことだが、これまで得られた情報から推測できるのは、ここが夢の世界でも鏡の中の世界でもなく、自分の前世かもしれない18世紀だということ……だろうか。すると、この体はこの時代のオスカルのもの。だとしたら、こちらの”わたし”はどこに行ってしまったのだろう。この体の中に眠っているのだろうか、それとも……。
立ちすくんでいる彼女を、アンドレが訝しんでいるのに気付いて、慌てて取り繕う。
「うん……、ちょっと眠れなくて部屋を抜け出したのだが」
「そうか。でも、疲れがたまっているのだから、横になっているだけでもいい。もう部屋に戻って休め。さっきショヴィレのところから、頼まれていたリストをもらって来たんだけど、明日もっていくよ」
「リスト?」
当然、オスカルには覚えがなかった。
「三部会召集を目指して動いている活動家のリストだよ。ベルナールの名前も入っていた」
三部会は1789年5月に開かれたはずだから、そうすると今日はそれ以前ということになる。

「じゃあ……おやすみ」
アンドレが彼女の手に燭台を戻し、そう言ってあっさりと背中を向けて去って行こうとするので、オスカルはとっさに彼のブラウスの袖をつかんで引きとめた。
「その……少し心細いから、部屋まで送ってくれないか?」
こちらのオスカルはこんな甘えたことは言わないのかもしれない。しかし、自分の部屋の位置すらわからないのだ。『どこにあるのだ?』と聞くわけにもいかないし、ここは彼に案内してもらうほかなかった。アンドレの袖をつかんでいるオスカルの影が、心細そうに揺らいでいた。
アンドレは困ったように眉をひそめたが、再びオスカルから燭台を受け取ると、先に立って階段をのぼった。オスカルはその後をついていく。
階段を上って一つ角を曲がると、ひときわ豪華な装飾で飾られた扉があった。その前で、アンドレは立ち止まる。そこが18世紀のオスカルの部屋らしかった。彼はオスカルがその前まで来るのを待ち、彼女のために扉を開くと、燭台を渡して立ち去ろうとした。
オスカルは、とっさに彼が燭台から手を離す前に、差し出された手に触れると軽く握った。アンドレはびくりと体を震わせ、その場に立ちすくむ。
二人の視線が合う。
先ほどまで、何とか一人でここを脱出して元に戻る方法を考えようと思っていたが、こうしてアンドレに会ってしまうと、ついつい頼りたいというか、もう少しだけ側にいてほしいような気持ちが湧いてくる。
途方に暮れていたところに、最初に会った人間が彼であることが、何かの符合のように感じられた。だが、どう説明すればよいのだろう。果たして彼は信じてくれるだろうか。言ってしまうことで、歴史に影響が出たりしないだろうか。そう考えると、言葉にできない。ただ彼の手を取り、そして彼の顔を見つめた。顔の左側を黒髪で隠してはいるが、そこから現れる精悍なあごのラインも、通った鼻筋も、ほどよい厚みのある整った唇も、自分の知っているアンドレと、うりふたつだった。ろうそくのおぼえろげな光の中では、たった一つしかない黒曜石のようなその瞳は、神秘的な蒼い色光を宿らせている。そして、今は困ったような表情でオスカルの去就を見守っていた。
握っていた彼の手を解放して指を滑らせ、燭台を受け取ると、オスカルは微笑んだ。
「おやすみ……アンドレ」
「お、おやすみ」
アンドレは掠れた声で答えた。

部屋に入り扉を静かに閉めると、そこは居間で、その奥に寝室がつづいているようだった。オスカルは寝台を探し出すと、脇の小卓に燭台を置き、やわらかな絹のシーツの上に、ごろりと寝転んだ。
これからどうすればよいのだろう。見当もつかなくて、様々な考えが浮かんでは消える。
自分は現代に帰れるのだろうか、帰れるのならば、あの鏡からに違いない。あのとき、白いもやと共に自分の体の中に入って来たのが、こちらのオスカルの魂だとしたら、仮説ではあるが、もし精神が入れ替わっているのだとしたら、あちらのオスカルはもっと途方に暮れていることだろう。
彼女は自分が18世紀に生きた人物の生まれ変わりかもしれないと確信してから、実家に保管されている家系図や家誌を引っ張り出して来て、丹念に読み込んだ。それによれば、彼女は最初、近衛連隊長を務めていたが、革命直前に衛兵隊に移って、バスティーユで市民の側につき、そこで戦死したということなのだが。
探してみたが、その中にアンドレの記録はなかった。先ほどの彼の服装といい、夢の中で見た服装といい、18世紀の非農勤労者の衣装のようだったから、ジャルジェ家の使用人だったのだろう。載っていないのは当然なのかもしれない。
いろいろと考えているうちに、次第に眠気がおそってきた。絶妙な具合で体の重さを受けとめる寝台が心地よい。
今夜は眠れないと思っていたのに、このところ疲労がたまっていたこともあり、寝台のほどよい弾力が、少しずつ彼女を眠りの国にいざなって行った。もしかしたら、この部屋の記憶も自分のどこかに刻まれているのかもしれない。知らない場所のはずなのに、どこか落ち着く感じがする。
オスカルはまぶたを閉じた。とりとめもない連想が、覚醒と夢の間を徘徊し始める。
不思議な本屋に、アンドレの本。アンドレと出会った時のこと、航空事故。まだ封を開けていないシャトー・ラフルール……。
子供の頃に見たディケンズの「クリスマス・キャロル」の劇。精霊達がスクルージを現在から過去、そして未来へと連れまわす。やがて半透明な精霊達は形を変えて銀色のスポーツカーになり、白髪頭の老人と少年が、それに乗って旅をする映画のシーンに変わった。あれも、時を越える物語だ。未来と、現在と過去を行ったり来たり。その度に世界が変わって、戻れなくなりそうにもなって。もし、もしもここが過去なのだとしたら、決して歴史に影響を与えるようなことだけはしないようにしないと……ああ、そうだな……それだけは……。
胸が規則的に上下し始める。かすかな寝息を立てながら、オスカルは眠りに落ちていた。

どれくらい眠ったのだろう。
「オスカル、オスカル!」
肩をゆすられて、ゆっくりと意識が呼び覚まされる。
“ん……まだ眠い。昨夜は遅かったからアンドレ……”
重たいまぶたを少しだけ開けると、愛してやまない男の顔が目の前にあった。
オスカルは迷うことなく、かがみ込むようにして彼女を起こしていたアンドレの肩に腕を回して引き寄せた。オスカルの行動が予想外だったアンドレは容易に引き寄せられてしまう。彼女は彼と軽く、くちびるを合わせた。いつももう少し眠らせてほしいと甘える時に、こうすると、彼はそっと寝室を離れて、頃合いを見計らってまた起しに来る。
しかし、今日は違った。アンドレはオスカルを突き倒すようにして振りほどき、身を起こした。思いがけなく引きはがされ、寝台に押し付けられた衝撃で、オスカルは一気に目が覚め、今どこに自分がいるのかを思い出した。
彼はたった一つしかない目を見開いて青ざめ、責めるような目つきで彼女を見つめている。
過去の自分と彼も愛し合っていたはずだが、まだ恋愛関係にはなっていないということだろうか。
自分は名門帯剣貴族のジャルジェ家の娘で、彼はその家の使用人だとしたら、大変な身分違いの恋ということになる。二人はいつ、どうやって想いを伝えあって、立ちはだかる壁を乗り越えたのだろう。”わたし”はいつ、彼の胸の中に飛び込むのだろうか。
「あ……あの、すまない。まちがえた」
アンドレの顔がさらに険しくなる。
「誰と……!?」
掴みかからんばかりの勢いで言われ、オスカルは慌てて補足した。
「えー…とその、夢の中に昔のおまえが出て来たから、子供の時の気持ちに戻って、つい」
自分でも苦しい言い訳だと思ったが、繰り返し見ていた夢の中で、少年時代の彼の頬にキスする自分がいたから、とっさに思いついたにしては悪くないだろうと思った。
アンドレは納得したのか、していないのか分からないような表情をしながらも、彼女を起こしに来た理由を告げた。
「……ル・ルーがおまえを呼んでいる。本当は誰か探して起こしてもらおうと思ったんだが、みんなノエルの支度やらオルタンス様達をお迎えする準備に忙しそうだったし、『ママンが到着するまえに、おねえちゃまに渡したいものがあるから、急いで』ってせかすものだから」
「ル・ルーって?……ル・ルー・ド・ラ・ローランシーのことか!?」
アンドレが、そうだと答えると、オスカルの目が輝いた。
オスカルが生まれたジャルジェ家は代々つづく貴族の血筋だったが、革命やいくつかの戦争を乗り越えた後も、広大な土地を所有し、いくつもの会社を一族で経営する、フランスでも屈指の資産家だった。
革命の混乱で、一時期一族は離散し、その財産も散逸してしまったのだが、最後の当主亡き後、直系の途絶えたジャルジェ家に入り、家を立てなおしたのが、くだんのル・ルー・ド・ラ・ローランシーだった。彼女の功績についてはジャルジェ家の家誌に数ページに渡って記述があったし、オスカルの伯父か伯母の家に彼女の肖像画が今でも飾られている。
彼女は不思議な力の持ち主でもあったのか、時代の先を読み、取引相手の気持ちを汲み取ることに長けていて、次々と事業を起こしては、全てにおいて奇跡的に成功を収めた。時代の転換期ということがかえって幸いして、一代で莫大な資産を築き上げることができたのだった。
ジャルジェ家中興の祖として、今でも尊敬を受けている人物。彼女に会えると思うと、オスカルの心は、こんな時ではあるが、弾んだ。いったいどんな聡明で女丈夫な人なのだろう。





(つづく)



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初出:2008年12月
改訂:2010年01月