広いリビングのソファに座って、オスカルはカチコチという時計の音を聞くともなしに聞いていた。
部屋の白い壁には、精緻な金の装飾が施されたアンティーク時計がかけられている。18世紀には貴族の持ち物だったものだ。その繊細な2本の針が、まもなく職人の銘の上で重なろうとしていた。2本の針がひとつになって、12月23日が24日に変わる。
もうずいぶんと長く同じ姿勢でいたので、腕や背中が鈍く痛んできた。オスカルは立ち上がると、自分の部屋の中を見渡した。白い壁紙はしみ一つなく、高い天井ではシーリングファンが音もなく回っている。磨き上げられた床の上には毛足の長い白いファーの絨毯が敷かれ、その上にオスカルが腰を下ろしていた革張りのソファがあった。パーティーを開くことを想定して作られた、そのリビングはかなりの広さがある。
「寒々としている……」
彼女にしては珍しくうつろな目をして、間接照明にぼんやりと浮かぶ部屋の調度を眺めた。
部屋に置かれている家具は、全て彼女自身がひとつひとつ選んだものだ。アンティークもあれば、一流の家具職人に注文して設えたものもある。全てが自分好みに整えられた居心地のいい空間。
この広い部屋に一人でいても、ずっと、さびしいと思ったことはなかった。
そう、彼に会うまでは。

彼女、オスカル・フランソワの誕生日は、世界が神の子の誕生を祝う日と同じだ。明日は世界中でクリスマスと呼ばれる日でもあり、彼女の誕生日でもある。
仕事を始めてからこの方、人々が休暇を取り、故郷に帰ったり親しい人達と過ごす中、毎年忙しくて、自分の誕生日であっても休暇を取ることができなかった。パイロットも一種のサービス業なのだ。人々が休暇に入るシーズンほど忙しい。
ことにオスカルはその操縦技術に加え、類まれな美貌と優雅な物腰を買われ、常連客からの指名が多いから、その場合は他のパイロットに替わってもらうわけにもいかない。ただオスカルと言葉を交わすことだけを楽しみに、1フライトに数十万ユーロをぽんと払うマダムもいるほどなのだ。
今までも家族と過ごせなくなって寂しいと思ったことはあってが、元来仕事をしているのが好きな彼女は、無理してまでスケジュールを調整したいとまでは思わなかった。それが当たり前だったのだ、彼に会うまでは。

だが、今年は、23日の晩から25日までの時間を勝ち取った。
今年はアンドレと気持ちを確かめ合ってから、初めての自分の誕生日だ。その日を、アンドレと二人で迎えたい、そう思ったからだ。

昔。
オスカルには5人の姉がいるが、子供の頃、姉達はよく、恋占いやおまじないの話をしていた。10代に差しかかる頃になると、女の子ならほとんど誰もがそんな話に興味をもつものだが、オスカルには全く興味のもてない話だった。父親が話してくれる軍隊の話や歴史、政治の話の方がよほど関心をそそられた。
姉達の中でも一番夢見がちだったのが、オスカルのすぐ上の姉であるジョゼフィーヌだった。まるで『赤毛のアン』の主人公のように、いつも空想にふけっていた姉は一番そういった情報に詳しく、オスカルが聞いていようがいまいがおかまいなしに仕入れて来た新しい話を、必ず彼女に教えてくれた。ともかく誰かにしゃべりたい彼女にとっては、さして興味もないので余計な口を差し挟まないで聞いてくれる分、かえってオスカルは格好の話し相手だったのかもしれない。
その中に、ジャルジェ家に代々伝わるというおまじないや伝説があった。彼女の生家は中世からつづいている貴族の血筋で、18世紀には王族の側近くに仕えるほど力を持っていた。
そんな古い家系には、だいたい禍々しい伝説だの、先祖の誰それが隠した財宝の話だの、眉唾ものの話がごろごろしているものだ。ジャルジェ家も御多分にもれずで、七不思議だか八不思議だかいうのを、どこからか探し出して来たジョゼフィーヌは、一日父親にしごかれて早く眠りたいオスカルのベッドに忍び込み、嬉々として話して聞かせたのだった。
「あのね、オスカル聞いてちょうだい。この屋敷のどこかにね、十字軍の時代にサラセン人から奪った宝が隠してあるんですって……」
小さなオスカルは一つあくびをした。姉はまだ寝てはだめよと言って妹を揺り起こしては一つ一つのエピソードを語っていった。
“月のない晩に邸内の林を彷徨い、身分違いで結ばれなかった恋人を探す白いドレスの令嬢の話”、“魂を吸い取ってしまう鏡の話”。
「それでね、それでね、これが一等すてきなのよ、ねえ、オスカルったら!」
船をこぎ始めた妹の頬をつつきながら、彼女はオスカルの耳元で言った。
「大好きな人と初めて会ってからの自分の誕生日の午前零時をいっしょに迎えることができたなら、そのときに永遠の愛を願うと、その願いが叶うんですって!」
ジョゼフィーヌが実際に、その“永遠の約束”を誰かと交わしたのかは、とうとう聞かせてもらえなかったが、彼女はよき伴侶を得て、今は一男二女の母親として幸せに暮らしている。

アンドレと初めて顔を会わせてから、明日が自分の初めての誕生日だ。8月のアンドレの誕生日に、ちょっとしたいたずらを仕掛けることを思いついたとき、この姉の語ったエピソードもついでに思い出していた。

それから、4ヶ月。
自分でも馬鹿馬鹿しいと思いながらも、いつしか、そうなるように計画し、行動に移して、その時を迎えようとしている自分がいた。
彼とずっと一緒にいたい。もし、再び天が二人を分かつときが来たとしても、また再び巡り会って……。そんなことまで思った。
そのためにずいぶん無理をしたし、周囲にも無理を聞いてもらわなければならなかった。ここ数日は、疲れもピークに達していたが、アンドレといっしょに誕生日の0時を迎えたとき、どうやって過ごそうか?そう考えると不思議と疲れを感じなくなった。あの当時の姉達の気持ちは、こんな感じだったのかと思い巡らせながら、その瞬間を、あれこれと想像してみた。
そうだ、とっておきのシャトー・ラフルール1988年をカーヴから引っ張り出して、その瞬間に二人で栓を抜こう、そしてそれを飲み干しながら、永遠を願ってみよう。そんな予定まで立てていた。

アンドレには、直前までその休暇のことを秘密にした。いつも忙しくて自分の誕生日も休めないと言ってあったから、いっしょに祝えるとなれば、彼は当然喜んでくれると思っていたし、驚かせてやりたいという、ちょっとした、いたずら心もあったからだ。
それに、姉が子供の頃に語った他愛もないおとぎ話に、こんないい年をした自分が踊らされているなんて、彼には絶対に知られたくなかった。彼にはこんな風に言おう。「ぽっかりと時間が空いて会えることになった」と。前もって取得した休暇ではなく、たまたま偶然、何かの弾みで、そんな風を装って。

23日の夕方、オスカルはシャルル・ド・ゴール空港に戻って来るなり、すぐに彼に電話をかけた。
「オスカル?どうした?」
電話の向こうから、もうすっかり聞きなれた、よく通る優しい声がしてくる。
オスカルは今、パリに到着したばかりであること、そして今からクルーと簡単なミーティングを終えた後、25日までフリーであることを彼に告げた。
一瞬の沈黙。
アンドレがすまなそうに言った。
「実は……その……今、ブリュッセルにいるんだ。えっと…その、そう、取材で。25日の午前中の仕事が終われば、ここを発てるんだけど」

今度はオスカルの方が一瞬、言葉が出なかった。
アンドレが仕事で出かけている。全く想定していなかったことだ。心のどこかでいつもパリにいて、自分のことを待っていてくれるような気がしていたし、パリを離れるなら、所在を常に知らせてくれているものだと思い込んでいた。
「そ、そうか。では仕方がないな……。25日の昼頃なら大丈夫…か?」
ああ、とアンドレが答えると、オスカルはじゃあ、と出来るだけそっけなく言ってから電話を切った。まだ回線を切断途中の携帯電話に向かって叫ぶ。
「ばかやろう!!」
アンドレに言ったのか、自分に言ったのか、オスカル自身にもよくわからなかった。

時計は彼女の気持ちなどおかまいなしに、正確に時間を刻んでいく。いや、時というものが、そもそも無情だというべきだろうか。
25日の0時ちょうど、それを一人この部屋で迎えることになるのだろう。彼は戻ってこないのだから。
相手の都合も聞かずに勝手に計画を立てて、勝手に楽しみにしていた自分が悪いのは百も承知している。
25日の0時を二人で迎えられなくても、その日のうちに会えるのだから大差はないだろうとも思う。
だが。
何だろうか、この気持ちは。彼とこれからもずっと過ごしていけるという確証が欲しくてたまらない。

以前はこんな風ではなかった。
子供のとき、仕事のために、父親との約束を何度も破られたときも、仕方ないと思うことができた。
誰かと過ごすために忙しく立ち回ってみたりするのは、たぶん生まれて初めてのことだ。
世間並の女の子のように、密かにまじないをかけてみようかなどと、この自分が思うようになるなんて。
こんな風ではなかった、彼に会うまでは。

ふと思いついて、オスカルは立ちあがった。
広いリビングを横切り、寝室を抜け、さらにその奥にある、納戸として使っている部屋に入った。後手にドアを閉める。張り巡らされたセンサーが部屋の主の行動を感知して、自動的に照明がつく。
その部屋には普段使われない物が置かれており、ほこりよけに白い布がかけられていた。
オスカルは迷うことなく、つかつかとあるものに近づいた。
それは部屋の壁に立てかけてあった。かかっていた布を勢いよく取り去る。ばさりと音を立てて布は床に落ちて白い影を作った。
姿を現したのは、大きな姿見だった。
大きさはオスカルの身長より10センチほど高い。年代物らしく、鏡の周りは黄金のアラベスク模様の装飾で飾られていた。右側上部の角には、かわいらしいアモールの像があしらわれており、その目にはラピスラズリが嵌め込まれている。鏡を脇から一生懸命に支えているようなその姿は、たまらなく愛くるしい。
実家の倉庫に長年眠っていたものだったが、オスカルが子供のときに見つけ出して気に入って、愛用するようになった。ジョゼフィーヌは、この鏡を見るなり、例の魂を吸い取るという伝説の鏡みたいで気持ちが悪いと言って嫌がった。オスカルにはそれがかえって面白く、姉へのからかいも込めて自室に運ばせたのだった。
ここに越して来た時もいっしょに持って来たのだが、今の部屋には似合わないのでここにしまい込んでいたのだった。午前0時のまじないが叶わないと悟ったとき、この鏡のことも思い出して、ふと久しぶりに眺めてみたくなった。

鏡が憔悴したような女を映す。自分ではないみたいだ。見たこともない女だ。
「ひどい顔だな」
鏡は真実の姿を映す。そこから答えが見つかるとも言う。
鏡に映る掌に自分のそれを重ねた。
“どうした、オスカル・フランソワ。何がそんなに腹立たしいのだ?何がそんなに悲しいのだ?”
鏡の中の自分に、自問自答してみる。
「さあ…わからない」
“本当に?”
なおも鏡の中は問いかける。
それは、嘘だ。わかっている。だけど。

“……パリはいつ火を吹くかわからない。フランス中の膿が一気に溢れ出して飲みこまれてしまいそうだ……”
「?」
自分の声のようだったが、先ほどまで、自分の頭の中で響いていた自問自答の声ではなかった。どういう意味だ?パリが火を吹く?フランス中の膿が何だって?
後ろを振り返ったが、もちろん誰もいない。
「しっかりしろ、オスカル・フランソワ」
確かめるように鏡をのぞき込むと、また声が聞こえた。
“ここから逃げ出してしまいたい……”
のぞき込んでいた鏡の中の自分の顔がぐにゃりと醜く歪んだので、オスカルは驚いて、後ずさろうとした。ところが鏡に触れていた両の掌が吸い付いたようにして離れない。
ガラス製の鏡面は冷たいはずなのに、合わせた掌から熱を感じると同時に、磨きぬかれてわずかな凹凸もないはずの表面が波立った。オスカルは呆然とその変化を見つめていた。鏡の中に映る自分が揺らいで、そしてにじんだ。
彼女は恐怖にかられたが、固唾を飲んで、しばらくの間、ただ鏡を見つめていた。鏡は真っ暗になって、数秒何も映らなくなったが、再び像を結ぶと、金髪と白い顔と青い瞳を映し出した。
自分の顔を確認できてほっと安堵したのも束の間、それによく目を凝らして再び驚く。鏡の中の彼女は、白い絹のブラウスを身につけ、腰にはきれいにサッシュを巻き、膝丈までの濃紺のキュロットをはいている。今日は黒いセーターに白いパンツを合わせていたはずなのに。
鏡の中から、もやのような白いものが出てきたと思うと、人肌ほどの生暖かい空気の固まりの中に包まれるのを感じた。そのもやの中で、何か生々しい感情の塊のようなものが飛び込んできて、なすすべもないオスカルは反射的に目をつぶった。

しかし、それ以上は何も起こらなかった。もう奇妙な声も聞こえない。おそるおそる目を開くと、目の前にはいつもと変わりない鏡があり、周囲には白い布で覆われた家具類があった。
だが、さっきよりも、ずいぶん薄暗い。鏡に映る自分の姿がおぼろげにしか見えないくらいにだ。さっきの一瞬で停電でも起きたのだろうか。天井を見上げた。そこにあるはずの平べったいドーム状の大きな照明がない。きょろきょろと辺りを見渡すと部屋全体も様子が違っているようだった。
目が暗がりに慣れていくにつれ、鏡に映った自分の姿が見えるようになってきた。自分のまとっている服は。
あわてて自分の体を手でたどってみるが、上半身はカシミアのふわふわとした感触の変わりに、絹のさらりとした手触りがして、腰の辺りからは同系の布が長く垂れ下がっていた。
光沢のある絹地をたっぷりと使ったブラウスに紺色のキュロット、それにサッシュまで締めて立っている。時代がかった服装は、さきほど波打つ鏡の中にみたそれと同じだった。





(つづく)



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初出:2008年12月
改訂:2010年01月