かのル・ルー・ド・ラ・ローランシーその人に会えるのだから、失礼のないようにしなければとオスカルは思った。
「よし、すぐに行こう。あ、すまないが身支度をする間、外で待っていてくれないか」
邸内が不案内なので、アンドレにル・ルーの待つ場所まで連れて行ってもらわねばならない。彼には廊下で待っていてもらうことにした。アンドレは怪訝そうな顔をしたが、彼女の言う通りにした。
アンドレが出て行くと、オスカルは象嵌細工のクローゼットや黒檀の箪笥を片端から開き、ブラウスとキュロットにストッキングを探し出した。着替えがすんでから、髪にブラシをかける。髪がもつれ、櫛通りがよくなくて整えるのに苦労する。髪がなかなか言うことを聞いてくれないのは、現代の自分と同じだなと苦笑しながら、ドア越しにアンドレに気になっていたことを尋ねてみることにした。
まずは当たり障りのない質問から。
「アンドレ、今何時だ?」
「9時すぎだが。昨夜は寝つけなかったみたいだな。あの後はよく眠れたか?」
「ああ。……で、今日は何年の何月何日だったかな?」
「………1788年12月24日だけど。おまえ、本当に大丈夫か?疲れているならそのまま休んでいてもいいと思うぞ」
アンドレの声の調子には、どうかしてしまったのではないかと心配している様子が伺える。
我ながら間の抜けた質問だと思うが、正確な日付を確認しておかないと今後、絶対に困ったことになる。
今日が12月24日の朝だとすると、あちらとこちらで、日付は揃っていて、同じ時間軸で物事が進んでいるのだろうか。
あとひとつ、気がかりだったことを切り出す。
「体の方は大丈夫だ、心配するな。それで、それで近衛の方は、出仕の必要はなかったよな?」
アンドレは少し間を置いてから答えた。
「2週間の休暇が終わったばかりだが、ノエルだし、おまえの誕生日でもあるから、特別にアントワネット様が今日から2日間だけ休暇を下さったんだ。おまえ、最近疲労がたまっているようだったから」
「そう!そうだったな」
出仕の必要はないと聞いて、オスカルの気持ちは一気に軽くなった。髪を解く手にも自然と弾みがつく。
こちらのオスカルの仕事は軍隊を束ねること。
小さい頃から親しんでいる乗馬はかなりの腕前だし、フェンシングも父親の手ほどきを受けていたから、何とかごまかせるかもしれなかったが、軍隊の指揮など正式に勉強したことはないし、日常の軍務など皆目見当もつかなかった。とりあえず、その必要がないと聞いて安堵したのだ。
姿見の前で全身をくまなくチェックしおわり、満足すると、オスカルはアンドレの待つ廊下に顔をだした。
「待たせたな、アンドレ。そうだ、一階の物置部屋に、天使の彫刻がついた大きな鏡があるはずだ。それを後で私の部屋へ運ばせてくれ」
アンドレがわかったとうなづくと、オスカルは、ではル・ルー嬢の元へ参上しようかと、わざと大仰な言い方をした。アンドレはオスカルを先導するようにして廊下を進み、階下に下りた。


『肖像画というものは、本人に忠実に描いてはいけない。実際より少し美男美女に描くところがポイント』
ル・ルー・ド・ラ・ローランシーに会った時に最初に思いついたのが、どこかで聞いた、この言葉だった。
親戚の家で彼女が見た肖像画は、かなりの美女で、威風堂々とした趣があった。軽くウェーブした栗色の髪と、理知的な広い額、好奇心の強そうな瞳、明るい気質を象徴するような、やや大きめな口元が印象的だった。
目の前の少女の、それぞれのパーツは肖像画のイメージそのものだった。だが、実際のル・ルー嬢は、ウェーブというよりは、ちぢれたと言った方が正確な髪をして、真ん中にちょこんとついている鼻に比べ、目と口が大きすぎる感じの顔をしている。しかも、一瞬もじっとしていないで、ちょこまかとよく動き回る少女だった。美しいというよりは可愛らしいという形容があてはまるだろう。抱いている人形は驚くほど彼女の特徴を捉えている。
正直、偉大な面影はどこにも見当たらなかった。

「オスカルおねえちゃま、これあげるわ。ママンに見つかったら、どうぜ取りあげられちゃうに決まっているから」
オスカルを見るなり、少女は、どこに持っていたのだろう、50cm四方くらいの箱を差し出した。
オスカルが蓋を開けようとすると、少女は慌てて止めた。
「あとで開けてみて。それから、これはジョベールさんから、おねえちゃまとアンドレに」
大きな目をくりくりと動かして、愉快そうに言う。もうひとつ小さな箱を手渡すと、ル・ルーはジョベールからの伝言を伝えた。
「モンテクレール城から救い出してくれたことへのお礼ですって。ひときわ丁寧に仕上げたから、時間がかかり過ぎたのはご容赦下さいとのことよ。お城から逃げだした時に私、聞かれたの。お礼がしたいがどうすればいいかって。だから、おじさんが一番得意なことで返せばいいと思うわって教えてあげたのよ。ついでにもう一つ男の人用を作ってあげたら、もっと喜ぶと思うわって」
「ジョベール?」
聞き覚えのない名前にオスカルがとまどっていると、アンドレが口を挟んだ。
「半年前、行儀見習の名目でヴェルサイユにやって来たのに、ル・ルーはずっとジョベールの工房に通っていたものな。ここ一ヶ月は勉強そっちのけで入り浸りだった。これはそこで作ったものかな。確かにオルタンス様に知られたら、雷が落ちそうだ」
アンドレは箱を見ながら愉快そうに言った。
「証拠隠滅よ」
ル・ルーは悪びれた風もなく、前歯を見せて屈託なく笑った。
「どうだ、ジョベールはうまくやっているか?」
アンドレはル・ルーを見下ろして尋ねた。
「目は見えないけど、技術や知識は、まだまだ若い者に伝えなければいけないものがあるって、いつも言っているわ。目が見えなくなった分、耳が鋭くなったから、音だけでムーヴメントの出来の良し悪しがわかるそうよ。親方として何人も職人を抱えてがんばっていてよ。何しろアンリ・ジョベールの名前がつけば、不景気だといっても注文はたくさんくるんですもの。最近は貴族ばかりじゃなく、ブルジョワ達からも注文があって、むしろ人手が足りないくらいだと言ってたわ」
ル・ルーは、まるで、我ことのように誇らしげに胸を張った。
ムーヴメントと言っていたから、先ほどの箱の中身は時計だろうか。
「あ、馬車が来た!きっとママンだわ。おねえちゃま、はやく、はやく」
目ざとく窓の外に馬車が近づいて来るのを見つけたル・ルーは、天井まで届きそうなフランス窓に顔をくっつけて大きな声でそう言った。言うが早いか部屋を飛び出して行く。
室内には、二つの箱を抱えたアンドレと、オスカルが取り残された。
「オルタンスさまがお着きになったようだ。おまえも出迎えた方がいい。これで姉君達は全員お揃いだな。これはおまえの部屋に運んでおくよ」
アンドレが彼女を促した。
「今年は久しぶりに姉妹全員が揃ったな。おまえも休暇が取れてよかったよ。……来年からは、正直、どうなるか……」
彼は彼女の肩をポンと軽くたたくと、そう言い残して部屋を出て行った。
この屋敷の中にいるとあまり感じないが、この頃のフランスは、全土が不穏な空気に包まれ、暴動が頻発し、大蔵大臣が次々に替わったり、議会では貴族や高等法院がもめて、三部会を開催するかどうかが議論されていたはずだ。翌年の5月には三部会が召集され、そして、そして7月には……。

ふと、昨日の夜聞いた声が耳に蘇った。
“……パリはいつ火を吹くかわからない。フランス中の膿が一気に溢れ出して飲みこまれてしまいそうだ……ここから逃げ出してしまいたい……”
あれは、やはり。

窓の外から、家族との久しぶりの再会を喜び合う声が聞こえてくる。
窓から見える空は冬特有の曇天模様で、すっかり葉を落とした木の枝には、雀が一羽、寒そうに羽毛をふくらませて留まっていた。





(つづく)



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初出:2008年12月
改訂:2010年01月