「あれからもう……6日か」
アンドレがキッチンに置かれたカレンダーを見て呟いた。
あの日、パリの街をあてどもなくさまよって、日の暮れる頃に部屋へと戻った時には、彼女の姿はもうなかった。
当然といえば当然で、安堵すると同時に、心のどこかで待っていてくれはしないだろうかと、虫のいいことを考えている自分がいた。
以来オスカルから連絡は一切ない。今どんな様子なのかだけでも知りたかったが、自分から連絡することはためらわれた。

なぜあんなに性急なことをしてしまったのか。ともかくあの男の名前を聞いた途端に、わけのわからない衝動が湧き起こったとしか言い様がない。
"ジェローデル"
今でもその名を思い出すと、従いたくないものに無理矢理、頭を垂れさせられるような、そんな胸苦しさを覚える。
あの日、見たこともない男の姿がはっきりと目に映ったし、彼女と自分の姿も脳裏に浮かんだ。
見たはずのない光景をオスカルが見て、自分に似た男がそこいた。
見たはずのない情景を自分が見て、オスカルにそっくりな女がそこにいた。
キリスト教の教義では否定されているが、自分達に起こったことを総合的に考えると、一つの結論に達するのが妥当に思える。
アンドレは慌てて頭を振った。だからと言って自分のしでかしたことが帳消しになるわけでもなく、あくまでも仮説の域を越えるものではない。

ようやく寒さのゆるんで来た今日のパリの空は晴天で、窓から差し込むあたたかな日差しで部屋の中は満たされていたが、今のアンドレの心中は曇天の真冬の空のように鬱々としている。
部屋にこもっていると、一日中頭の中でらちもないことばかり考えてしまい、彼女のことが気になって仕事が手につかなかった。かと言って気晴らしにどこかへ出かける気分にもならない。
彼はダイニングテーブルの上にあったリモコンを取り上げて椅子に逆向きに座ると、背もたれの上で腕を組み、その上に頭を乗せてテレビの電源を入れ、次々とチャンネルを変えていった。
子供に人気のパペットがたどたどしい言葉で何かしゃべっている。アイドルになりたい女の子が、コンテストで流行りのポップスを歌っている……悪くない。外国製のアニメ、去年ロードショーで見た映画。ニュースが原油の高騰や株式市場の下落を伝える。その後は天気予報。今日のパリは一日中晴れ、降水確率0%。
フランスからヨーロッパ全域の地図に画面が切り替わった時、地図に重ねられた白い等圧線の上に文字が現われた。アンドレの目が画面に釘付けになる。

ニュース速報だった。
アンドレの手からリモコンが落ち、床にぶつかってゴトリと鈍い音を立てる。
彼は仕事部屋に駆け込んで、取り落としそうになりながら携帯を掴むと、メモリーから番号を呼び出してかけてみたが、相手の電源が落ちているのか、センターに繋がって留守番電話の機械的なメッセージが流れてきただけだった。
軽く舌打ちしてメッセージの途中で電話を切ると、取るものも取りあえず、アンドレは部屋を飛び出した。

消し忘れたテレビ画面は天気予報からニュースに戻り、アナウンサーが無感動な話し方で入って来たばかりの臨時ニュースを読み上げていた。その中に、オスカルが勤務する航空会社の名前があった。



ダグー主任管制官が事故の第一報を受けたのは、ちょうどアンドレが空港に向かった頃だった。

明日で定年退職予定の彼は、今日は勤務がなく自宅待機していた。最終日は職場で挨拶まわりをした後、同僚の何人かが、ささやかな退職祝いをしてくれることになっていた。それで35年務め上げた職場とはおさらばするはずだった。
長年連れ添った妻とゆったりと午後のお茶を飲みながら、退職後に2人で行く予定のイタリアへのクルーズについて話していた時に、電話が鳴った。
彼が電話で受けた報告はこうだった。

14:34にニース・コート・ダジュール空港を離陸したA.R.1225便が、巡航高度を水平飛行中、突発的な気流の乱れに遭遇し、乗務員1名が負傷。その時のショックで前輪が出なくなり、胴体着陸する可能性が出たため、トラフィックの多いシャルル・ド・ゴール空港から、比較的便数の少ないオルリー空港へ目的地を変更。現在オルリー空港上空で待機中である。既に空港長室に対策本部を設置済み。乗客にVIPがいるため、大統領官邸に情報連絡室を設置したと。

「主脚(後輪)だけでも出たのは幸いだったな。だが……」
きれいに刈り揃えられた口髭をいじりながら、これからしなければならないことを既に頭の中で列挙し始めていた。
彼は自家用車を飛ばして5分で空港に着くと、まず、それまで交信していた管制官に代わって旋回中の旅客機の機長から現況を聞き、オルリー空港付近の最新の気象情報を伝えた。
それから、1225便の着陸推定時刻、発着予定旅客機の一覧などから、できるだけ空港機能を停止させないで済むようにプランを作成し、着陸時の空港の体制が整っているかの最終確認を行って、それぞれ部下の管制官に適切な指示を出した。
A.R.1225便は、機体を軽くし、着陸時の火災の危険をできるだけ回避するために、あと1時間、空港上空で旋回を繰り返し、燃料を消費してから着陸を試みることになった。
着陸体制に入れば一瞬も気を抜けない。主任管制官は一服してくるよ、と部下に断って、しばしの間、現場を任せた。


アンドレが空港に着いた時には、部屋を出てから45分ほどが経過していた。
バス・ターミナルから走って来たために息をはずませながら、辺りの様子を見まわす。空港内は予想外に平常通りで、ニュースを見ていない旅客は今、上空を旋回中の機体があるとは気づいてもいないようだった。
居ても立ってもいられずに空港へ駈けつけてしまったが、現在の状況を知る術はアンドレにはなかった。オスカルがその飛行機に乗っているのかさえも定かではない。
航空会社の関係者なら何か情報をつかんでいるかもしれないと、チェックインカウンターに向かう。カウンターが見えるところまで来ると、アンドレは前から歩いて来る男の姿を見とめて、はっとして立ち止まった。
あの男だった。
亜麻色の髪をした長身の男。プライドの高そうな顔つきを、確かに数日前、この目でみた。

アンドレは立ち尽くして男をじっと見つめていたが、その胸にオスカルが勤務する航空会社のIDカードが下がっているのを見ると、こだわりを捨てて思いきって声をかけた。
「すみません。A.R.社の関係者の方でしょうか。今、上空を旋回している旅客機についてお聞きしたいのですが」
男がじろりとアンドレを一瞥した。
「プレスだったら、今は何も言えない。空港当局からの発表を待ちたまえ」
そう言って通り過ぎようとしたので、アンドレは上着の袖を掴んで男を引きとめ、切羽詰まったように尋ねた。
「いえ、あの飛行機の機長が友人かもしれないんです!もしかしてオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェが乗っているのではありませんか!?」
その名前を聞いて、ジェローデルはまじまじと、自分の腕を掴んでいる男の顔を見た。
黒髪と黒い瞳をもつ男。何がなんでも彼女の消息を聞き出そうと青ざめて必死になっている。その尋常でない様子を見て、直観的にこの男が彼女の想い人ではないかと思った。
この男がいるせいで、彼女は自分を拒むのか。自分の何がこの男に劣るというのか。彼女の何を知っているというのか。
そう思った途端、嫉妬と怒りを感じると同時に、相手に屈辱感を味わわせてやりたいという黒い欲求が渦巻いた。彼女が危険な状態に陥っているのに、この男にはどうすることもできないのだ。自分が無力だということを、彼女のために何もできない存在であるということを思い知らせてやりたい。
「手を離したまえ。知ってどうする?君がここに来ても何の役にも立たないだろう?」
見下すように冷たく言い放った。
アンドレが腕を放すと、
「私は社の対策本部に行かなければならないので失礼する。隣に乗っているのが私でないことが口惜しいけれど、地上から彼女をサポートして差し上げないといけないからね」
わざと説明するかのように、これから自分がすることをアンドレに語ってみせ、彼を横目で見ながら、わずかに口の端をあげて優越感たっぷりに微笑んだ。
アンドレは返す言葉もないまま男を見つめ返す。互いにそれ以上交わす言葉がないまま、暫時睨み合った。
やがてジェローデルはアンドレに背を向けると、磨きぬかれた廊下をコツコツと靴音を響かせながら遠ざかっていった。
アンドレが立ち尽くしてその後ろ姿を見送っていると、ジェローデルがふと何かを思って立ち止まった。彼に背を向けたままで、
「彼女は無事だということだけ伝えておきましょう」
それだけ言うと、関係者以外立ち入り禁止区域に消えて行った。

一人取り残されたアンドレは、両の拳を握り締め、下唇を強く噛んだ。あの男の言う通り、自分は無力で彼女のために何一つしてやることができない。くやしかったが、どうしようもなかった。
せめても彼女が着陸する姿を見守っていてやりたいと、展望エリアに向かって歩き出した。

オルリー空港の展望エリアはガラス張りのテラスで、南ターミナル3階から行くことができる。空港施設内が全面禁煙になった時に喫煙エリアとして無料で開放されるようになった。
搭乗客でなくても自由に出入りすることができるので、いつもたくさんの見学者がいる。その中に胴体着陸の瞬間を伝えるために集って来た報道関係者らしき姿があった。事情を知らない見学者達が、何事かと遠巻きにしながら、ちらちらと彼らの方を見ていた。中には何の取材かと尋ねる者もいた。
アンドレも何か情報が得られないかと近づいていこうとしたが、ふと、その手前の喫煙コーナーに管制官のIDカードを下げている男がいるのに気がついて、声をかけた。
「すみません。私、上空を旋回している旅客機の機長の友人で、アンドレ・グランディエと申しますが……」




(つづく)


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