オスカル達が搭乗している機体は、彼女が勤務する会社では最大・最上級のものだった。
全長41.2m、翼幅35.8m、キャビン面積は実に84.35uを誇る。キャビンの内部は、最前部にシステムキッチンを備え付けたギャレーがあり、その先はカーペットが敷き詰められ、ゆったりとしたソファや皮張りのリクライニング・チェアのあるラウンジになっている。さらにその後方には体を伸ばしてゆっくりと休めるベッドルームと、広めに空間を取ってデザインされた洗面所とトイレ、最後尾にはシャワールームまでついていた。各部屋には花が飾られ、間接照明が優雅な雰囲気を醸し出す。
そこをわずか6名の乗客が占有する。誠にぜいたくの極みである。チャーター費用は一日数万ユーロを下らない。アランが「こんな短距離に…」と皮肉ったのもうなずける。

往路は実に快適なフライトだった。天候は安定していたし、何よりオスカルが懸念していたようなトラブルが起こらなかった。
大司教はチャーターした機体がお気に召したようで、ずっと上機嫌だった。ニースでは司教以上の集会があり、今回はローアン大司教が大役を拝命したとのことで、目立つことの大好きな彼は、丸い大きなお腹をさらに前に突き出すようにしながら満面の笑顔で乗りこんで来た。その後に彼の取り巻き連中がつづく。皆くちぐちにローアン大司教を誉め、今日のお召し物はいつにも増してお似合いですとか、転びそうもないところで、足元にお気をつけ下さいと、わざわざ先ぶれするかの如く振舞う者ありで、下にも置かない気の使いようだった。
営業スマイルを欠かさないが、ジャンヌは内心苦々しく思っていただろうし、アランなどは横を向いてあからさまに嫌そうな顔をしていた。それでも終始、優良な客として振舞ってくれたため、オスカルは操縦に専念することができたし、ニコルは多少認識を改めたようだった。

ところが。
復路は搭乗時点からトラブルつづきだった。
まず出発予定時刻の13:45を過ぎても当の本人が姿を見せない。ようやく現われた時は既に14時を回っており、しかも行きとは正反対で始めから不機嫌そうな顔をしていた。
「全く、サヴァランのやつめ!何が『聖職者にしては華美にすぎませんか』だ!皆の面前で恥をかかせおって……!!」
辺りもはばからずブツブツと文句を言っている。どうやら集会でおもしろくないことがあったらしい。取り巻き連中がいくらご機嫌を取ろうとしても、大司教の怒りは収まらないようだった。
やっと乗客が乗り込み、クリアランス(離陸許可)が出たのが14:25、離陸できたのが、予定より約50分遅れの14:34だった。
機は39,000mまで上昇し、水平飛行に入った。オートパイロット・システムに切りかえると、オスカルはほっと一息ついて、先ほどから気になっていたキャビンの様子をモニターで確かめた。見ると、何やらもめているようである。ラウンジにいる大司教が嫌がるニコルの腕をつかんで引き寄せようとしている。ジャンヌが何とか他に注意を逸らそうとしているが、大司教の乱行ぶりは一向に収まる気配がない。もちろん、すぐ傍にいる太鼓持ち達は、なすがままにと眺めているだけで止めに入るはずもない。
キャビンについては客室乗務員ができるかぎり対応することになっているが、暴力などの重大なトラブルが起きた場合は、機長以下の操縦士も対応するようにマニュアルができている。オスカルは介入すべき時だと判断した。自身も女の身ではあるが、小さい頃から父に武道を仕込まれており、いざとなれば鍛えてもいない男の一人や二人、簡単にいなす自信があった。
アランにコックピットを任せ、何かあったらすぐに連絡するようにと注意する。
へーい、わかりました、とふざけた返事が返って来たが、いざとなったら、十分な対応をしてくれると信じているから、オスカルは安心して席を空けられる。出発前の打ち合せで気圧の谷を通過するため、弱い揺れが予想されるという報告を受けていたので、念の為シートベルトの着用サインは点灯させたままにした。

オスカルがキャビンに入ると、ニコルが大司教の横に座らされていた。ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべながら、大司教は右手を彼女の太股に置いている。ニコルは作り笑いを浮かべつつも顔はひきつっており、オスカルが姿を現すと、"助けてください"と目で訴えた。
「ローアン大司教閣下」
オスカルの声が室内に響く。出発前からアルコールを注文していたようで、もうかなり酔っているのだろうか。赤ら顔をますます赤くし、淀んだ目をして声の主の方を見た。
「少々おふざけが過ぎていらっしゃるようですが、場所柄をわきまえていただきたい。ニコル、君はいいから、閣下に冷たい飲み物でもいれて差し上げてくれ」
助け舟を出されてニコルはさっと立ちあがると、ギャレーの方に足早に逃げ去った。
「この…っパイロットごときが生意気な口を…!」
幼い頃から自分の行動をたしなめる者などほとんどいなかった大司教は、シートベルトを外し、オスカルにつかみかかろうとした。オスカルがそれを素早くかわすと、彼女が追い討ちをかけるまでもなく、大司教は自身の体重でバランスを崩して向かいのソファに倒れ込んでしまった。
「閣下!」
慌てたおつきの者達が一斉に声を上げた瞬間だった。

ガクンと体に大きな衝撃を感じたと思うと、一瞬床に押しつけられるように重力がかかった。すぐに反動で体が天井に向かって放り投げられるように強い力がかかり、ジェットコースターが頂上から下降する時のような悲鳴があがる。
立っていたジャンヌもオスカルもとっさに椅子につかまり、体をもっていかれないようにしたが、転倒していたローアン大司教が投げ出されそうになったのを庇おうとしたオスカルが、重い肉の塊と壁に挟まるような形になって叩きつけられてしまった。


時間にしてみればわずか一秒前後のことだったが、遭遇した者達にとっては数秒にも十数秒にも感じられただろう。
左肩を押さえながら立ちあがったオスカルが、すぐに乗客と乗務員の安否を確認する。シートベルトを締めていたため乗客は全員無傷で、転倒した大司教にも怪我はなかった。
ジャンヌは額を押さえているが大丈夫そうだ。ギャレーに駆けこむと、ニコルが床に倒れて気を失っていた。頭を揺らさないようにしてジャンヌと二人で乗務員用の仮眠室へ運びベッドに横にすると、うめき声をあげてうっすら目を開けた。頭を少し打ったようだが、意識ははっきりしているようだった。ただ腰と左手首、左足がひどく痛むと言う。検査してみなければ何とも言えないが、場合によると骨折しているかもしれない。彼女をベッドに固定した後、2人はキャビンに戻った。
乗客達は恐怖のあまりにうろたえて、機長に説明を求めてきた。オスカルが落ちついた声で答える。
「大変失礼いたしました。ただ今キャビンにおりましたため、まだ詳しいことはわかりませんが気流の乱れに遭遇したと思われます。現在は揺れもありませんし順調に飛行しておりますので、どうぞご安心下さい。これから戻って状況を確認いたしましたら、あらためてご報告いたします」
そう言って優雅に一礼し、ジャンヌに目配せしてからコックピットに戻って行った。

コックピットではアランが左側の機長席に座っていた。
「アラン、状況の報告を」
オスカルが声をかけると、アランは少し青ざめた顔で立ちあがり、自分の席に戻って、オスカルがシートに座るのを確認してから状況報告を始めた。
「先ほど機長がキャビンに行ってから間もなく大きな揺れがありました。目視でもレーダーのエコーにも、原因になるような雲も気象条件も確認できませんでした。すぐに手動に切り換えて高度とバランスを調整して、現在は再びオートパイロット・システムに移行させました。管制には報告済みですが……」
語尾が弱々しく終わる。乱気流を回避できなかった責任を感じていたためと、きっとオスカルに強く叱責されるに違いないと思っていたからだった。だが、
「よくやった。完璧な対応をしてくれた。おかげで失速を免れたよ」
返って来たのは意外にも誉め言葉だった。
「で、でも回避することができずに乗客を危険にさらしてしまいました」
アランが言うと、オスカルは馬鹿を言うなという顔をして答えた。
「確かに回避義務はあるが、晴天下での乱気流の発生はベテランのパイロットでも予測が非常に難しい。私がここにいても避けられたかどうか」
アランが目を丸くして彼女の顔をしげしげと見つめる。オスカルはもう機体に損傷がないか中央のディスプレイの表示を切り換えてチェックを始めていた。

てきぱきと次の行動に移っている彼女の姿を目で追いながらアランは思った。教習の際、嫌になるほど厳しいことを言われ続けたが、思い返してみると、言葉はきつい上に、小さなミスまでいちいち注意されたものの、理不尽な叱られ方は一度もされたことがなかった。
ぼんやりと自分を見つめているアランに気がつき、オスカルが緊張した声で指示を出す。
「何をぼやぼやしている!まだ全てが終わったわけではないぞ。ニコルが負傷した。空港に救急車を待機させるよう、社に連絡を取ってくれ」
我に返ったアランは、急いで自社の周波数に無線を切りかえるとオスカルの指示を伝えた。

連絡を取り終えたアランがオスカルを見ると、ディスプレイ画面を見つめる表情が、先ほどより険しくなっていた。声をかけると、
「前輪と主脚、両方ハザードが出ている。アラン、出るかどうか試してくれ」
アランが早速試してみるが、車輪はオスカルの言うとおり正常に作動しなかった。
「では、手動に切り換えてみてくれ。やってみる」
オスカルは冷静に素早く次の手順を試してみる。促されたアランが手動操作に切り替えると、オスカルがレバーを引いた。
「主脚は出ましたが、前輪はだめです!」
アランが悲喜双方のこもった声でモニター結果を報告する。
「だめか…。よし。では、管制にその旨連絡してくれ。胴体着陸の可能性があると」

緊急事態の報告を受けた管制からの指示で、機は目的地を当初のシャルル・ド・ゴール空港からオルリー空港に変更した。あと30分ほどでパリ上空に到達する。オスカルは機内放送のスイッチを入れ、ジャンヌを呼び出した。
ジャンヌがコックピットにやって来ると、オスカルはまずキャビンの様子を尋ねた。オスカルの落ちついた話しぶりと誰にも怪我がなかったことで、今は落ちついているとのことだった。
少し安堵したオスカルだが、険しい表情を崩さずにジャンヌに尋ねた。
「実は前輪が出なくて胴体着陸の可能性がある。正確な状況を乗客にも話そうと思う。どうだ、やれるか?」
機長自らが再びキャビンに行って直接説明をするほどの余裕はない。だから非常事態を告げられた乗客を押さえきれるか?という問いかけだった。
ジャンヌはほんの一瞬不安そうな表情を見せたが、すぐにいつもの勝気な顔に戻って言った。
「そんなこともできなくてパーサーが務まるとでも?」
逆にオスカルを睨み返す。精一杯の虚勢かもしれなかったが、ジャンヌの態度にオスカルの表情が緩む。
では頼んだと、オスカルに言われてジャンヌがコックピットとキャビンの間を仕切る扉をくぐり抜けようとしたその時、
「信頼している」
ジャンヌの背中で、思わず本音をもらしたかのようなオスカルの声がした。ジャンヌは振りかえりもしないまま扉をくぐったが、ドアを閉めると、しばしその前でたたずみ、
「……だから、だから、あたしはあんたが大嫌いなんだよ…。あんたのそういうところがさ」
小さくつぶやきながら皮肉っぽく笑った。
ジャンヌが自分の持ち場に戻るとすぐに、機長から事態を説明する放送が流れた。


数十分後、9名を乗せた旅客機はオルリー空港上空に到着した。着陸の許可が出るまで上空を旋回しつづける。
しばらくアランが管制塔と何度か交信を行っていたが、機長と直接話したいと言うのでオスカルがアランと席をかわった。
「こちら、オルリー空港主任管制官のダグーです。A.R.1225便どうぞ」
「こちらA.R.1225便、機長のジャルジェです。どうぞ」
地上へ機体の様子を伝え、空港からも情報をもらう。その後、燃料や空港の受け入れ体制などを鑑みて、あと1時間このまま旋回をつづけ、それから着陸体制に入ることが決まった。
「…それでは、1時間後にタッチ・アンド・ゴーを一度試しましょう。それでも前輪が下りなかった場合は胴体着陸敢行します。なお、今後の交信は周波数364.5000MHzで固定して下さい。どうぞ」
「A.R.1225便、了解。それでは交信終了します」

ともかく1時間後が勝負だ。オスカルは力を抜いてシートに体を預けたが、そこで初めて自身の体の異変に気がついた。さきほど大司教をかばった時に打った左肩がおかしい。力を入れると痛みが走り、オスカルは顔をしかめた。隣のアランが心配そうにのぞき込んでいるのに気づく。
「どうした?」
オスカルが尋ねると、彼は不安を隠しきれずに、無事下りられるでしょうか、と言った。彼女の体のことは気づいていないようだ。
「機体はそれに耐えうるようにできている。教習で習っただろう?マニュアルどおりやれば大丈夫だ。幸い主脚は出ているのだし問題ない」
オスカルは微塵も心配な様子を見せないで答えたが、彼はすまなそうな顔をして聞く。
「俺みたいな新米がパートナーで、不安なのじゃないかと」
殊勝なことを言うな、お前らしくもないとオスカルが声をたてて笑った。
「私はすぐに実戦で通用しないような訓練をした覚えはないぞ。お前は十分にその資格を持っている。」
そう言って、今まで見たこともないような笑顔で艶然と笑ったので、アランは自分の今おかれている状況を一瞬忘れて、彼女の顔に見とれてしまうほどだった。

アランには自信たっぷりなところを見せたが、オスカルにも不安がないわけではなかった。彼に言ったことは本当だが、過去に失敗して大惨事になった例もいくつかある。
ジェット機は着陸時でも250km/h以上のスピードが出ている。1秒判断を誤れば70mも進んでしまう計算だ。ましてやオスカル達が搭乗している機体は、ジェット機の中でもかなりの大型である。着陸後、うまくスピードを殺せるかどうか。無事に下りられるという保証はない。

"保証はない……か"
オスカルがふと思い出す。数日前にアンドレが言っていた言葉を。
彼の明日に保証がないかわりに、自分だって今日生き延びられる保証はないのだ。それでも彼はいっしょにいたいと言った。自分はどうなのだろう…?
そこまで考えて首を振った。今はプライベートな感傷に浸っている場合ではない。そう思って彼の面影を必死に頭から追い出した。


予定の1時間が過ぎる頃、再び管制塔から交信が入った。5分後に、10分間空港を封鎖して着陸を行うという。燃料は残り少ない。もう後には引けない。
いよいよとなると、さすがのオスカルも内心プレッシャーを感じた。機長として全責任を負わなければならないことに押しつぶされそうになる。それを表には出せないだけに、重圧は余計にのしかかる。左肩の痛みもじわじわと強くなってきている気がする。だが、いくら優秀でも初フライトのアランに操縦を代わってもらうわけにもいかない。

本当は誰かにそばで支えていてほしい。こんな時にそばにいてほしいのは………。
先ほどようやく心の中から追い出した黒い瞳が、また脳裏をかすめた。だがここに彼はいない。弱気になってどうする、と自分を叱った。ここは自分一人で乗りきるしかないのだと覚悟を決める。

オスカルに、ほんの少しの甘えさえ許さないかのように、容赦なく次の交信が入った。
「…実は、機長にだけお伝えしたいことがあるのですが。どうぞ」
アランを見ると、ディスプレイの確認をしていてヘッドホンは外している状態だった。
「大丈夫です。どうぞ」
ダグー管制官の言葉にオスカルの緊張はいやがうえにも高まる。内密に機長だけに伝えておきたいこととは、いったい何なのか。

「アンドレ・グランディエ氏から」
突然アンドレの名前が出て、オスカルは驚いた。さきほどまでの自分の心を見透かされたのかと、そんなわけがあるはずもないのに冷や汗が出る。息をつめながら、管制官の次の言葉を待った。
「伝言です。長くてもいいと言ったんですが。ひとことだけ……"ただ、愛していると伝えてほしい"……と。どうぞ」
オスカルは咄嗟に言葉が出なかった。
なぜ、管制官の口からアンドレの言葉が伝えられたのか、その時の彼女にはわからなかったが、理由などはどうでもよかった。
操縦桿を握る自分の手に、微笑んだアンドレが彼の手を添えていてくれるように感じた。
ふいにオスカルの肩から余計な力が抜けていく。
「りょ、了解した」
動揺しながらも、ようやくそう返すと、
「無事帰って来て、直接言ってあげて下さい。では交信終了します」
プツリとマイクを切る音がした後は、ザーザーという雑音だけが耳に届いた。耳に残るのはアンドレからの言葉だけだった。

ヘッドフォンから聞こえる意味のないノイズを聞きながら、オスカルは、ただひとつのことだけを思った。

かえろう、かえろう。彼の元へ帰ろう………。




(つづく)


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