注)第2パラグラフに、J×Oが多少絡むシーンがございますので、苦手な方はお読みにならないようお願い申し上げます。



アンドレと苦い別れ方をしてから2日というもの、ずっと家に引きこもっていたオスカルだったが、3日目には勤務が待っていた。
フライトに備え、シャルル・ド・ゴール空港の運行管理者と飛行計画について打ち合せをした後、乗務員専用ラウンジの皮張りのソファで濃いめにいれたカフェを飲みながら、一人これまでのことを振りかえった。
ラウンジは外光を取り入れる窓が小さく設計されており、照明がやや暗めに落としてある。フライト前の緊張をやわらげ、かつ集中力を高めるために東洋から取り寄せた香がかすかにたかれていた。何かを考えるにはよい場所だった。
アンドレの作品に妙にひきつけられたこと、夢の映像、彼の部屋で見たイメージ……。夢の自分と彼によく似た男。そして、自分を力づくで自由にしようとしたアンドレ。
考えれば考えるほど、自分の心の在り処が見えなくなって、彼への気持ちが誰のものなのかすら曖昧になっていく。
一人でいると出口のない思考の迷路をさまようばかりで果てしなく落ちこんでいくから、むしろこうして仕事が控えていたのをありがたい思うくらいだった。これで自分をかろうじて律することができる。


「オスカル、これからフライトですか」
よく透る落ちついた声で呼びかけられた。ジェローデルだった。
「ジェローデルもか?」
ジェローデルがオスカルの横に当たり前のように座る。ラウンジには今、2人しかいない。オスカルは多少の気まずさを感じたが、急に席を立つわけにもいかず、当り障りのない会話でやりごそうと思った。やおらジェローデルが言う。
「来月から機長に昇格することが決まりました」
「それはおめでとう!よかったではないか。おまえの実力なら遅すぎるくらいだ」
オスカルが心からの祝いの言葉を贈る。
「でも、貴女と組むことがなくなるのだと思うと残念です」
何を言っている…と言いかけたところで、ジェローデルがオスカルの言葉を遮って言った。
「オスカル、私とのことは考えていただけましたか?」
あまりに真剣な眼差しに、オスカルは目を逸らすことができなかった。常に感情を表に出さないはずのその瞳が、今だけは彼女に向けた愛情の強さで揺らいでいた。
「ジェローデル、すまない……。私には」
そう言って目を伏せた時、男は彼女の手に触れて言った。
「貴女の心が他にあっても、今は構いません。私には貴女を幸せにする自信がある。いくらでも待ちましょう。私を愛して下さるまで」
触れた手を引き寄せ、甲に自分の唇を押し当てた。
オスカルが手を振りほどこうとしないので、ジェローデルは彼女の背中に腕を回して抱き寄せた。それでもオスカルは男の腕の中でおとなしくしている。
しばらく彼女を包み込むように抱いていたが、やがてオスカルの顔を優しく上げさせると、男は彼女の紅くやわらかな唇にくちづけようと顔を寄せた。

だが唇が触れ合おうとした瞬間、オスカルは顔をそむけ、ジェローデルの顔に手をかざして制止した。
「もうブリーフィングの時間だ」
男の腕の中からするりと身をかわすと、逃げるように廊下へ飛び出した。


やはりジェローデルを受け入れる気持ちにはならない。
あんなに乱暴に扱われても、アンドレを疎ましく思うことができないから。だけど……。
また同じところをぐるぐると巡って、まだ辿りつくべき場所が見つからない。
オスカルはそのまま乗務員のブリーフィングルームに行くと、ドアを開ける前に一つ深呼吸をして気持ちを切り換えた。
ドアノブを回して、ドアを開けた瞬間にはもう機長の顔になっていなければ。

ホワイトボードやPCの備え付けられた無機質なオフィスといった感じの部屋の中央には円卓があって、その上には先ほどオスカルが確認して署名したばかりのフライトプランやルート上の気象データなどが乗員の人数分コピーしてあり、周りには3人の人物が座っていた。
今回キャビンのチーフとして乗り込むジャンヌと、その後輩のニコル・オリバ。そして今回副操縦士を務めるアラン・ド・ソワソンだった。

資料に基づき一通り説明を終えると、オスカルは質問がないかどうか、3人に確認した。
「はーい。機長殿、確認したいことがありますです」
アランが仰々しく手をあげて発言してもよいか尋ねた。オスカルが促すと、
「パリからニースまでのこんな短距離に、全長41メートルもあるビジネスジェットを借りきるお客って誰すか?」
ブリーフィングの内容とは関係のない質問にオスカルの眉がぴくりと上がる。ジャンヌは忍び笑いを押し殺している。
「そんなことは運行には関係ないだろう」
軽くいなしたが、ジャンヌがアランに加勢して、
「あら、少なくともあたしたち客室乗務員には大いに関係があるのじゃなくて?」
目配せするアランとジャンヌの間に挟まれて、ニコルがおろおろしている。
「ローアン大司教以下、6名だ」
仕方なくオスカルが答える。どうせ乗り込むときにはわかってしまうことだ。
「えーっ私、あの方苦手ですぅ。この間もお尻を触られて……」
名前を聞いてニコルが抗議の声をあげる。
「その件については、ちゃんと上にあげておいたから、今回は行動をあらためてくれると思う」
オスカルがきっぱりと言いきる。だが、ニコルが嫌がるのも無理はないと彼女は思った。
およそ社交界はゴシップ好きな連中が多いから、悪い噂ほど広がるものだが、良い噂がひとつもないという人間も珍しい。だが、それがローアン大司教だった。女性にだらしなくてトラブルが絶えないばかりでなく、実家がフランス屈指の資産家であるために、贅沢三昧で、今の地位も金で買ったと言われているほどだ。
それに、ニコル以上にジャンヌは大司教のことを反吐が出るほど嫌っているのを知っていた。
幼い頃に父と母をあいついで病気でなくしたため、苦学してやっと今の仕事に就くことができた彼女は、学費をかせぐために夜の仕事をしていたこともあるという。妹であるロザリーの生活の面倒も自分で見ていたらしい。だから生まれながらの環境にあぐらをかいている連中が大嫌いなのだ。苦労知らずで今の地位にやすやすとついたと思っているオスカルに対してもよい感情を持っていない。
だからと言って仕事で手抜きをしたり、少なくとも私情を持ちこんだりしないし、それに何といっても仕事ぶりは完璧で、いざという時の度胸も申し分のないものを持っているから、嫌な客でもそれなりにうまくあしらってくれるだろう。
問題はむしろニコルの方だった。容姿は抜群で性格も優しいのでお客の評判は上々だ。客の方から指名がかかることもある。ただ、おっとりしているというか、どうも判断力や行動力に欠けるところがあり、さきほどはあのように言って安心させたものの、内心、機長として小さなトラブルは想定しておかなければとオスカルは思っていた。

「他に質問は?」
それ以上は質問がなかったので散会になり、30分後に搭乗口に集るように指示を出した。出て行こうとするアランにオスカルが声をかける。
「どうだ?訓練を終えての初飛行前の気分は」
「どうってことないっす……。訓練で何度も飛んでますしね。でも、ようやくあんたの顔を見ないですむと思ったのに」
彼はオスカルの方をちらりと見ると、不機嫌そうに返事をした。
「ネクタイはもっときちんと結びたまえ」
オスカルが注意すると、うるせえなと言わんばかりの一瞥をなげかけながら、軽くネクタイを直す手つきをした後、ドアも閉めずに出ていった。

今回のフライトにアランを副操縦士として指名したのはオスカルだった。飛行距離が短いし、ルートに難所もない。初実務としてはもってこいのフライトだと判断したからだ。
アランは自社で養成したパイロットだったが、飛行訓練はほどんどオスカルが教官として行っていた。そのため最後の仕上げとして実務につくところまで見守ってやりたかったのだが、アランとしてはそれが気にくわない。
オスカルは、負けず嫌いの彼の気質を見ぬいて徹底的に厳しくしごいた。気の弱い人間だったら辞めてしまいたくなるようなキツイことをあえて言ったこともある。すると次回までに驚くほど成長して戻ってくる。オスカルが憎まれれば憎まれるほど、彼は成長していった。
もちろんそんな彼女の心をアランは知るよしもない。

彼女は仕方がないなとあきらめた様子でさびしく笑った。

ベスト・コンディションでないオスカルにとっては、今回のクルーは少々重荷と言えなくもなかった。
だが、パリからニースまではわずか1時間半ほどのフライトだ。難しいコースでもないと自分に言い聞かせるように復唱する。
あちらに3日待機して大司教の用事が済むのを待ち、またパリに戻って来るだけの、オスカルにとっては容易いフライトになるはずだった。




(つづく)


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