埋み火 1775 -4-



正面の玄関ホールを抜け、おれはオスカルの部屋に向かった。階段を駆け上がると、彼女の部屋の前に立つ。しばし躊躇ったあとで、思い切ってノックした。だが反応はない。
もう一度ノックして様子を窺ったが、部屋の中ではコトリとも音がしない。
「あら、アンドレ」廊下を通りがかった彼女の侍女が、気づいて声をかけてくれた。「オスカルさまなら、奥様のオランジュリーにいらっしゃるわよ。さっき、お茶をお運びしたの」
「ありがとう、宮殿から使いが来てね。耳に入れておこうと思って」
使いの用向きは、今夜、ジャルジェ夫人は屋敷に戻らず、宮殿に泊まるという伝言をオスカルに伝えてほしいという、さほど重要ではないものだった。緊急を要することではなかったので、すぐに彼女に伝える必要はない。だが、「用がなければ来るな」ということは、たとえそれが、どんなに些細なことでも、「用がある時は行ってもよい」ということになる。
おれは上って来た階段を下りると、再び玄関ホールを先ほどとは反対の方に横切って、ドローイング・ルームを抜け、ミュージック・ルームの脇を通って、屋敷の南側に張り出したオランジュリーへとつづく扉を開けた。

一歩入ると、温室内は冬が近づいている外気に比べて、かなり温かかった。真夏とまではいかないが、まだ初夏に慣れていない体が汗ばむ時の陽気を思わせる。
庭師の管理の下、ほぼ一定に保たれた温度と湿度。宮殿にあるものと比べたら、ずっと小規模だが、ジャルジェ家のオランジュリーもなかなか立派なもので、高価なガラスが、採光のために丸天井の一部と南側の壁一面に贅沢に使われている。窓の近くの床には棘の生えた肉厚の奇妙な植物が植えられた鉢が数個置いてあった。これは、庭師の個人的な趣味で育てていると聞いている。
そこここにある、巨大な素焼きの鉢に植えられた植物の、その生命力にあふれた緑の葉に視界を遮られる。ヨーロッパ北部では自然に生育しない植物や、季節外れに実をつけさせるために植えられた果樹たち。ここでは十数種類の果樹を育てていて、珍しい果実は賓客が訪れると食卓に饗される。
遠い南の国には、こんな森があって、一年中果物の実る木が生い茂り、野生の猿が枝から枝へと渡って鳴きかわし、実を頬張る光景が見られるそうだ。もちろん、この目で見たことはないが。
温室のガラスの丸天井の下には、主一家がくつろいだり、客とお茶を楽しんだりするためのダイニング・セットが設えられてあった。オスカルはそこにいるはずだと見当をつけ、温室の中央を目指した。
棕櫚の木の鉢を回り込むと、陽光を受けた金の髪が見えた。心臓が一つ、どくんと大きく脈打った。まだ半日ほどしか離れていないというのに、ここから見える白皙の横顔に、懐かしささえ感じてしまう。わずか半日で、そんな気持ちになるなんて、誰かに話したら笑われてしまうだろう。でも、この気持ちは止められない。
彼女はソファに座り、いくつか重ねたクッションに物憂げによりかかって、何かをじっと見つめていた。読書に集中しているのかもしれないが、思い切って声をかけて近づく。
「オスカル」
彼女は体を横たえたままだったが、弾かれたように、こちらを見る。
「宮殿から使いが来て。奥さまは今夜お戻りになられないそうだ」
おれが言うと、彼女は目を逸らして抑揚のない声で言った。
「なんだ、そんなこと……。後でもいいのに」
彼女の声には多少の怒気が感じられたが、それは予想していなかった侵入者に驚いたためで、怒っているわけではないようだった。おれは内心胸をなでおろす。しかし、自分を見ようともしない彼女の態度は相変わらず頑なで素っ気ない。
「よ、用件が済んだら、出て行け」
言われるままに、そのまま出て行こうとすると、オスカルは抱えていた物をぎゅっと抱きしめた。詰め物がしっかりと詰まった、ふっくらとしたクッションか枕のようなものだ。
「それ……」
指さすと、オスカルの体がぴくりと動いた。よくよく見ると、そこにプリントしてある絵柄が、あの夜――先日の晩餐会で、老獪な商人が見せた見本帳にあった布とデザインの特徴が似ていることに気づく。
青白磁色の地に、濃いグレーで人物とそれを囲む植物のモチーフが精密に描かれている。四角や丸をブルーで染め上げた枠の中でポーズを取っている女性は、服装からギリシャ神話の女神だと分かり、背中に羽の生えたアモールを伴っているところから、アフロディーテだろうと推察された。
「それ、ジュイ村の……」
「そうだ、だから何だ?」彼女は、おまえには関係ないだろうとばかりに声を荒げる。「私が好きで頼んだのではないぞ。クロティルド姉上から頼まれたのだ。取り寄せてほしいと。ベルサイユの貴婦人の間で近頃、人気だそうだな」
言い終えた彼女の顔は少し上気して見えた。
「そうか、クロティルドさまが」
それ以上、おれには何も言えなかった。これ以上、この話題をつづければ、かえってやぶ蛇になる。なぜジュイ村の工場で作られたものだと、おれが知っているのか。結婚話のことは、まだ彼女に知られたくなかった。
重苦しい沈黙。何か話せたらいいのに。二人の間にこんな空気が流れることは、滅多にないことだった。
「きっと、これから右肩上がりに売上げが伸びるに違いない。楽しみなことだな、アンドレ」
「え?」
布が売れることと、おれとの間に何の関係があるというのか。初めは全く理解できなかった。トワルドジュイを取り寄せた彼女、それを生産しているオーベルカンプの妹との縁談、今の彼女の言葉……まさか。
「おまえ、知っているのか?」
このまま話が進めば、遅かれ早かれオスカルの耳に入る話だ。祖母にも縁談を受けてもいいと言ってしまった。なのに、この話が彼女に知られる前に消えて無くなってしまっていたらいいのにと、どこかで思っている自分がいた。
「結婚……」オスカルがか細い声で呟いた。「……するのか?」
いつも強気で、剣では並み居る男を打ち負かし、隊長として号令をかける声は凛として力強くて。それが、かつて聞いたことがないほどに儚い声をして。
彼女がおれを見る。すがるような色が青い瞳に浮かんでいるのを、彼女自身気づいていただろうか。
「なぜ、それを?おばあちゃんから聞いたのか?」
「いや、ばあやからではない。おまえたちが廊下で話しているのが耳に入った」
あの時から、既に。
確かに彼女の様子がおかしいと気づいたのは、初めて縁談のことを聞いた日の翌日だった。
「追加の指令を伝えようと、おまえを追ったら勝手に聞えて来たんだ!コソコソしているわりには、おまえの声はバカでかかったしな!」
喚いたオスカルの頬に赤みが増す。
“一人でも大丈夫”などと言いながら、自分を遠ざけ始めたのは、そのせいだったのかと思うと、胸に小さく喜びが灯ってしまう。知らないふりを演じつつ、距離を置こうと意地を張っていた彼女が愛おしい。オスカルも、二人が離れ離れになることを寂しいと感じていてくれた。そう思うと、嬉しさと同時に愛しさが湧きあがってくる。たとえ、その寂しさが、自分と同じ種類の慕情でなかったとしても――。
「オスカル、おれは結婚……」
ポツリとそこまで言うと、オスカルはおれを睨みつけた。形のよい眉が逆立ち、青い瞳が少し潤んで熱を帯びた。
「結婚、すればいいだろう。いつまでもわたしのお守りなどしていても、おまえの得にはならん。自由になって、インドでもどこにでも行ってしまえばよい!」
彼女はそう吐き捨てると、ソファから立ち上がった。膝に乗せていたクッションがころりと床に落ちる。
「オスカル、だから、おれは……!」
出て行こうとする彼女の二の腕を、おれは両手で思わず掴んだ。目と目が合う。オスカルが振りほどこうとするので、さらに力を込めて引き寄せる。オスカルは顔をそむけると小さく言った。
「は…はなせ」
いつもと違う力のない声に、おれは手の力を緩める。しかし、手を離したと同時に彼女が膝から崩れ落ちた。反射的に抱き留める。
「オスカル!」
ブラウス一枚だけの体は軍服を身に付けている時より、ずっと華奢に見える。触れると思ったとおり、やわらかかった。薄い絹地を通して体温が伝わって来る。腕の中の彼女の体は熱かった。呼吸も荒くなり、抱きかかえたおれの腕の中で力が抜けていくのが分かる。
「大丈夫だ、はなせ……」
彼女はそう言ったが、一人で立つ力も残っていないようだった。体を預けて苦しそうに喘いでいる。先ほどから顔が赤いと思っていたが、室温が高いせいだと勘違いしていた。額に手を当てる。まちがいない、かなりの高熱だ。
そういえば、数日前に咳込んでいて、あの大尉も気にかけていた。いつもなら、こんなにひどくなる前に気付けているはずなのに。
「大丈夫なものか、ここのところ無理をしていたから。おばあちゃん、おばあちゃん、来てくれ!オスカルが……!」
オスカルを横抱きにすると、祖母に助けを求めながら温室を出た。
すぐに声を聞きつけ、祖母や侍女たちが駆け付けてくれた。おれはオスカルの寝室に彼女を運ぶと、そっと寝台の上に降ろした。意識が朦朧として、熱がさらに上がっているのか、オスカルの苦しそうな息遣いと寄せられた眉根が痛々しい。祖母は侍女たちにてきぱきと適切な指示を与え、侍女たちが慌ただしく立ち働いている中、おれはただ、寝台の傍らでオスカルを見下ろして立っていた。
「アンドレ、いつまでも男がお嬢様の寝室にいるもんじゃないよ、出て行っておくれ」
祖母は薬湯を作りに厨房に向かおうとしているところだった。おれは、ゆっくりと祖母の方へ向き直る。
「おばあちゃん、あと少しだけ……。オスカルがおれを必要としなくなるまで……」
おれの手に、オスカルがしっかりと指を絡めていた。苦しさと痛みでうめく度に力がこもり、おれはその度に彼女の手を握り返す。自分には、それだけしかできなくても。
「そばに、いさせてくれないかな……。あと少しだけ……少しだけでいいから」
「……そうだね、そうして差し上げたらいいよ」
祖母は反対はしなかった。低い鼻にちょこんと乗せられている眼鏡の位置を直す。目に光るものが浮かんでいたような気もしたが、気のせいだったかもしれない。

侍女たちもたまたま出はらい、つかの間、部屋に二人だけ取り残された。辛そうに顔をしかめ、意識がはっきりしない中で、オスカルの赤い唇が確かに形づくった。
“アンドレ、アンドレ……”と。
何度も何度も繰り返し、うわ言で自分の名を、確かに彼女は呼んだ。
「大丈夫だ、オスカル、そばにいるから」
オスカルの手を強く握ると、弱った体とは思えない力で、彼女は手を握り返して来た。
”いかないで”
そう、かすかに言ってくれたように思ったのは、自分の願望も入っていたかもしれない。
彼女と結婚できるとなどとは思っていない。自分のものに出来ることも決してないだろう。それでも、オスカルへの断ち切りがたい思慕を、燃え上がりそうな想いを、幾度も幾度も果てしなく掻き消しながら、それでも消えない炎を抱えて、自分はただ傍にいるしかない。
そっと、少し汗ばんだ額にかかった金糸の前髪をはらった。指がオスカルの頬に吸い寄せられていく――。


侍女が戻り、祖母も薬湯を持って帰って来ると、おれは彼女の手をできるだけ優しく解いて、彼女の私室を後にした。手の中には、まだ彼女のぬくもりが残っていた。


オスカルの体調は3日もたつとすっかりよくなった。往診に来てもらった医師の見立てでは、風邪と過労が原因だろうとのことで、それを聞いた王妃から一週間は自宅で療養するよう厳命が下り、おかげでゆっくりと屋敷で休養を取ることができた。彼女が動けるようになった頃、入れ替わりでおれは風邪を引いてしまい、しばらくベッドで過ごしたのだが、休暇が明ける前には回復して、今日はオスカルと遠乗りにでかける約束をした。明日からは、また軍隊での生活が待っている。
愛馬にまたがるオスカルは、すっかり元気を取り戻していた。手綱を巧みに操り、久々の乗馬の感覚を楽しむ彼女に目を細める。
急に鼻がむずむずとして来て、一つ大きなくしゃみをする。
「誰か、おれの噂でもしているのかな」
鼻を手の甲でこすってみせると、彼女が皮肉っぽく言った。
「例の娘かもな。まだおまえに未練があるのかもしれぬ」
オスカルが臥せっている間に、祖母はオーベルカンプに正式に断りを入れた。結局、縁談相手の娘と再会することはないまま、結婚話は流れてしまった。会ってから断れば、相手を余計に深く傷つけることになっただろう。会ってみて、相手がどれほど美しく、気立てのよいことがわかっても、自分の心が動くとは、やはり思えなかった。
「おれなんかより、ずっといい男と結婚して、幸せになるさ」
その言葉通り、数年後、娘は腕のよい職人と結婚して子供にも恵まれたと風の噂に聞くことになる。オーベルカンプは順調に商売を拡大して、1783年にはルイ16世より王立工場の称号を賜る。

「おまえほどの……」オスカルがふっと視線を外す。「いや、何でもない……。――花、すっかり散ってしまったな」
彼女が見上げた先には、あのオレンジ色の小さな花の木があった。今は常緑の葉だけを茂らせて立っている。
「また、来年も咲くかな……。そして……またその次の年も」
その言葉に、おれは深く頷く。
「ああ、もちろんだ。きっと、来年も、そのまた次の年も、ずっと……」

「しばらく休んで体がなまった。宮殿まで早駆けするぞ!ついて来られるか、アンドレ」
「おい、ちょっと待てよ、オスカル!」
愛馬の脇腹を蹴ったオスカルを、おれは急いで追いかけた。


馬の腹を蹴って速度を上げる。オスカルとの距離がぐんと縮まる。彼女の背中で豊かなブロンドの髪が風になびいている。
“このまま、ずっと彼女の背中を追いかけていくのだろう。何があろうとおれは。きっと、いつまでも――”

空には、羊雲がいくつも浮かんでいる。秋晴れの下を、二人で風を切って走りぬけていった。



(了)





<<PREV.                     dummy