埋み火 1775 -3- |
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使用人棟が見える裏庭の、崩れかけた石組みの上に腰かけ、ぼんやりと空を見上げている。澄んだ空には、魚の鱗を思わせる雲が広がっている。 「いい天気だな…」 そう呟くと、おれは石組みから欠け落ちた小石を拾い上げて、ぽんと地面に放り投げた。 厨房の窓から、オスカルの遅い朝食の片付けに忙しく動き回っている台所付きのメイドたちの姿が見えた。もう正午はとっくに過ぎている。それが終われば、晩餐の下準備が始まり、わずかな休憩時間を挟みながら、使用人は夜遅くまで立ち働く毎日だ。 今日は久しぶりの休暇で、オスカルは、いつもよりだいぶ寝坊して起きて来た。将軍と夫人は出仕しているので、食事時間も気ままにできた。 昨夜、おれは彼女から、こう言い渡されていた。 「久しぶりに一人でのんびりとしたい。―…用が無ければ部屋に来ないように」 ここ数日、遠ざけられているように思う。気のせいではない。いつものように、いけすかない貴族たちへの皮肉を耳元で囁こうとすれば、すっと体を離される。必要以上に口をきかないし、目も合わせない……そして、自分を呼ばない。 用があればすぐに、そして用がなかったとしても、彼女は気軽に自分を呼びつけるのが、当たり前の日常だったというのに。 昨夜は帰宅すると、出入りの小間物商が呼ばれており、早々に「もう休んでよい」と命じられて遠ざけられた。おまけに、「用がなければ…」と言われてしまったから、それから顔を合わせていない。 早めに勤めから戻った夜は、たいてい部屋に呼ばれて、彼女のバイオリンの演奏を聴いたり、ワインを片手に政治の話から他愛のない噂話まで、とりとめのない会話を交わして就寝前の時間を過ごしていたというのに。特に昨夜のような休暇の前日は、深夜まで彼女の部屋にいることも珍しくなかった。 理由は何なのか、おれ自身は思い当たる節が全くないのだが、何か気に障ることでもしたのかと尋ねたくても、その隙すら与えてくれない。 “一人でも何とかなる” そう彼女は言った。 「おれは、もうお払い箱って……こと…なのかな」 何しろ、もともと生まれた階級が違いすぎる。自分は平民、彼女は大貴族の令嬢で、しかも、女ながらに、その継嗣だ。自分は、身分も財産も権力も、何も持っていない。それに比べ、彼女はその全てを生まれながらに約束されていて、今や近衛連隊長の地位も手に入れた。差は開く一方だ。 “いつまでも、お傍にいても……どうなるものでもないから” 毎日幾度も、その言葉が脳裏をよぎる。その度に胸が押しつぶされそうになった。息がつまる。肺の中にどず黒い水が浸入して、呼吸ができなくなったみたいだ。 祖母だけではなく彼女も、そろそろ自分と距離を置くべき時期だと、そう感じ始めているのだろうか……彼女の口からそう聞くまではと否定しても、気持ちは沈んでいくばかりだ。 これまで共に生きて来た十数年間。それは、いつか終わりが来るかもしれないのだと、嫌というほど自分に言い聞かせて来たつもりだった。だがいざ、それが現実になってみると、覚悟ができていなかったことに愕然とする。 一方で、そんな日はきっと来ないと、信じたがっていた自分がいた。 ぼんやりと一人物思いにふけっていたところに、バシンっと背中を叩かれた。驚いて振り向くと、祖母のマロン・グラッセが腰に手を当てて仁王立ちしていた。 「痛てて……っ、なんだよ、おばあちゃん」 藪から棒に叩かれて苦情を言っても、祖母は全くひるまない。 「この唐変木が。オスカルさまが出仕されないからって、従者がこんなところで油を売ってるなんて。こっちから御用がないか、聞きに伺うってもんが筋だろう!」 いつも通りの小言に安堵を感じながら、苦笑いを浮かべる。 「オスカルから、部屋に来るなと言われているから……」 それを聞いたおばあちゃんの顔が、少しきまり悪そうになったと思ったが、すぐにいつもの威勢のいい口調に戻る。 「おや、そうかい。ところでさ、この間の話、考えてみてくれたかい?」と。 おれさえその気ならば、即日にでも妹と会う場を設けよう、そんな風にオーベルカンプ氏は言っていると、間に立っている人間から伝えられたそうだ。 オスカルが自分を切り離そうとしているタイミングでの結婚話。符牒にも思われた。 自分でも思ってもみなかった言葉が口をつく。 「うん……考えてみるよ」 祖母の顔が一瞬で明るくなるのが分かった。孫がつつがなく結婚して、やがてひ孫が生まれて――そんな平民の身分でも許される幸せな未来が、ふっと浮かんだのかもしれなかった。 「そうかい、そうかい、それじゃ、明日にでもオーベルカンプさんの所に使いを出そうかね」 祖母は上機嫌で母屋に戻っていく。おれはまた一人、石組みの上に取り残された。勝手口から使用人たちが出入りしているのが見えた。何か大声で言いあっているが、自分の周囲はひどく静かだった。 “オスカル以外の女を、おれは愛せるのだろうか……” だが、そうならねばと、思いつめればつめるほど、彼女への想いは、どうしようもなく募っていくばかりだ。止めようがない。彼女がいない人生。どうやって生きていけばいいのか、微塵も想像できない。どうやったら、そんな人生を生きていけるのか――…。 目を固く閉じて、全く記憶に残っていないオーベルカンプ嬢の姿を思い描いてみる。だが、シルエットすら定かに浮かばない。必死に意識を集中して、ようやくぼんやりと浮かんだ女の姿が、ふいに鮮明になった。光を背景に女が振り返る。次第にあごの形と輪郭が見えて、額から目、そして鼻筋、やがて唇がはっきりしてくる。その笑顔は、幼い頃から知っている彼女の顔だった。はっと目を見開く。 目の前をトンボが泳ぐように通り過ぎ、ジェルブドール(セイタカアワダチソウ)の黄色い花の上に止まると、風にそよいでいるその先端で、しばらく共にゆらゆらと揺れた。ふいに飛び立って行った透明な羽の行方をしばらく目で追うが、すぐに見えなくなった。近づいてくる蹄の音が聞こえる。 自分の勝手な記憶の再生の中でさえ、彼女の笑顔はうっとりするほど、美しかった。 おうい、アンドレと、勝手口から顔を出した下男の少年が手を振った。「宮殿から使いが来ているよ」 朽ちかけた石垣からするりと降りると、急いで屋敷の正面に廻った。 宮殿や近衛隊からの連絡はすべて、従僕である自分を通してオスカルに伝えられることになっていた。 (つづく) |
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