オスカルが身につけた最初の衣装は、ぴったりとした黒い細身のパンツに薄紫色のブラウスだった。たっぷりと布を使った袖と襟は美しいドレープを描き、正装するほどではないちょっとした集まりに着て行けそうなコーディネイトだ。作中で青年実業家の友人のパーティーに、主人公二人が出席する場面があったから、その辺りをイメージしてのことだと思われた。アンドレの方は三つ揃いのスーツの上着を脱いだスラックスとベストの組み合わせで、同じ程度のドレス・コードが感じられたので、おそらく間違いない。
着替えて来た彼女が現れると、スタジオの全員の手が一瞬止まった。プロの手によってメイクを施された彼女は、生来の美しさがさらに輝きを増していた。美しい女性を見慣れているはずのスタッフたちでさえ、その存在感に目を奪われる。
「すごく、きれいだ。似合ってる」
アンドレが眩しそうに見ながら言ったが、オスカルは憮然としていて、誉められるとかえって顔を曇らせた。
衣装は彼女のもつムードにしっくり馴染んでいて、彼女のワードローブにあってもおかしくない服だった。しかも、オスカルのサイズにぴったりで、補正の必要もなく、体のラインが美しく見えた。フィッティングの後、鏡を見た彼女自身も満更ではない気になったのだが、すぐに、だからこそ、おかしいと気づく。
これではまるで、彼女のために用意されていたみたいではないか。
100パーセントとは言い切れないものの、やはりモデルなど手配していなくて、最初からオスカルを撮るつもりでいたのではという疑念は一層強まった。
「よかった。よく、似合っている」
つづけてグリマーニにも誉められる。
「ありがとうございます。用意して下さっていた衣装のテイストがたまたま、わたしにぴったりだったので」
再度嫌味を口にするが、グリマーニはどこ吹く風で聞き流し、撮影開始を号令する。瞬時にスタジオに緊張が走り、一流のスタッフたちが臨戦態勢に入った。
カメラの位置に向かうグリマーニとすれ違いざま、オスカルが彼にだけ聞こえる声で囁いた。
「もし、わたしが来なかったり、承諾しなかったら、どうするつもりだったのだ?撮影は中止、あちこちに迷惑をかけることになっただろう」
グリマーニは彼女の顔を見もしないで、しれっと言った。
「それだけ、あなたのことが撮りたかっただけのことですよ」


最初のシーンは、やはり、青年実業家主催のホームパーティーのエピソードだった。会場からこっそり抜け出した二人が、別室で語り合ううち、はっきりとは気持ちを言葉にしないまま、口づけを交わす寸前で、その男が二人を探しに来たため、何食わぬ顔で戻っていく下りだ。
実は、この二人の共通の友人である青年実業家が彼女に恋しており、あの手この手で二人の仲を邪魔しようと裏で画策するのだが、その展開を暗示するシーンともなっている。
窓からの外光を遮断した限られたライティングの中、まずは二人でソファに拳二つ分ほどの間を開けて腰かけさせられた。つかず離れずの微妙な位置だ。
絵コンテを元に、次々にグリマーニから指示が飛ぶ。お互いの距離から手の位置まで、かなり細かく指定された。二人にとって、こんな風に演技するのも、ここまで大がかりに大勢のスタッフに囲まれて写真を撮られるなどということも初めてだったから、細部にわたる指定はありがたいことだったが、指示通りに動くと、どうしてもぎこちなさが漂ってしまう。しかし、このシーンがお互いに意識していながら、幼なじみという関係が枷にもなって、想いを伝えることができないもどかしい距離感の頃の話だったことを思えば、その空気間は、むしろマッチしているといえた。このシーンを撮影の最初にもって来たのは、グリマーニの英断だった。









一通りほぼ絵コンテ通りに撮り終わると、次は衣装を替えてバルコニーでの撮影に移った。陶製タイル張りの広いバルコニーに置かれた白いテーブルに2脚の椅子。テーブルの上にはブランチに食べるような料理2皿と飲み物が置かれている。ここでもグリマーニの指示があったが、先ほどよりだいぶ自由度が増して、普段通りに振る舞ってくれればいいとのことだった。食事をし、それから並んでパリの街を見下ろし、手を絡めたり、互いの体に腕を回して軽く抱き合ったりと、数ショットを撮った。日常生活に近いシーンだったためか、二人の固さはかなりほぐれて、自然な動きができるようになっていく。それにつれて、シャッターが切られる回数も増えた。
何度か衣装を着替え、撮影はつつがなく進行した。すり硝子越しのショット、火の入った暖炉の前で寄り添う二人のショット、それからケンカの後を思わせる背中合わせに立つショット。
屋外に出ての撮影も数カット行った。撮影許可を取った花屋の店先で、オスカルに花束を差し出すアンドレ。別の男性と婚約中に、しばらく音信不通だった彼を見つけて、思わず運転手に車を止めさせると、駆け寄る彼女を演じるオスカル。
「おい、二人共、本当に素人なのか?」
撮影が進行するにつれ、スタッフの一人からそんな言葉が漏れた。二人の演技はとても自然で、息もぴったりだった。現実に恋人同士だということを差し引いても、現場が初めての素人にしてはフォトジェニックすぎる。グリマーニが要求する表情もきちんと表現できている。
撮影が進行するにつれ、オスカルの中には、あの本を読みながら作中の彼女と同化するほど感情移入していった時の気持ちが蘇った。そこに、今生では幼なじみではないものの、アンドレと友人とそれ以上の間をどっちつかずで彷徨っていた頃が重ねられる。同時に、過去での二人のこともオーバーラップして、ちくりと胸を刺す。この物語の結末が悲劇であったことと、過去の二人の短い蜜月が思い出されると、知らず知らずのうちに、どこか切なげな表情が生まれ、それが体の動きにも表れていった。
視線が指先が、彼を欲していると語る。
アンドレの方もそんな彼女に呼応する形で、喜怒哀楽の感情を引き出されていく。決して自分のものにならない彼女を目で追い、声を聞き、彼女の吐息を身近に感じるだけで、どれほど心が震えることか。

撮影も中盤に差し掛かると、オスカルの方から、グリマーニの演出に対して意見するようになったのも、スタッフが素人らしくないと感じた理由の一つだった。
グリマーニと自身の捉え方にズレがある時には、調整をするために、じっくり話し合いもする。あんなに嫌がっていたのにと、アンドレも驚くほどに。グリマーニの方も彼女とのやり取りを楽しんでいるようだった。両者共、普段から上流階級の人々と当たり前に接して、一流の品物に囲まれて生活しているからか、方向性は多少違っても磨かれたセンスは鋭い短刀のようで、意見を闘わせることで、作品の贅肉が削がれていく。
そこはアンドレには踏み込めない領域に思え、二人が意見を闘わせるのを見ているしかなかった。グリマーニもいたという、ニースでのパーティーがふと思い出された。
「ずいぶん、熱心だな」
グリマーニとの議論を終えて帰って来た彼女に向かってポツリと言う。
「グリマーニは、やはり世界的な写真家なだけのことはある。成功させような」
アンドレの言葉に潜む小さな染みには気づかず、彼女は明るく笑って彼の腕を軽く叩いた。
オスカルが最初に抱いた違和感は正しかった。ここにいるグリマーニは、彼女の知っている男ではなかった。ぜいたくなチャーター機を乗り回し、常に美女をはべらす男ではなく、虚飾を削ぎ取り、真摯に目の前の事象を捉え、最高の瞬間を収めようと息を詰めてファインダーを覗く、別の男だ。撮られながら、それを少しずつ実感していった。
そういう人間は嫌いではない。
芸術家としての彼の力量も認めざるをえない。まだ仕上がった作品を見せてもらったわけではないが、おそらくよい写真が撮れているに違いない。
世間話を装って、巧みに彼女の予定を確認し、ギリギリのスケジュールという罠をしかけ、彼女の責任感や、アンドレへの想いと嫉妬心まで、全て利用された――そう思えば腹立たしい限りだが、そのことは後でたっぷり憤ることにして、今はこの仕事に全力を注ぎたいと思った。

グリマーニと被写体である二人がのめり込んでいくにつれ、スタッフ達の士気も上がらないではいられない。次々に予定のシーンが撮り終わる。熱気を伴ったベストなコンディションの中で撮影は終盤を迎え、彼が彼女の手首を掴み、強引に唇を奪おうとしているように見える、少し演じるのが難しいシーンも、ベッドで二人寄り添うシーンも大胆にこなしていった。白いシーツの上に横たわるアンドレに覆いかぶさるように近づくオスカルの金髪が、彼の胸を通り、首筋を過ぎると、そっと顔を落としていく。スタッフ達は一瞬仕事を忘れそうになり慌てて我に返る。もちろん普通に洋服を着たままで、それほど濃厚なシーンでもはないはずが、妖艶さに目が離せなくなる。カメラを構えたグリマーニは、はっとして思わずファインダーから目を外し、直接その姿を凝視した。
このベッド・シーンでは、他にもアンドレの方は上半身に何も身に着けず、オスカルの方はベア・ショルダーのトップスで、素肌がブランケットから覗く構図まで撮った。彼の胸の筋肉の隆起と、彼女の白くなめらかな肩。夜を共にした後に思える彼女の柔らかな肌は妙になまめかしい。
実は、アンドレの方が当初、このシーンを撮るのに強い難色を示したのだが、オスカルに、二人の愛が成就したことを示す大事な場面だから必要だと説き伏せられ、それ以上は反対できなかった。彼はオスカルに気づかれないように、ちらりと周囲を見回した。
「ふりだけではないか。それに、わたしの方は着衣なのだから、全く問題ない」
肩が露わなドレスを着ることはあるし、よっぽど水着の方が露出度が高いぞと、オスカルはさばさばとそう言ったが、アンドレはグリマーニはじめ、周囲の男性スタッフの目に彼女のこんな艶な姿を見せたくはなかったし、ましてや彼女のそんな姿を雑誌になど載せたくなかった。
こんなは時つくづく思う。
少しは自覚してくれていればいいのに。彼女が彼女自身の女性としての魅力をと。
無自覚なのが彼女の魅力のひとつではあるが、無頓着すぎるのも問題だ。時に恋人にとっては。肩のまろやかな流れも、胸元の白くやわらかな膨らみも、本心では自分以外の誰にも見せたくない。

いよいよ建物から出ていくアンドレの姿で、撮影は終了となるはずだった。
予定の場面を全て撮り終えると、グリマーニもスタッフたちも、そしてアンドレも、心地よい高揚感を味わいながらも、緊張感のある密度の濃い現場に、正直くたくたになっていた。
ただ一人オスカルだけは、まだ力が抜けずにいた。もちろん彼女も疲労困憊はしていたのだが。
「ムッシュウ・グリマーニ」
彼女が声をかけると、グリマーニは労いと感謝の言葉をかけようとした。しかし、彼女はそれを遮る。
「できるならばですが、もうあとワン・シーンだけ撮ることはできないでしょうか」
これにはグリマーニも驚きを禁じ得ず、この日、初めて目を丸くした。

何度目の衣装替えの時だったろうか、スタイリストが用意した服の中に、彼女は黒いサマードレスを見つけた。背中が大きく開いたデザインで、アンドレがあるエピソードで描写したのとそっくりだった。それは結局、撮影で使われることはなかったのだが、最後まで気になっていた。作中の男が数年の予定でアフリカに赴任することになり、出発前夜にそのことを知った彼女は雨の中、裸足で走って彼のもとへ駆けつけるという挿話だ。この時、彼女は婚約中で、彼は旅立ちの前夜で、何か起きることもなく、本筋の展開に影響のない小さな挿話なのだが、オスカルのお気に入りの場面だった。彼のもとへ人目もはばからず走った彼女の激しさと、彼の優しさがにじみ出る描写が好きだ。以前、強引に彼女の唇を奪ったことがある彼は、もう彼女には触れないと約束していたから、彼女にシャワーを浴びさせ、一杯のショコラ・ショーを飲ませて帰宅させるのだが、その行為の優しさとは裏腹に、彼女も自分も互いへの想いを断ち切ることができるように、言葉でわざと傷つける切ない場面。
「このシーンは絵になるのではないでしょうか」
そう提案されると、イマジネーションが刺激され、グリマーニの頭にはすぐに数枚のカット浮かんだ。正直いうと、全身ずぶ濡れの体当たりシーンをオスカルに要求するのはさすがに憚られて遠慮していたのであるが、彼女の方から撮ってほしいというのならば話は別だ。
追加シーンの撮影のため、グリマーニから矢継ぎ早に指示が飛び、スタッフは大わらわで準備を整えることになった。彼女は件の黒いドレスに着替え、セットに防水シートの設置などが進む間、アンドレと脇に控えていた。
アンドレは横目で彼女を見やった。ドレスは肩から背中が大きく開いたデザインで、男の目を刺激する。今日一日、彼女の表情はくるくると変わり、撮られることでその魅力が引き出されて行った。もう何もかも知っていたつもりの自分でさえ、目が離せなくなった。それを引き出したのはグリマーニだ。
アンドレの視線に気づいたオスカルが顔を上げる。メイクを直され、最後の撮影に臨もうとする彼女の目は達成感を目前に輝いている。抑えられなかった。彼女の手首を掴むと、最初の場面で使った部屋に彼女を引っ張り込んだ。幸い、準備で右往左往しているスタッフたちは、誰も気づかない。
部屋はその時のセッティングのままで、日が落ちて来たこともあり、目が慣れないと何も分からないほど真っ暗だった。開いたままのドアの周辺だけはかろうじて廊下から入る光で、物の形がわかるくらいに明るい。
「おい、何だ、アンドレ急に」
オスカルが小声で訊く。アンドレはそれには答えずに彼女の手首を後ろから掴むと、壁に押し付け、大胆に開いたドレスの背中に唇を押し当てた。その感触にオスカルはびくりと震える。
「こら…っ、アンドレ、やめ……」
彼女の抵抗を器用に封じ込めて、ドレスから露出した首や背中に次々にくちづけを落とすのをアンドレはやめない。セッティングに忙しく動き回っているとはいえ、すぐ近くに大勢の人がいるというのに。気づかれないかと内心はらはらしながら、オスカルは彼から逃れようとするも、叶わない。
「おまえに、モデルの才能があったとはな」
アンドレが耳元で囁いた。かかる息は熱く、彼がなぜこんなことをするのか分からずに、オスカルは困惑する。
「おまえは、何も気づかないから……」
ファインダー越しに彼女を見るグリマーニの視線の熱さをオスカル自身は全く気にしていないが、アンドレは次第に気づいた。
二人の確執を聞いた時に浮かんだ疑問。グリマーニの執着は単に写真家としてのものなのかどうか。
オスカルと議論を交わし、だんだんと息が合っていくにつれて、グリマーニの目が少年のように輝くのをアンドレは見逃さなかった。周囲のスタッフ達が、「先生、今日はいつもよりずいぶんと気合いが入ってるな」と囁き合うほどに。彼女がカメラの前で、素のままの豊かな表情を見せ始めると、グリマーニは、どの表情も撮り逃すまいと彼女に一心不乱になった。
高名な写真家だという肩書の陰に隠れているが、彼はその前に一人の男なのだ。
二人が自分の入り込めない領域で意見を闘わせているのを見るにつけ、ニースのパーティーで感じた疎外感が蘇った。彼女と自分の住む世界が違いすぎることを思い知らされる度に、やるせない気持ちになる。彼女が自分を心から愛してくれていることは分かっていても、この何事にも代えがたく守りたい存在を幸せにするためには、自分に決定的な何かが欠けているのではないかと、時々そんな疑心暗鬼に捕らわれてしまう。前世の記憶のためだろうか。身分の差などはない今生でも、二人の住む世界は―――………。
ようやく彼の手を振り払い、オスカルが向き直る。怒っているのか、薄明りの中でも、息が荒くなっているのが分かる。彼女はアンドレの目を真っ直ぐに見つめ、それから目を伏せた。
「いい加減にしろ……」
そっと彼の胸に頭をもたせかける。
「おまえのためでもなければ、誰がこんなバカな真似をするものか」
最終カットの準備が整ったようだ。名前を呼ばれた。二人は、何食わぬ顔でセットに戻って行き、撮影に入る。








シャワー・ルームで服を着たまま水を浴び、雨に濡れたように装ったオスカルを戸口で迎えて呆然とする役割のアンドレは、次の瞬間、彼女を大事そうに抱きしめてしまった。首筋に顔を埋める。彼女の髪から滴る水滴が彼の頬にかかり、涙のように伝っていく。
”おまえのためでもなければ――”
先ほどの彼女からの一言を思い出しながら、濡れた服の下の体温を感じつつ、自分の愚かさを呪った。おまえがおれを愛してくれているのは重々承知でも、他の男の視線がおまえに絡みつけば嫉妬し、生まれと育った環境の違いを思い知る時には、不安と絶望感に襲われる。
彼女の背中に回した手が素肌に触れ、抱きしめる腕に思わず力がこもった。
仕方がないんだ。おれは、いちいちおまえの気持ちを確かめなくてはならないほど、おまえに狂っている。


彼女が彼にしっかりと抱きしめられている姿をファインダー越しに見て、グリマーニは思った。これが、ラスト・テイクとなる。
最初は優秀なパイロットだと思った。それに美人だとも。そのうち、彼女を撮りたいと思うようになり、それはいつしか執着といえるまでになった。なぜ、そうなったのか。その答えは出ただろうか。
シャッターが連続で切られる。さまざまなアングルから。
長い間撮りたいと願っていたオスカルが目の前にいて、気づけば、彼女の髪から滴る水滴の一粒一粒まで捉えようと集中している。
彼女の氷のごとき冷静沈着さの中には、千変万化の万華鏡が深く隠されていた。はかなげなのに、しなやかでもあり、冷ややかなのに熱い。両極端なものを備え、あやういバランスを保つ不思議な存在。
そうか、と思い当たる。仕事上の付き合いでは決して見せることのない彼女の豊かな感情を引き出し、撮りたかったのだ。自分の前にさらけ出させたい。もっと彼女を深く知りたかった。
彼女を思い通りに動かし念願は果たされた。彼女の一部を手に入れたと言ってもいいかもしれない。その上、よい作品にも仕上がりそうだ。近年にはないくらいのめりこんで集中して、現場の熱気も大いに盛り上がった。思惑通りに全てが運んだじゃないか、ジャコモ。
それなのに、思いがけず心の奥底に喪失感のようなものを感じて不思議に思う。達成感以上の、この空虚感はなんだろう。
――何かを得て、何かを失った。
そうだ、見たいものと、見たくないものを同時に見てしまった。
あのパーティーに、彼女に寄り添って来た男。彼女を目の前で抱きしめている男。
オスカルを引っ張り出すためにに利用しただけのつもりだったが、彼女の魅力の全てを引き出すには、アンドレ・グランディエという男の存在が必要だった。
この現場で、誰か他に気づいている者がいるだろうか。二人が一対だからこそ、その輝きが一層増すことを。光と影が対照的であるのに不可分であるように。
グリマーニはレンズを通してそれを見抜く。カメラは自分に嘘をつかない。彼女は彼でなければならないし、彼は彼女でなければならない。そう思い知らされる。

遠い昔に、こんな感情を味わった記憶がある。あれは何だったか、そうだ、少年の頃だ。遠い存在の美しいひとに抱いた、あの純粋な感情。
まさか。
グリマーニは頭を大きく振った。
そんなものは自分のような男には似合わない。冗談ではない。認めるわけにはいかない。
今さら、誰かに泣きたくなるほど本気になるなんて、イル・ダメリーノの二つ名がすたる。
彼は目をつぶり、そのまま最後のシャッターを切った。シャッター音と共に、真実は写真の中に永遠に封じ込める。


数か月後に発売された雑誌のグラビア・ページは、官能的でありながら、コンテで感じたよりも、ずっと上品に仕上がっていた。アンドレは、「これを見てから、おれの作品を読んだら、がっかりされないかな」と本気で心配して、オスカルはそれを聞いて笑った。
無事に撮影が終了すると、日本の編集者は何度もお礼を言って頭を深く下げて帰って行った。その後、さらにエアメールでも礼状が届き、ゲラ刷りや未公開となった写真なども送って来てくれた。それから数年、バレンタインにはチョコレートも届いた。彼女によれば、掲載号は、すぐに完売になり、ネットでプレミアがついたほどだった。買えなかった読者から抗議が殺到し、急遽ネットでの閲覧ができるよう公式HPに特設サイトが作られた。もちろん、アンドレの本の方もかなりの冊数が売れた。
写真のクオリティの高さはもちろんのこと、相手の女性の正体が一切わからないというミステリアスさが、話題性を高めた。そうすることでアンドレの存在感が増したし、顔を出さないという制約のため、苦肉の策として考え出された手のアップやすりガラス越しの二人などが、抒情性を漂わせる結果につながった。
「わたしがあの時、思い切って代役を買って出てやったおかげだな」
オスカルがふざけて恩に着せると、アンドレもおどけて頭を深々と下げてみせた。
「しかし、あのシーンがカットされたのは残念だったな。我ながら手ごたえを感じていたのだが」
オスカルが言うのは、ベッドでのシーンだ。決定稿には掲載されなかった。
「編集部の決定なんだから、仕方がないさ!それがなくても十分にいい出来で、オスカルには本当に心底感謝しているよ」
アンドレは雑誌の編集にほとんど口を出さなかったが、一つだけ強硬に意見を通したことがあった。場の雰囲気とオスカルの説得に押し切られる形で撮ることは撮ったベッドでの二人の姿がお蔵入りとなったのは、ゲラ刷りを見たアンドレの大反対によって、他の写真に差し替えられたためだ。
オスカルが残念がろうと、誰が何と言おうと、そこだけは譲るわけにはいかなかった。もちろん、そのことはオスカルには内緒だ。

公開された写真には、約束通りオスカルの顔が写っている物はなく、全てトリミングされていたが、グリマーニの手元に残っていた完全な形の写真は彼の死後、没後100年を記念した回顧展で初めて日の目を見ることとなる。彼女はグリマーニのミューズの一人として紹介されるが、それはずっとずっと後の話。

グリマーニはといえば、その後も、相変わらず彼女をチャーター機の機長に指名してきたが、もう二度と彼女を撮りたいと言うことはなかった。



「あの撮影の時も、こんな風に二人で暖炉の前で寄り添ったな。すこしシチュエーションは違っていたけれど」
ひとしきり、あの時のことを笑いや自虐をまじえて振り返った後で、オスカルは甘えるように、アンドレに体を預けた。
アンドレがある作家の名言を思い出して呟くと、彼女が笑った。真実のようでいて、矛盾をはらんでいるようで、実際のところはよく分からないような格言。まだ、人生のすべてを味わい尽くしたわけではないが、的を射ているのではないかと思う。
なぜなら、恋愛ひとつとっても、そうだからだ。甘さの裏には苦さがあって、どちらも防ぎようがない。


マントルピースの上の置時計が、ようやく0時を告げた。明日に変わると同時に、新しい年が一歩を踏み出した。パリでは大勢の人が街に繰り出し、シャンパン片手に賑やかにカウントダウンで声を合わせた後、新しい年を祝って、キスしてハグして大騒ぎしている頃だ。エッフェル塔はシャンパン・フラッシュに輝く。
「Bonne Annee!」
二人もお決まり通りにキスをして、じゃれるように抱き合ってみた。
いつかの大晦日から新年には、そんなパリの喧騒に飲みこまれて過ごしてみてもいいかもしれない。
でも、今は――。
二人共まじめな顔になる。しっかりと見つめ合ったあと、さきほどの悪戯なキスとは違った口づけを交わす。触れ合った部分から互いに深く気持ちを伝えあったあと、アンドレは、彼女の唇を奪ったまま、暖炉の前に、その何もかもやわらかに思える体をそっと横たえた。

これから、二人だけのレヴェイヨンが始まる。


ひとつになった二人の姿を暖炉の火が、赤々とやさしく照らしていた。



(了)





作中のイラストは、過去に Omoituski にて発表したものを修正したものです。
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