翌日、スタジオに足を踏み入れた時、最初はそれが、あの男だとは気付かなかった。グレーのTシャツに同系色のスウェット・パンツというラフな格好で、彼はスタッフと一緒に床にかがみ込み、撮影に使う機材をチェックしていた。

アンドレが到着したことを知ると、まず、フランス側のコーディネイターだという男が進み出て、握手を求めた。それから、日本の出版社の編集者である女性が紹介された。女性は、伸縮性があって動きやすそうな明るい黄緑色のパンツ・スーツに身を包み、スカーフを上品にアクセントとして使っていた。仕事はそこそこ出来そうだったが、アジア人は若くみえる。少し舌足らずに聞えるフランス語で挨拶した彼女は、30代か、それとも40代か。丸顔にショートボブの女性は、いずれにせよ十分大人である年齢に達していることは間違いなかったが、アンドレと握手を交わす際に、あきらかに動揺している様子が、周囲の誰からも見て取れた。
アンドレが連れのオスカルを紹介すると、二人はそれぞれ彼女とも握手を交わし、それから、今日の撮影を担当するフォトグラファーに引き合わせると言って、その地味な服装をした男のもとに二人を連れて行った。
「ムッシュウ・グリマーニ」
コーディネーターが名前を呼んだ時でさえも、しゃがみこんだ男が、あのグリマーニだと、オスカルにはピンと来なかった。彼が立ち上がり、振り返って彼女に笑いかけた顔を見てやっと、目の前の男と自分の知っている“グリマーニ氏”が一致した。彼は、なぜかアンドレを通り越して自分に向かって笑いかけているように思えた。グリマーニは、にこやかにアンドレに挨拶すると、彼女とも握手を交わす。
「やあ、オスカル・フランソワ」
いつもとは違い、整えられていない彼の無造作な髪を、オスカルは狐につままれたような気分で眺める。彼女が知っている伊達男ぶりは、そこにはなかった。
「ムッシュウ・グリマーニ、“お久しぶり”です」
挨拶の最後はちょっとした嫌味のつもりだったが、彼は意に介した様子もない。彼女の登場を驚いてさえもいないようだったから、きっと彼女の来ることが、ある程度予測できていたのだと察する。不思議に思うと同時に、内心、苦々しく思ったが、口には出さなかった。ここには、アンドレの仕事のためについて来たのだから。
グリマーニが、今日の撮影について説明するため、資料を取りに離れると、アンドレがオスカルに小声で尋ねる。
「知り合い?」
「ああ、常連客の一人だ」
表情を硬くしているオスカルの傍らで、アンドレは「へえ、そんな偶然も、たまにはあるんだな」と至極暢気なことを言いだして、彼女の神経を逆なでする。グリマーニとオスカルとの間のこれまでの経緯を知らないのだから、無理からぬことなのだが。
頭の中に、見えない蜘蛛の巣に引っかかった蝶の姿が、ふと浮かんだ。だが、まだ蝶は逃げられる。羽の先が少し引っかかっただけだ。
“何か企んでいるとしても、こちらがその手に乗ってやらなければよいだけの話”
そう彼女は気を引き締め、彼の計略にこれ以上、翻弄されまいと心に誓う。

グリマーニはすぐに、ターンクリップで留められたA4サイズの紙束を持って戻って来た。
「今回は、『追憶』の物語をイメージしていこうと思っているんですよ」
手渡された絵コンテをアンドレが確認していくのを、オスカルも横で見ている。最初はゆっくりとページを一枚一枚繰っていたアンドレの手が次第に速くなる。先を慌てて確認するように、そして、願わくば、横で見ている彼女の目になるべく入らないようにと。
「ちょっと……これは」
表紙を戻したアンドレは、グリマーニ氏に言いにくそうに告げる。恐る恐る隣のオスカルの様子を窺うと、表情は凍りついている上、顔色は少し青ざめているように見えた。アンドレはため息をつく。これだけ近くで覗いていれば、しっかりと見てしまっただろう、絵コンテに描かれていた数々の男女の絡みを。
恋愛がテーマの作品だけに、作中には主人公二人が触れ合ったり、愛を確かめ合うシーンがあるが、絵コンテでは、アンドレが作品で意図したよりも、少し、あるいはかなり濃厚に描かれているイラストがあり、作中に存在しないシーンまであった。グリマーニは、物語からインスパイアされたものだから、問題ないと涼しい顔をして言い放つ。そう言い切られてしまうと、そうとも思えて来る。さらに、たとえば小説が映画化される際に、映画的な見せ場が加えられることがあるが、それと同様ですよと説明されると、何も言えなくなる。文字での表現とビジュアルでの表現に違いがあるのは当然で、その点に関してはプロの言うことに従うしかない。それも、世界的に高名な写真家の言だ。
アンドレは、せめてオスカルを連れて来なければよかったと後悔した。横にいる彼女は微動だにしない。いや、連れて来てよかったのかもしれないと思い直す。後で雑誌の内容を知られた方が、説明に四苦八苦したことだろう。潔癖なところのあるオスカルには酷かもしれないが、事実をその目で見てもらった方が、後々悩まずに済み、最終的には彼女にとっても楽な気がした。
撮影の準備が整い、あとは女性主人公役のモデルが到着するのを待つばかりとなると、アンドレは流れに身を任せるしかないと腹をくくる。オスカルにも言ったとおり、この企画は成功させたい。横に寄り添っているオスカルが何も言わないのは、仕事と割り切ってくれているせいだろうと思う。割り切れない部分はあるのかもしれないが。
彼女が自分の方にそっと身を押し付けて来たような気がした。彼は彼女の手を握った。

アンドレが衣装合わせに向かうと、オスカルは撮影の邪魔にならないよう、壁際に置かれた椅子に腰かけた。自分は特にすることもないだろうからと持参した、最新型機のマニュアルを読み始める。
待機中のスタッフ達は、おのおの雑談したり窓の外を眺めたりしていたが、小一時間もすると、何かしらざわついた気配が感じられるようになった。しきりに時計を確認し、コーディネーターの男性に質問する者も出てきた。グリマーニはと見れば、最初の衣装に着替えたアンドレと絵コンテを見ながら打ち合わせをしている。
「これ以上時間が押すと、今日だけでは撮りきれなくなる!どうなっているんだ!?」
彼女にもはっきり聞こえるほどの大声で、コーディネーターにスタッフの一人が詰め寄る。相手役は一向に現れず、時間ばかりが虚しくたってしまった。グリマーニのスケジュールが空いているのは、今日一日だけで、延期することは不可能らしい。ひょろりと背の高いコーディネーターが、丸顔の女史を呼び、相手役の件を確認する。
「えっ!?こちらでは、ムッシュウ・グリマーニがご自身で手配されると聞いていますけれど」
動揺した声で彼女が答えると、コーディネーターの男は慌てて打ち合わせ中のグリマーニの元へ走った。グリマーニは、そんなことは知らないと、肩をすくめて両手を二の腕の辺りまで持ち上げるジェスチャーをしてみせる。スタッフも誰も手配を頼まれてはいないと言う。
こう否定されてしまうと、それ以上、コーディネーターは写真家を問い詰めることはしなかった。この場合、どちらが正しいとか、どちらが忘れていて、どこに責任があるのかというのは大した問題ではない。つまり真実は、どうでもよいのだ。
世界的な写真家と、一介の編集者。
責めを負うのがどちらかは、決まっている。
コーディネーターは女性編集者の元へつかつかと近寄ると、かなりの剣幕で、彼女を叱責し始めた。
彼女の方も言われっぱなしではなかった。少なくとも、そう聞いたのはまちがいない、メールも残っていると反論するが、第一言語でないフランス語でのやり取りでは、どうしても押し負ける。最終確認が甘かったと痛いところをつかれると、とうとう口をつぐんでしまった。ぐっと口許を引き締めてこらえているが、悔しさが全身からにじみ出ている。これ以上口論しても無駄だと悟ったせいもあった。もし、自分に非がないことを証明したとしても、グリマーニが臍を曲げれば、この件はご破算になる可能性が大だ。それは是非とも避けたかった。何しろ、グリマーニ氏の手による撮影というのが、この企画の大きな目玉だったからだ。
オスカルは彼女に心から同情した。仕事上、自分も理不尽な目にあったり、金の力や権力に任せて横暴に振る舞う顧客に閉口することが多々あるから、今の彼女の胸の内が痛いほど分かる。それに、傍目から見てではあるが、グリマーニが失念していた可能性が高いのではないか、彼女が責任をとる必要はないと思われた。
そこで、はたと気づく。彼は忘れていたのか、まさか、それとも……。膝に置いていた分厚いマニュアルが床に落ち、慌てて拾い上げる。
スタジオ全体が騒然となる中、黙って座っていられなくなったオスカルはアンドレの元に行き、声をかけた。
「心配しなくても、大丈夫だよ、きっと」
彼女を安心させるため、とりあえずそうは言ったものの現在の彼に出来ることは何もなく、動向を見守るばかりの状態で、声に当惑している様子が表れている。
周囲のスタッフが付き合いのあるタレント事務所に片っ端から連絡を取っていたが、グリマーニが納得するクラスのモデルに来てもらえるかどうかがネックだと、そう言っているのが耳に入る。世界クラスのアーティストともなれば、たとえ小さな仕事でも、そんじょそこらのモデルでは納得がいかないものらしい。
周囲の慌ただしさとは裏腹に、グリマーニ氏は悠然と椅子に腰かけ、スタッフに受け答えしながらも余裕のある顔つきをしている。オスカルの視線に気が付くと、にこりと笑い、片目をつぶって見せた。
「代わりがすぐに見つかればいいんだが……」
アンドレが不安そうに呟く。昨夜の意気込みを聞いているだけに、オスカルは、胸が痛んだ。
一つ二つと次々に当てになりそうな連絡先は消えていき、まだ問い合わせはつづけているものの、あきらめムードが漂い始める。
日本から遥々やって来た女性編集者は、身を固くしてただじっと見守っているしかなく、いたたまれなさと何もできないふがいなさに身を震わせている。アンドレが気づき、気持ちを軽くしようと言葉をかけた。
「後日、他の写真家でも、問題ないですよ。おれ、予定は合わせますから。一緒に成功させましょう」
オスカルも励ますと、彼女は弱々しく笑って見せたが、グリマーニの起用がキャンセルとなった場合、インパクトが大幅に弱まることは間違いなく、彼女の責任問題に発展することは十分に考えられた。
”グリマーニが納得するモデル”
オスカルは拳を握りしめた。グリマーニを見ると、彼女の方を意味ありげな目で見返して来た。また例のごとくウィンクして見せる。
その手には乗るものかと、オスカルは唇を噛む。
――周到に張り巡らされた透明な糸にからめ取られた獲物に、満を持して蜘蛛が近づいていく――
彼女は下唇をあとほんの少しで血がにじむのではないかというほど、きつく噛んだ。
アンドレの横顔を見て、うつむく女性編集者の不安そうな顔を見、それから最善を尽くして動き回るスタッフを見た。今後の企画の行方、それにまつわる人々、『追憶』という作品、それと天秤にかけられた自分の意地と。
彼女は目を閉じ、大きく息を吐いた。
「どうした?オスカル」
「いいから、来い!!」
いきなり怒鳴りつけられて訳が分からないアンドレの腕を引っ張り、つかつかとグリマーニのところへと歩み寄る。
そして、言い放った。「私が代わりを務めてやる!」と。
グリマーニに異論のあろうはずはなかった。


簡単な契約書を作成するからと待たされている間、アンドレはオスカルから、これまでのグリマーニとの確執をかいつまんで聞かされた。
「でも、どうして、おれと一緒にオスカルが来るって分かったんだろう。それに、おれ達のこと……」
「おまえ、ニースのパーティーで会っているだろう、覚えていないのか?」
八つ当たりではあるが、腹の立っているオスカルの言葉はトゲトゲしい。
「え?そう、だっけ?」
アンドレは記憶をたぐる。
南仏で、仕方なく参加することになったパーティー。
実は、アンドレは居心地が悪かったことと、海の傍の一流ホテルだけあって、魚介類のアミューズが新鮮で上質だったことくらいしか記憶に残っていない。多くの出席者が声をかけて来て、何とか顔と名前が一致しているのは最初の数人だけだった。パーティーのことをあまり覚えていないのは、その後の事件のインパクトの方がずっと大きかったせいもあるだろう。変わった奴とは知り合いになって、たまに連絡が来るようになったが、それ以外に知己となって付き合いが始まった相手は一人もいない。なぜなら、彼らが声をかけて来たのは、アンドレという人間にではなく、オスカルの連れの男という存在にだったからだ。パーティーが終わるまで引っ切りなしに声をかけられたにも関わらず、彼らは押し並べて同じ口調で、同じ印象で。笑顔の仮面を張り付けているようにアンドレの目には映った。
ただ、オスカルの話を聞いて、道理でと腑に落ちたことはあった。そこそこ売れて来たとはいえ、自分クラスの作家の写真を撮らせるには、大物過ぎるとは思っていたのだ、ジャコモ・グリマーニは。
日本での企画が持ち上がり、ある程度名の通った写真家でと探していたところ、どこから聞きつけたのか、グリマーニの方からアプローチして来たと聞いている。しかも破格のギャラで。もちろん、エージェントはもろ手を挙げて歓迎し、話がまとまると、嬉々としてアンドレに言った。
「きっと、君の将来に投資する気分なんじゃないのかな。それとも、ひょっとして、ファンだったりするかもしれないぞ」
そう言われて、多少いい気になっていた己が恥ずかしい。
お目当ては、オスカルの方か。ならば納得がいく。しかし、それにしても、あまりに手が込んでいやしないか、ただ彼女を撮りたいというだけにしては。まだ少しだけ、何かが引っかかる。
「昨日、あっさり帰って行った時に、もっと警戒すべきだった」
オスカルがさも悔しそうに言った。おそらく、雑談めかして今後の予定を聞き出したのは、彼女がまちがいなくパリにいる時を見極めるためだったのだろう。訓練までは十中八九、アンドレと一緒にいると踏んで、行動に出たに違いない。彼を利用して自分をおびき寄せ、ぬきさしならない状況に追い込む算段で。自分と別れたあと、空港の専用ラウンジでか、はたまたリムジンの座り心地のいいシートに腰かけてすぐ、スケジュール変更の電話をかけたグリマーニの姿が目に浮かんだ。

グリマーニのアシスタントが仕上げたばかりの契約書を持って来た。
オスカルはそれに目を通すと、サインの前に、条項を一筆書き加える。
それを読んだグリマーニは一瞬、困った顔をし、しばし考え込んだが、結局は彼女の要求を了承した。むしろ、腕が鳴ると、早速コンテの構図に加筆修正を始める。彼女の出して来た条件は、簡単ではなかったが、困難というほどのものでもなかった。
”公開する写真は、契約者個人が特定できないよう、後ろ姿または、顔が写っていないものとすること。”
プロのモデルではないのだし、今後、本業の方に影響が出ることを懸念してのことだ。日本でのみ発売されている雑誌だったから、大きな影響はないと思われたが、念には念を入れた方が安心だし、せめて少しはグリマーニを困らせてやらなければ、腹の虫がどうにも治まらない。
グリマーニにとっては、これくらいの条件など何でもなかった。何しろ、念願のオスカルを撮れるのだから。それに、条項を解釈するに、公開する写真には顔を出せないが、撮ること自体は禁じられていない。彼は、彼女の優美な筆跡のサインが記された契約書を見ながらほくそ笑んだ。予想以上に事はうまく運んだ。
いくら口説こうと、オスカルは被写体になることに頑として首を縦に振らなかった。それならば、搦め手から攻めていくしかないと、あらゆる糸口を探していた。そこへ、アンドレがあのパーティーに現れた。
グリマーニほど色恋の場数を踏んでいれば、会場で観察しているだけでも、オスカルが相当アンドレに惚れ込んでいるのが分かった。それはアンドレの方もそうだったが。これは利用できるかもしれないと考えた。
アンドレ・グランディエについて調べてみると、プロの作家であることが分かった。あとはオスカルの周囲にちょっと探りを入れつつ、アンドレの仕事関係に注視していれば、そのうちチャンスが巡って来るかもしれないと踏んでいた。
彼は目を上げると、彼女が撮影衣装に着替えに向かう後ろ姿を追った。身長178センチのスリムな体からのびやかに美しく伸びた肢体。モデルとしては申し分のないスタイルだ。顔も非の打ちどころがないほど美しく整っている。背中までの豊かな黄金の髪は、生まれながらのもので、彼女のブルーの瞳によく映える理想的な組み合わせだ。幼い頃から厳しく躾けられたか、よいお手本が周囲にいたせいか、立ち居振る舞いはエレガント。しかも型通りをなぞっているのではなく、あくまでも自然体で無駄を削いだ美しさがある。その上、耳目を集めるカリスマ性も備わっている。
だが、高身長と共に美貌にも恵まれた女性なら、滅多にお目にかかれないとしても、他にいないわけではない。それに所作や立ち姿の美しい女性もいくらでもいる。
どうして、ここまで彼女を撮りたいと思ったのか、自分でもよく分からない。
きっかけは何だったのか。彼女があまりにつれない反応ばかり返すので、どうやっても言うことをきかせたいとの思いが募り、執念となっただけなのか。
おそらく、今日彼女の姿を自分の手で切り取ってみれば、その答えが分かるに違いないとグリマーニは思い、絵コンテの修正に再び鉛筆を走らせ始めた。



(つづく)





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