そのひとは老舗のカフェの入口左手の窓際に座り、椅子の背もたれに体重を預けるようにして、一人ぼんやりと外を眺めていた。
こんな所で出くわすなんて、露ほどにも思っていなかったから、思わず足を止め、見つめずにはいられなかった。
その店は住んでいるアパルトマンからそう遠くない通りにあり、何度も前を通ったことはあったが、入ったことは一度もなかった。
正面がガラス張りになった店内は、そこそこ人が入っていたし、木枯らしの吹く季節ながら、テラス席には何人かが陣取っていたにも関わらず、彼女の姿はくっきりと、他の景色から浮かび上がっていた。
“思わず見つめてしまう人間”というものは実在するのだと、悔しいが、この人に会って思った。
オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。まだこの国に王がいた頃、代々その近くに仕えてきた名門貴族の血筋だというひと。
初めて会った頃は印象がひどくよくなくて、憎しみすら感じていた。だが、あることをきっかけにその評価が変わると、それからは、われ知らず彼女を目で追うようになっていた。
そのふとした仕草や真剣な眼差し、肩口で揺れる髪。やわらかそうな薔薇色のくちびるが、言葉を紡ぐために開かれる瞬間。そんな全てを。
知らず知らずのうちに彼女を見つめている自分に気づいて、慌てて目を逸らしたことは、一度や二度ではない。
いや、彼女を見直すずっと以前から、「いちいち癪に障りやがる」と心の中で悪態をつきながら、目で彼女のことを追っていたのは同じだった。
ガラス越しに見える彼女は、やわらかな印象だった。
そう思ったのは、いつもはきっちりと制服を着込み、引き締まった表情で、てきぱきと適切な指示を出して仕事をこなしていく、そんな姿ばかり見慣れているせいだろう。
初め、彼女は全く別の方向を見ていたが、おれの視線に気づいたようで、こちらを振り向いた。
目がわずかに見開かれる。向こうも意外だったのだろう。くちびるが開かれて、おれの名を形作った。
笑みを浮かべた彼女は立ち上がると、小走りで、おれが立ち尽くしていた歩道へと出てきた。
彼女が近づいてくるのを、ただ黙って待つ。
目が合った時点で、軽く手でも上げて、そのまま立ち去ることもできたのに、おれはそうしなかった。
「アラン!こんなところで会うとはな」
アランのそばまでやって来たオスカルは、明るい声でそう言った。
「どうも……」
二言三言、言葉を交わすと、彼女は、時間があるなら少し話さないかとアランを店内に誘った。
同じパリ市内に住んでいても、この部下とプライベートで会うことは、ほとんどなかった。アランが友人であるアンドレのアパルトマンに遊びに来ていて、入れ違いに顔を合わせたことはあったものの、挨拶もそこそこに、そそくさと立ち去ってしまう。オスカルの方としては、一度じっくり話をしてみたい相手だったが、どうも避けられているようにも感じていて、あえて誘うこともしなかった。だから、今回はよい機会だった。
それに、ぽっかりと空いてしまった時間を、これからどうしようかと考えあぐねていたところでもあったから、アランさえ都合が悪くなければ、話し相手になってもらうのは、渡りに船でもあった。
見知らぬ誰かと遠ざかって行ったアンドレを見送ってから、自分の車に戻ると、あてもなく発進させてはみたが、ひとり16区のアパルトマンに戻る気にはならなかった。動揺している自覚もあったので、モンパルナス通りまで出ると、目についたカフェの近くで車を停めた。
頭から追い払おうと思っても、寄り添うように去って行った二人の姿が、頭に浮かんでは消え、また浮かんだ。昨日、オスカルの部屋を出て行ってから一度も連絡すら寄越さず、あまつさえ、本来なら今日は自分と一緒に過ごすはずだったのに、断りもなく他の誰かと出かけるなんて。――アンドレめ。
仕事で急用が出来て出かけたのかもしれない。まだ怒っていて、連絡する気にならないのも、それは彼の自由だ。それは頭で理解していても、腹立たしいものは腹立たしい。
オスカルは、運ばれて来た飲み物の立てる湯気の向こう側を寂しく眺める。――その先に、彼の笑顔がない。飲み物がすっかり冷めて湯気が立たなくなってしまっても、彼女は自分の複雑な心境をどう解釈していいものか分からないまま、白い息を吐きながら通り過ぎていく人々や、無機質な車の流れを見るともなしに見ていた。
そんな時に、アランが現れた。
アランは少しためらったが、不思議と断る気持ちにはならなかった。
「少しなら……」
そう答えると、彼女の顔が満足げに輝いた。それを見たアランは、優雅な筆記体で店名が綴られた看板をちらりと見上げてから、わざと口を大きくへの字に曲げてみせ、億劫そうに彼女の後につづいて店に入って行った。
アールデコ調で統一された店内は、最近幅をきかせているフランチャイズ店などとは違い、歴史と格式を感じさせた。このモンパルナスが、狂乱の時代と呼ばれる以前から、変わらず街の変遷を見つめて来た店だ。アランは今日のラフな普段着を思って、わずかに居心地の悪さを感じた。
ただ、彼女の座っていたカフェ・エリアは比較的カジュアルな服装の客が多く、少し肩の力が抜くことができた。
オスカルの今日の服装はといえば、白いブラウスに黒いパンツを合わせたシンプルな服装なのに、この店の雰囲気に決して負けておらず、むしろ溶け込んでいる。スタンドカラーの細かなフリルが胸元の合わせまで続くほかは飾りのないシンプルなシャツも、そしてパンツも、一目で上質なものと分かる。そして、それをさり気なく着こなしてしまう彼女自身が特別な存在なのは、誰の目にも明らかだった。
「アンドレは?」
アランは彼女の向かいの席に腰かけるやいなや、そう尋ねた。その男の名前は、自然と口をついで出た。窓際の彼女は一人きりだったが、その傍には彼がいるはずだというのは、ほぼ確信に近かった。しかし、彼の姿は見当たらない。違和感があった。もしかすると、アンドレはたまたま離席しているだけかとも思ったが、テーブルには一人分の飲み物しか無い。彼女の顔がわずかに強張る。
「……いつも一緒というわけではない」
彼女は静かにそう答えたが、アランは内心で、そんなことはないでしょうと苦笑した。どうやら、アンドレと待ち合わせしているわけでもないらしい。
先日の誕生パーティーでのことが頭をよぎる。
アンドレは明るく大丈夫だと言っていたが、やはり、ちょっとした諍いになっていたのかもと推察した。
「ケンカ……ですか?」
オスカルの顔がさらに強張り、返事に詰まる。何か言おうとした時に、ギャルソンが声をかけて来たので、アランは自分の分の飲み物を注文した。
「長く付き合っていれば、そういうこともありますよ。無い方がおかしいくらいだ」
さっさと仲直りした方がいいですよと、アランは責任の一端を感じて、さり気なくフォローする。「それだけ遠慮がなくなって、近づいたって証拠だ」と。
「経験談か?」
オスカルが探るような目をして訊いた。
「いえ、おふくろが妹に、そんなことを言ってました。結婚が決まったんですが」
大人しい性格の妹でさえも、何度か恋人と意見の食い違いがあって、泣いて母親に愚痴をこぼしてしているのを見たことがある。いくつかの山や谷を乗り越えて婚約し、今は幸せそうに、母親と花嫁衣裳や新居の家具を下見に行ったりしているけれど。
「そうか、それはおめでとう!」
「いえ、女の支度は金がかかって仕方がないです」
アランが頭をかくと、「そうだな」とオスカルが笑う。「うちの姉達も大騒ぎだった」
オスカルは、下の姉たちが嫁いで行った時のことを思い出した。とっくの昔に結婚して家を出ていた上の姉達がわざわざ何度も実家にやって来て、母親を含めた女たちで、ウェディングドレスはどのデザイナーに依頼するか、新居は自分好みに改装して、このコーディネーターにプランニングを依頼してと、楽しそうに意見を言い合っているのを、当時はどこか自分には関係のないことのように見つめていた。オスカルはしばらくすると飽きてしまい、あくびを一つ残して、そっと部屋を抜け出したものだ。
結婚というもの、結婚式というイベント、それに対して今も強い憧れはないのだが、結婚……。女ならば、それが本当の最高の幸福なのだろうか。
愛する相手と一緒に暮らしたいという感情は、誰にでもある。それは、自分も実感できるようになった。アンドレを愛するようになってから。
彼女はカップを手に取ると、口許に運び、一口飲んだ。冷え切った飲み物は、カップの底にわずかに残っているだけだった。
俯き加減で、優雅にカップを口に運ぶオスカルの指先とその口許。アランは再び見とれてる自分に気がついて、はっとする。
そういえば、プライベートな時間にこんな風に二人きりで話をするのは初めてだったと彼は改めて思った。フライト先などで同僚数人と食事に行ったり、カフェやラウンジで休憩することはあっても、こんな風に差し向かいでゆっくりと話をすることは、これまでなかった。
家族の話などもして、かなり二人の距離が縮まったように思った。そう思っているのは、自分だけではない気がする。その証拠に、いつもより彼女の表情は穏やかで、くるくると変わった。
アランはあの胴体着陸の日のことを思い出していた。大事の前でも冷静沈着で感情の乱れをほとんど見せない女。それに比べて、いま目の前にいる彼女は表情豊かだ。職場での彼女との落差が何ともいえない。かわいいと思う…………奴もいるだろう。慌てて自分は違うがと、打ち消す。
そして、思った。特にあいつが関わると、感情が露わになるんだなと。こうも違うものなのか、と。先ほど、痛い所を突かれて言葉につまった彼女を目に浮かべる。死の危機に瀕しても淀みなく的確な言葉を発した唇が、あいつに関しては発するべき言葉が分からなくなってしまう。
やばいなと、アランは思った。自分の中に湧いて来た感情は、決して明るい性質のものではなかった。
彼女はそんな自分の心の動きには、全く気付いていない。少し、どうかしているのではないか。どこまでも自然体の彼女を間近に見て、アランはそう思った。
これだけの美女ならば、言い寄る男など星の数ほどいるだろう。そうなると、たいていの女は自分の魅力をしっかりと自覚する。自覚して慢心する。ちやほやされて、たいてい自らの美貌に自惚れる。それを隠さない女も多いし、ちょっと出来る女だと、自覚していることを上手に隠して演出して、いざという時にジョーカーとして使うものだが、彼女の場合はそのどちらでもなかった。
けちの付けようのない美貌と高い教養に、磨かれたセンスや身のこなし、全てが完璧なのは彼女にとっては当たり前のことにすぎないのだろう。そして、自分が女性としてどれほど魅力的で男を刺激する存在かということには、あきれるほど無頓着なのだ。
だが、無頓着な方が、がえって性質が悪い。
自分の武器を振りかざしてくる女ならば、火傷しないように避けても通れるが、ここまで無自覚にやられると、警戒する間もなく引き込まれて、気づいた時には抜け出せなくなって。
溺れる。
カップをソーサーに戻した彼女の青い瞳が、まっすぐにアランを見つめた。彼女は、仕事中より感情表現豊かに、「どうかしたか」と尋ねるような笑みを浮かべている。
”いつも、あいつは、こんな彼女を独り占めしているんだよな――”
アランが何か言葉を発しようとした時、かすかにモバイルフォンの着信音が耳に届いた。
「わたしだ。ちょっと、すまない」
オスカルがバッグから端末を取り出すと、メロディがはっきりと聞き取れるようになり、画面を一瞥した彼女の顔がぱっと明るくなったのをアランは黙って見つめていた。誰からの着信なのか、言われなくても分かってしまった。
「ああ、わたしだ……」
彼女は頬にかかっていた髪を耳にかけると電話に出た。しばしの沈黙。アンドレが何か説明しているようで、オスカルは時折頷きながらじっと耳を澄まして聞いている。
「……停電の件はわかったが、今、どこにいるのだ?サン=ジェルマン=アン=レー?ふ……ん、そんなに遠くはないな。なぜ、そんな所に。いや、今は説明しなくてもいい。これから、そちらに行くから。その時に聞く。詳しい住所はメールで送っておいてくれ」
オスカルはそう言い放つと、電話を切った。アランの脳裏には、電話の向こう側で押し切られたアンドレが当惑している姿がありありと浮かんだ。
「アラン、すまないが急用が出来た。こちらから声をかけたのに、悪いが、先に失礼する。少しの間だったが、話せてよかった。時間を作ってくれて、ありがとう」
彼女は素早くコートを羽織ると、別れ際の挨拶をするや、二人分の代金とチップを含めたほどの金額をテーブルに置いた。
自分の分は自分で払いますよとアランは固辞したが、「今日はわたしに付き合ってもらったのだから。それにこれは、上司から部下へのちょっとした驕りだ。気にするな」彼女は軽くウィンクすると席を立った。
「では、また、オフィスで会おう」
アランは立ち上がって、店を出て行く彼女を見送った。行き交う人の間を足早にすり抜けていく彼女の足元から、鳩が飛び出った。背中でなびく金色の髪は、冬枯れの街の中でも、陽光を集めたように輝く。やがて、光をまとったような背中が、視界から消えた。
ガラス越しに見えた彼女は、一度も振り返らなかった。
全く、オラージュ(嵐)みたいなひとだ。そう思いながら、彼は再び腰を下ろした。
「……また、“オフィスで会おう”か……」
“上司と部下”という言葉が、頭の中でリフレインする。
あの時、あのタイミングで電話がかかって来なかったら、自分は何を言い出していたのだろうか。アラン自身にも今となっては分からなかった。
先ほどの彼女のように、椅子にもたれて窓の外を眺めていると、注文したエスプレッソが今頃になって運ばれて来たので一口すする。いつになく苦味が、舌に沁みた。
(つづく)
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