アレクサンドル・イヴァナビッチ・ボレツキイ、ロシア系フランス人。
・1933年、フランス生まれ。
・構造主義派の哲学者、アカデミー・フランセーズ会員。結婚していたが、妻や子とは死別。
・父親のイワンはロシアで学者をしていた。某侯爵家(革命勢力弾圧の急先鋒、皇帝派)で家庭教師を務めていたこともあり、ロシア革命勃発直後、家族を伴って国外へ脱出。ベルリンを経てレーゲンスブルクに居を構えると、そこでも富裕な上流家庭の家庭教師として務めるが、ナチスが政権を奪取した年にフランスに移り、そこでアレクサンドルが生まれた。
・学者である父親の収入はそれほど多くはなかったものの、母方からの莫大な遺産があった。
・母親のナターリアは実業家の娘で、ロシア革命後、やはり海外に脱出している兄がいた。兄は母国からかなりの資産を持ち出してヨーロッパ中に分散して投資や預金をしていた。独身の彼には子供がいなかったため、ナターリアは兄の死後にその全財産を受け継ぐこととなる。大戦での損失は免れなかったものの、それでも莫大な資産が残っていた。ナターリアの死後は唯一の子であったアレクサンドルが相続することとなった。
・ボレツキイ夫妻の子供の中で、成人するまで生きながらえたのは、末子の彼一人だった。
・裕福な家庭で少年時代を過ごした彼は英才教育を受け、父親と同じ学者の道に進んだ。
・レヴィ=ストロースやノーム・チョムスキーらと親交があり、現在、アメリカ在住、客員教授として、プリンストン大学で教鞭を執っている――。
・マスコミ嫌いで有名。
アンドレが後日引っ張り出したアメリカ時代の記録に書かれていたメモである。
そのページには、流麗な筆跡の手紙も挟み込んであった。
サン=ジュストに名前を告げられ、アンドレが出したという礼状の件なども説明されて、まずは、博士の顔を思い出した。
太い眉と窪んだ眼窩の奥にあった、鋭さを潜ませた青い瞳、きっちりと整えられた白髪が几帳面さと神経質さと同時に、育ちの良さを感じさせた。真一文字に引き結んだ口はなかなか開かず、出てきた一言一言には重みがあって――。
そんな老教授の特徴が、ありありと目の前に浮かんで来た。
どうして今まで忘れていたのだろうと思うほどだ。
それにつれて、博士と会った日のことも断片的に蘇ってきた。
ボレツキイ博士に会ったのは、アメリカで過ごしていた時だった。
その頃、奨学金だけではぎりぎりの生活だったアンドレは、アルバイトをしながら勉学に励んでいた。飲食店でのバイトやバイク便など、あらゆることを請け負った。
収入だけが目的ではなかった。当時、既に文章で身を立てることを心に決めていた彼は、どんな経験もいつか作品に生かされることがあると信じていた。だから、翻訳やフランス語誌での記事執筆のアルバイトなど、文章に関わる仕事があれば、多少条件が悪くても飛びついた。
ボレツキイ博士と会ったのは、そのバイトのひとつで、インタビュアーのアシスタントとして同行した時だった。メモは、その前に博士の経歴を自分なりに調べて書き留めておいたものだった。
アシスタントとして参加しただけで、彼の名前がインタビュー記事に載ったわけでもなかったので――もっとも、原稿の下書きはアンドレが書いたものだったが――当初は思い出すことができなかった。
忘失していたのは、あの当時、目が回るように忙しかったせいもある。そうだ、あれは、アメリカの大学でのコースが修了間際だった頃だったっけとアンドレは思った。論文の仕上げに忙殺されそうだったが、将来に役立つ経験だと直感したので、何とか時間をやりくりして引き受けたのだった。その時に作った伝手が後に、フランスに帰ってから大いに役立った。お蔭で二日ほど徹夜するはめに陥ったのだが。文筆家として活動し始めてから100人以上の人物に取材をして来ているが、その経験は、インタビューの基礎練習にもなっていた。
メモ書きがあったノートに挟みこんであった手紙の方には、ロシア作家による小説がリストアップされているはずだと思い出す。フランス語による何冊かの小説のタイトルと作者名・訳者名、出版社に、ロシア語の原題も書き添えてある。アンドレが出していたという礼状は、この手紙に対するものだった。
メインのインタビュアーが席を外した際に、アンドレが、ロシアの小説で有名どころ以外に読むべきものはあるかと、博士に尋ねたので、くれた手紙だった。
彼にしてみれば、雑談として質問しただけだった。眼光鋭い少し気難しげな老人と二人きり、黙ったままでいるのは居心地が悪かった。話題は何でもよくて、軽い気持ちだった。一つか二つでも題名や作家が挙がればよし、無いと言われれば、それもよし。ところが、安楽椅子に腰かけた博士は首を傾けてしばし考え込むと、「それでは、リストを送ってあげよう」と言って、彼の連絡先を尋ねた。アンドレは、そこまでしてもらわなくてもと戸惑いつつも、自分が質問した手前もあり、高名な老学者の申し出を断ることが出来なかった。
その後、博士は律儀に約束を守り、一覧をしたためた手紙を送ってくれたので、アンドレは礼状を書いた。
ただしその後、インタビューや取材のお礼に手紙を出すことは、彼にとって当たり前のことになっていたので、博士のことだけが特段印象に残ることもなかった。
一方で、亡くなった後で振り返ってみれば、書簡や寄稿は多々あれど、マスコミ嫌いの博士が生涯でインタビューに応じたのは、後にも先にもこれ一回限りだった。
なぜ、その時に限って引き受けたのか、異国でエトランジェとして生活している時に、故国であるフランス系誌の取材に一種の郷愁を感じたのか、それとも単なる気まぐれからだったのか――。今となってはもう誰にも分からないが、博士にとっては、結果として印象深い出来事だったのかもしれない。
サン=ジュストの車で小一時間走り、オートルート(高速道路)13号線を下りると、緑豊かな郊外に出た。車はそこからさらに、しばらく走り続ける。
右手に古城、左手にギリシャ風の円柱が並び立つファサードをもつ教会を見つつ、車は北西へと進んだ。大きなラウンドアバウトを抜け、進行方向に向かって左の道に入ると、ようやく車は停車した。
到着したのは、サン=ジェルマン=アン=レーの街。
RER A線 1号線の終点があり、パリ中心部から程遠からぬ場所にありながら、緑の多い落ち着いた美しい景観の街だ。
先程の古城は、12世紀にルイ6世が建設した城塞が起源で、増改築を重ねながら、ルイ14世がベルサイユに移り住むまで歴代の王たちの住まいとなった。
サン=ジュストが車から降りたのに、アンドレもつづく。サン=ジュストは車を停めたコミューン道から、さらに細い脇道に入り、その先にある、こんもりとした林の中に入って行った。脇道は私道で、入口に行き止まりと私道である旨が書かれた立札が立っていた。
林は思ったほどつづかず、急に視界が開けたと思うと、そこは広い庭だった。 不意を突かれたアンドレは、偶然に隠された秘密の庭園を見つけてしまったような、そんな錯覚にとらわれる。
そう感じたのは、林が庭をぐるりと取り囲んでいたせいだ。まるで、その庭を外界から守っているかのように。かなり樹齢の高そうな大木もあったから、もともとあった林の中を切り開いて、この家は建てられたに違いなかった。
庭の先に館があり、サン=ジュストはそちらに向かって相変わらずまっすぐ突き進んでいく。歩き方はあくまでも優雅で、決してガツガツとした印象ではないのだが、そのあまりの迷いのなさに、アンドレは少々たじろぐ。彼は、立ち止まるとか、迷うとかいったことを知らないのではないだろうか。たぶん、仕事中であるし、既に何度かこの土地を訪れたことがあるから、彼にとって特に見るべきものはなかったためだろう。しかし、アンドレの方は、この庭に一歩足を踏み入れた途端、歩速を緩めて辺りを見回さずにはいられなかった。
林のような木々に囲まれているせいか、辺りで姿の見えない鳥の羽音が聞こえる。目の端に小動物らしき影がよぎって、アンドレは、ふと足を止めた。動物は既に走り去ってしまっていたが、振り向いた先にクリスマスローズの花が咲いているのが目に入って、思わず顔がほころんだ。
庭は、それで一つの世界が成立しているような、独特の雰囲気と美しさをもっていた。
出来ればもっとじっくり観察したかったが、サン=ジュストから随分遅れてしまっていたので、アンドレは先を急ぐことにした。
館の玄関に着くと、サン=ジュストは呼び鈴を鳴らしていた。中からかすかに足音がし、人の近づく気配がする。ドアが開かれると、白髪の老婆が立っていた。小花模様のワンピースを着て、その上にカーディガンを羽織っている。小柄なその姿に故郷の祖母が重なったが、こちらの方がずっと穏やかな感じだ。田舎の祖母は、とにかく元気がよすぎて、アンドレはいつも尻を叩かれているように感じる。
サン=ジュストは老婆にかすかに目配せしただけで前を通り過ぎ、「家の中をご覧に入れましょう」と言って、アンドレに館の中を案内した。
館は、かなりの広さがあった。
ここまでの道々で書類に目を通しながら、サン=ジュストから話を聞いていたアンドレは、既に自分がここに連れて来られた理由を十分に理解していた。
ボレツキイ氏は、この家を自分に譲り渡したいと遺言を残したのだという。
だが、たった一回しか会ったことのない自分になぜ……。
屋根裏から、地上2階の各フロア、そして半地下の倉庫まで、上階から一通り見回った後、最後に書斎にたどり着いた。かなり天井の高い部屋で、その壁のほとんどが造り付けの書棚になっている。物書きにとっては羨ましい造りだ。西側に大きめの窓と、南側には庭に面したフランス窓があった。
書棚の本に興味を引かれたアンドレは、本の背表紙を見回した。錚々たる著者が並んでいる。思わず軽く口笛を吹く。上の方はよく見えなかった。書架には可動式のはしごが備え付けてあり、それに登らなければ取れない高さにある。
きちんと整列している本の中には知っているものもあれば、聞いたこともないタイトルのものもあったが、ひとつひとつ、顔を確かめるように追っていたアンドレの動きが、ある本の前で、突然止まった。
それは、何冊かのよく知っている装丁の本で、タイトルも見覚えがあるものばかりだった。
それもそのはずだった。
当然だ。
自分の書いた小説なのだから。
彼は思いもよらなかった場所で知り合いと遭遇してしまったような、決まりの悪さを覚えた。絶対にそこにはいないと思っていた場所で、あまりに親しすぎる相手が突然目の前に現れたので、ひどく動揺してしまった時のような。
同時に、世界的に有名な学者たちの饗宴に招かれて、場違いさに肩身の狭い思いをしている自分の姿が頭に浮かび、身が縮んだ。
そういえば、博士との雑談の中で、将来、小説家になりたいと言ってしまったような覚えがある。たった一言だが、どうして、そんなことを博士の前で言ってしまったのか。博士の方が実はインタビュアーとしての才能をもっていたのかもしれない。
「それで、結論は出ましたか?」
サン=ジュストの冷ややかにも感じるトーンの声に、アンドレは我に返る。彼の声は涼やかなのだが、どこか感情を伴わないところがあった。それが意識的なものなのか生来のものなのか分からないが、立ち居振る舞いとも相まって、刃物で一刀両断にされたような気分にさせられる。彼は、さながら徹底的に飾りや無駄をはぎ取った刀剣だ。鋭く、切れ味の恐ろしくいい、冷たく光る美しい刃。
「話は分かりましたが……その、正直突然のことだし、まだ決めかねています」
「こちらはどちらでも構いませんが」
そう言って彼は、窓辺に佇むと、カーテンの端を女性のような白く細い指で持ち上げ、ちらりと外を見やった。その仕草に特別な意味はなかったと思うが、さっさと態度を決めてくれないかなと言っているように、アンドレには見えた。
先ほどの老婆が、二人にお茶を運んで来てくれ、アンドレは礼を言ってから椅子に腰かけると、柑橘系の香りが立ち上るカップを口に運んだ。
ボレツキイ博士の提案は、受けるにしても受けないにしても、アンドレにとって損になることはなかった。
博士の遺言によれば、アンドレに譲られるのはこの土地と館、そして現在、その中にある家財全て。
また、不動産・動産に加え、向こう10年間の管理費や予想修繕費も細かく見積もられ、先ほどの書類に項目が挙げられていた。その横には将来の予想物価上昇率をかけた費用が見積もられており、総額を弁護士に預託するとのことで、アンドレに経済的な負担は一切かからないよう配慮されていた。
相続権についていえば、博士には生存している子供も引き継ぐべき近親者もいなかったので、特に問題がないことは、弁護士の方で検証済だった。ボレツキイ氏の莫大な遺産は、この家以外、全て国や学術機関に寄付されてしまうのだという。
ただし、アンドレには課せられた条件があった。以下のような条項だ。
1、 最低10年は売らないこと。それ以降は自由に売却・賃貸等してもよい。改装は認めるが、書斎だけはそのまま残すこと。全ての物をあるべき場所に。
2、 月に7日以上は住むこと。
3、 庭の一番大きな楢の木は絶対に切らないこと。以下は絶対条件ではないが、できれば小鳥がやって来る環境を整えてやること。
アンドレのものになったからと言って、しばらくは何をしてもいいということではないらしい。ここに住まなければならない時間も必要だし、管理の手間はあったが、アンドレが迷っていたのは、そのせいではなかった。
”なぜ、ボレツキイ氏は自分にこんな遺産を残そうとしたのか?”
それが納得できなければ、受け取ることはできないと思った。 要するに、気持ちの問題だ。
遺産の話が飲みこめた時、一番最初にサン=ジュストに訊いたのが、そのことだったが、運転中だった彼はまっすぐ前を見つめながら、軽く眉間に皺を寄せた後で、分からないと答えた。
「依頼人の気持ちは、私たちの仕事には関係がないので」
確かに、“気持ち”などというものは彼ら弁護士の仕事の範疇ではない。手続きを正確かつ迅速に遂行することが弁護士の役割であることに間違いはないが、普通の感覚ならば、この少し風変わりな依頼の理由を不思議に思うことだろう。しかし、どうも、彼は毛筋ほども知りたいと思っていないようだ。潔いまでに心底興味がない。
小説ならば、この謎をきっかけに事件が展開するのだが。弁護士には向いているが、彼は探偵小説の主人公には向いていないかもしれないなと、アンドレはふと、そんなことを思った。探偵小説の主人公は、好奇心旺盛で、往々にして正義感が強く、よく自分と関係のないことに首を突っ込んで、時には周囲を振り回したりもするものだ、そう……。
そんな人物を彼は一人、よく知っていた。彼女の顔が思い浮かぶ。
「ムッシュウ・サン=ジュスト、まだこの家はおれのものではないが、コンセントを使わせてもらっても構わないだろうか?」
ふいを突かれて、さすがの氷の貴公子も少しだけ感情を表したが、アンドレが昨日からアパルトマン一帯の停電がつづいていることを説明すると、「まだ所有権はボレツキイ氏にありますが、それくらいは構わないでしょう」と淡々と管財人として許可を出す。
アンドレはモバイルフォンのバッテリーを取り出すと、ありがたくコンセントに接続させてもらうことにした。
充電が始まると、アンドレは、車の中で見た書類をもう一度見させてくれと、腕組みをして壁によりかかりながら、彼を見つめていた弁護士に頼んだ。書斎の椅子に腰を据えると、封筒の中から書類を取り出して、一文字ずつ追うように読む。ボレツキイ氏の”気持ち”など、事務的な書類に書いてあるわけはなかったが、じっくり読めば何かヒントになることが書かれているかもしれないと思った。何しろ今、手掛かりになるものは、これしかないのだから。
サン=ジュストは黙って、アンドレの一挙一動をじっと見つめていた。別にやりたいようにやらせてくれているのだから文句はなかったが、まるで不正を見抜こうとしている監察官みたいな視線を感じて、アンドレの方は、決まり悪さを感じずにはいられなかった。そのうち、サン=ジュストのモバイルフォンが鳴り、「ちょっと失礼」と言って廊下に出て行ってくれたので、ほっとする。
書類から目線を外し、椅子の背もたれに体を預けた。黒い革張りの椅子は、何度か手を入れながら長年使われて来たものらしく、彼の体をしっかりと包み込んで、座り心地がすこぶるいい。腕木もちょうどいい位置にある。そのまま天井の幾何学的な模様の連なりを目で追い、それから部屋全体を見回した。子供みたいに椅子の座面をくるくると回転させてみる。それにつれて、天井が壁いっぱいの本が、彼を取り囲む世界が一緒にくるくると回った。
サン=ジュストがなかなか戻って来ないので、彼は充電器につないであったモバイルフォンに近づくと手に取った。
充電はもちろんまだ完了していなかったが、起動スイッチを押すと、画面に光が戻った。
起動の動作が終わってホーム画面が映し出されると、着信のアイコンが表示されているのに気付く。アンドレは、よもやと、慌てて着信履歴を確かめると、果たして、それは彼女からの電話があったという記録だった。
着信は、アランやサン=ジュストが電話をかけて来た後にあった。どうして気づかなかったのだろう。ろうそくを探しに書斎の奥の納戸を引っ掻き回していた時にでもかかって来て、取り損ねたのだろうか。
アンドレは、慌てて履歴から電話をかけた。
「すみません、別件で問い合わせがあったもので」
謝罪しながらサン=ジュストが戻って来ると、アンドレはモバイルフォンを耳に押し当てていたが、ちょうど通話は終了したところのようで、それを下ろすと、彼に言った。
「すまないが、一人、この家を見せたい人が来ることになったので、それまで待ってもらうわけにはいかないだろうか?」
(つづく)
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