フラクタル 〜もつれあう糸〜 |
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アンドレが先ほど握りしめたために、テーブルの上に置いたオスカルのメモには、幾筋も皺が入っていた。じっとそれに視線をそそぎながら、行き先は分かっているのだからと、アンドレは自分に言い聞かせるように、何度も心の中で繰り返した。何も心配する必要はないはずだ。 しかし、さすがに昼過ぎになってもメール一つないとなると、漠然とした不安が、黒インクのしみのように胸の中に広がっていく。 こちらから連絡するくらい構わないだろう。そう思った彼は、彼女の番号を携帯のディスプレイに呼び出してコールしたのだが、一向に出ない。コール音はつづいているが、10回目まで聞いて電話を切る。ただ単に気がつかないだけか、そばにいないだけなのかもしれないが、脱走犯の件もあるし、わざわざ彼を置いて行ったことが、ただの呼び出しではないようにも思われた。 本当に父親からの連絡だったのか、オスカルは別荘にいるのか。そんな疑念さえ頭をもたげて来る。 ソファに座り直し、じっと考え込んでいると、ふと、彼女が自分の名前を呼んだような気がした。前かがみになっていた背を正し、バルコニーの方を仰ぐ。バルコニーまで出て、外を見下ろしたが、オスカルらしき影は見えるはずもなかった。 海から吹きつける風が、アンドレの黒髪を乱し、囁きを残して耳元を通り過ぎる。 心配のしすぎだと、彼女は怒るかもしれない。 空耳だろうと、もう一人の自分の声が言う。だが、確かに名前を呼ぶ声が聞こえた。そう感じただろう、と、もう一人の自分が鼓舞する。 彼女が呼んでいると思うならば、行かなければ。 アンドレは、突き動かされるように部屋を出ると、エレベーターに乗り込んだ。 ジャルジェ家の別荘の場所はすぐに分かった。だいたいの位置は聞いていたので、まずは旧市街を目指す。壮麗なバロック様式のミゼリコルド礼拝堂を左手に見ながら、サレヤ広場を横切る。両側に小規模なレストランがひしめきあっている広場は、通りといってもいいほどの幅で、東西に長い。道々、地元の人間らしきひとに声をかけて、道を訊く。誰もがジャルジェ家の別荘のことは知っていて、同じ方向を指差した。 「ここだよ」 顎と首の境がわからないくらい、でっぷりと太った年配の婦人から、そう言われたのは、城跡があるという小高い丘の手前だった。丸っこい指が示した先には、長い鉄製の柵が延びていた。こんもりと木が茂っているため、中は伺えない。 婦人に丁寧に礼を言ってから、門を探す。延々と等間隔に並べられた黒い鉄の棒をたどって2、3分も歩いただろうか。少し先に、丘にへばりつくようにして建てられたホテルが見えて来た頃、ようやく門らしきものが見つかった。 そのホテルの横にあるエレベーターは、城跡のある丘の上に通じているそうで、観光客が、ひっきりなしに吸い込まれ、そして吐き出されていた。派手な看板を掲げたその紅いアーチ型の入り口と、その上に設けられた階段は、丘に寄生しているように見える。 門の高さは、アンドレの身長の2倍近くあった。見上げると、後ろ足で立った獅子が前足で剣を捧げもっている図案が細工されていた。ジェルジェ家の紋章なのだろう。 恐る恐る押してみるが、もちろん、門は開くはずはなかった。辺りを見回すと、門の脇に造られたレンガの壁に、インターホンらしきものが埋め込まれていた。ボタンを押してみる。ツーと雑音がした後で、「はい」と応答があった。落ち着いた感じの女性の声だった。別荘番夫妻の夫人の方かもしれない。 「あの、アンドレ・グランディエと言います。こちらにオスカル・フランソワさんがいらっしゃると思うのですが、取り次いでもらえないでしょうか?」 「え?誰ですって?」 明らかに不審そうな声音で女性は聞き返してきた。 確か、別荘番には、自分の名前を伝えてあるとオスカルは言っていた。名乗れば、彼女の連れであることは理解してもらえるはずだった。よく聞こえなかっただけだろうか。 「アンドレ・グランディエです。オスカルの連れの……」 インターホンに顔を近づけて、自分の名前のところを強調して再度告げてみたが、反応がない。 やや間を置いてから、さらに訝しさを増した声が返ってきた。 「…………本当に、あなた、アンドレ・グランディエさんなの?」 「ええ、もちろんです!必要なら、身分証明書でも何でもお見せしますけど」 また、数秒の間があく。 「……オスカルさまなら、いらしてませんよ。おかしいわねえ。さっきも別のアンドレ・グランディエさんが、同じように訪ねてきて、オスカルさまがいるか、旦那さまがいるかって尋ねて帰ったのだけど。あなた、本当に本当に、オスカルさまの連れのアンドレ・グランディエさんなの?」 自分が二人?オスカルはどこへ? いったい、どういうことなのだろうか。アンドレは混乱した頭で、その場に立ち尽くした。 インターホンからの声も沈黙し、ただ先ほどと同じ機械の雑音だけが、蜂の巣のように並んだ穴から流れ出していた。 純朴そうで、分別も持ち合わせている感じの声をしている、別荘番夫人の話に嘘はないように思われた。オスカルがここに来ていないのは間違いないようだ。アンドレはいくつか追加で質問すると、もし、彼女が姿を見せたら、自分に連絡するよう言付けを頼み、その場を後にした。それ以上、そこにいても仕方がなかった。何より、オスカルの行方を一刻も早く突き止める必要があった。何もないならば、それでいいが、メモにあった行き先にいないということは、何かアクシデントがあったのかもしれない。 足早にホテルの方に引き返しながら、アンドレは再度、彼女の携帯に電話をかけてみた。しかし、今度は電源を落としているのか、電波が届かない場所にいるのか、呼び出しさえかけられなくなっている。おそらく無駄だとは思ったものの、ホテルにも念のために確認の電話を入れたが、やはりオスカルは戻っていなかった。 「くそっ!」 悪態をつきながら、乱暴に携帯を閉じる。残る手立てとして思いつくのは、警察に届けるくらいのものだったが、恐らく、成人女性とわずか半日連絡がつかないという理由だけでは、相手にしてはもらえないだろう。探しているのが子供であったら、話は別かもしれないが。 あるのは、自分の胸騒ぎだけだ。それだけで、彼にとっては充分すぎる理由になったが、警官を説得する材料にはならない。 どうしようかと迷ったが、他に手がかりもない。それに、考えたくはなかったが、もし既に、彼女が、トラブルに巻き込まれて連絡が取れない状況に陥っているとしたら、一番最初に情報が行くのは、そこだろう。ともかく、アンドレは警察署に足を運んでみることにした。 警察署内は、人でごった返していた。今日が特別なのか分からないが、対応に追われているという風だった。さすが世界有数の観光地である。いろいろな肌の色、人種がいる。 前から、観光客らしい東洋人女性の二人連れが、話しながら歩いて来た。一人は怯えて暗い表情をしている。もう一人は慰めているようだった。話している言葉はわからなかったが、“クレジット・カード”という単語が聞き取れたので、おそらく盗難かひったくりの被害にでもあって、届けに来たのだろう。彼女達から話を聞いた後、カウンターの所で立ったまま、何かの書類に書き込みをしていた私服の刑事に声をかけてみる。刑事は、ちらりとアンドレの顔を一瞥してから、これが終ってからと合図して、すぐに書類に目を戻し、ペンを走らせた。 ようやく記入することが無くなると、彼はペンを書類の上に投げ捨てるようにして置いてから、アンドレの方に向き直った。 「ご用件は?」 アンドレは、オスカルと連絡が取れず、残してあったメモにあった行き先に行っていないことを告げたが、刑事は予想通り、「それだけでは」と鼻で笑った。しかし、アンドレがマルセイユでの一件を持ち出し、脱走犯のことを付け加えて食い下がると、渋々ながら、調べさせてみようと言ってくれ、ずっと年の若い刑事を呼びつけた。人のよさそうな青年は、先輩刑事から事情を聞くと、アンドレからオスカルの身体的特徴を聞きだして、同僚に二言三言話しかけた後、情報端末などを操作して、アンドレに必要そうな情報を調べてくれたが、オスカルらしき人間が事件に巻き込まれたという報告はないようだった。 「あと、その脱走犯は、まだ捕まっていないね。どこかの組織に属していたわけでもないようだから、ここまでは来ないと思うけど、用心に越したことはないね。……金髪碧眼、身長178センチ前後でやせ型……美人なんだろ?」 若い刑事は、アンドレが言った特徴をメモした紙をぴんと指で弾きながら、ニヤニヤ笑った。「まあね」とアンドレが答えると、そりゃ心配だろうけど、きっと大丈夫さと彼はアンドレの肩を叩いた。そういう心配ではないのだがと内心思いつつ、気のいい男のいらぬ世話に苦笑して、アンドレは刑事の名前と連絡先を聞くと、自分の携帯の番号と、ホテル・ネグレスコの部屋番号を告げた。刑事は、何かわかったら連絡すると約束してくれた。 万事休す。 あてもなくニースの街を探し回るわけにもいかず、アンドレはひとまずホテルに戻った。 嫌な汗で、体中がべとついているような気がした。着替えて、少しすっきりすれば、何か思いつくかもしれない。彼は着替えをもってバスルームに向かった。 服を脱いでバスタブに入り、カランを捻る。最大にした水量は、叩きつけるように肌に降り注いで、シャワーヘッドから溢れ出る水音で外の音が遮断される。アンドレは額にかかった濡れ髪を後ろにかき上げながら、とりとめもなく、さっきまでの出来事を思い出した。 “本当に今回の旅は警察に縁がある……願い下げの縁だが…………それにしても、おれの名を騙った男は、一体誰なんだ……別荘番の奥さんは、あちらの方が感じがよい声だったなんて、言っていたが……本物は確かにこっちなんだ………オスカルが行方不明になった件と関係があるのか?なぜおれの名前やオスカルとの関係を知っている………いや、そいつもオスカルがいるか質問をしたということは、居場所を知らないってことだ…オスカルの父親がいるかどうかも訊いたらしいが、別荘番は答えなかったと言っていた………何が目的なんだ………?” 同じことを思い返すばかりで、何も新たに思いつかないまま、シャワーを止めると、アンドレは新しい服に着替えた。着替えている最中も、頭の中では疑問符ばかりがぐるぐると回りつづけていた。手が覚えているのに任せて、ほとんど無意識的に服を身につけていたので、シャツのボタンを掛け違えていたのに気がついたのは、一番下まで止めたときだった。慌てて外そうとすると、ドアをノックする音がかすかに聞こえた。慌ててスラックスをはいているうちに、また今度はもっとはっきりとドアを叩く音がした。今、この部屋にやって来る人間がいるとすれば、ホテルの人間か、オスカルの関係者の可能性もあったが、彼女である確率は最も高い。 “オスカルなのか?” そうであったら、今朝から自分がしてきたことは、一人合点で空回りしていたことになるのだが、それならそれでいい。どこに行っていたかは、すぐに彼女の口から聞けるだろう。親切にしてくれたあの刑事に、早速、連絡を入れなくては。やはり嫉妬深い男の先走りだったと、また電話の向こうで、にやつくのかもしれないが―――。 そうであってくれと願いながら、わずかな期待に胸をふくらませて、ドアを開けると、そこには、見知らぬ男が立っていた。 「やあ、アンドレ・グランディエ」 見ず知らずのはずの男は、やけに愛想よく親しげに、そう挨拶した。 (つづく)
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