フラクタル 〜失われた時を求めてB〜




駆け出したオスカルの後を、アンドレは迷わずに追った。残された二人には、一瞥をくれただけで、その後ろ姿はすぐに、緩やかに傾斜しながら高台の方に向かっていく路地に見えなくなった。

「あんなアンドレ、はじめて見たよ。相当怒ってたみたい」
イザベルも小さい頃から彼を知っているが、アンドレはいつも明るく朗らかで、声を荒らげたところは滅多に見たことがなかった。ミレイユは黙って悔しそうにうつむいていた。血がにじむのではないかと思うほどに、赤い唇を噛みしめている。
「アンドレのことはあきらめたんじゃなかったの?それに、今の婚約者のこと、心から愛してるって言ってたじゃない」
事情を知っているイザベルには、今さらなぜとしか思えない。
ミレイユはそれでも何も言わなかった。しかし、言いたいことはあるのだろう。息が次第に荒くなり、肩や胸が呼吸の度に大きく上下し始めた。とうとう、こらえきれなくなった言葉が溢れ出す。
「そうよ!今は彼の方がずっと大事よ。わたしのことを世界一愛してくれてるし、ちょっと塞ぎこんでいるだけでも気がついて、抱きしめてキスしてくれて、機嫌が直るまで付き合ってくれる。お金持ちで精神的にも余裕があるし、年はかなり上だけど、それだけ優しいわ…………だけど…だけど、悔しいじゃない!!」
口を開いた彼女は、まるで癇癪を起こした子供のようだった。手足をぴんと伸ばし、今にも地団駄を踏み出しそうなほどだ。
「何なの、あの人は!まだ会って一年もたっていないって、こっちは小さい頃から知っているのよ!ずっとずっと好きだったんだから!」
「ミレイユ……」
イザベルもそのことは知っている。何度もアンドレに告白して断られ、その度になぐさめて来たのは彼女だったからだ。
かなり気きつい性格のため、敬遠されることもあったものの、美人で頭の回転が速かったミレイユに憧れる男の子は星の数ほどいた。しかし、彼女はずっとアンドレ一筋だった。アンドレとしては、ミレイユのことを大切な友達だと思っていたからこそ、安易に受け入れることができなかったのだろう。
努力もしてさらに美しさに磨きがかかっていったミレイユだったが、アンドレが大学進学のために街を出て行ったときも、あきらめず追いかけて行った。そこでようやく「彼がOuiと言ってくれたの」と電話をかけて来た時の声を、イザベルは今でも忘れることができない。
しかし、電話を通して聞く声は、かかって来る度に次第に暗くなっていった。
「彼はいつも、どこか遠くを見ているみたいに感じるの」と、電話口で、心細そうに、当時の彼女はそんなことをよく言っていた。
休学して外国を回りたいとアンドレが言い出した時に、別れを切り出したのは、彼女の方だった。
「“待たない”って言ったら、ただ一言“ごめん”って。引き止めてもくれなかった。全然残念そうでもなかった。もう、その時にぷつんと気持ちが切れたわ。本当は他に好きな人でもいるのかって訊いたら、何も言わなかった。それで確信した。“本当は別に好きな人がいるんだ。叶わない相手にでも恋してるんだ”って」
その後のミレイユは荒れて、一時期、手がつけられなかった。仕事もやめて言い寄る男とは誰とでもつきあって、二股も三股もかけて、そのためにトラブルつづきで、一時期は昔の仲間や家族の前から姿を消し、イザベルとも音信不通になっていたが、今の婚約者と出会ってから立ち直ったのだろう、連絡を取ってきた。
「イザベルだって、分かったでしょう?初めてあの人に会った時、“あ、きっと、この人だ”って思った。わかるわよ、ずっと見つめて来たんだから。あの人を見るアンドレの目……」
イザベルが肯くと、ミレイユの細く美しい弧を描いている、茶色の眉が歪んだ。あ、泣くなとイザベルは思った。
彼のオスカルを見る目。一度でいいから、あんな風に見つめてほしいと思っていた、彼の愛情のこもった視線。
「わたしだって、最初はあそこまで言う気はなかったわよ。一言くらい言ってやりたかっただけ。なのに何?会って一年足らず!?なによ、それ。どういうことなの?あの人のことがずっと好きだったから、応えてくれなかったんじゃないの!?もう訳わかんないわよ。私の勘違い?」
とうとう大きな青い目から涙が溢れ出した。一度堰を切ると、後は子供のように泣きじゃくった。
「まだ会ったこともなかった人に負けていたなんて、悔しすぎる……!小さい頃からずっと好きだったのにぃ!」
後から後から溢れる涙を手の平や手の甲でぬぐう彼女の肩を抱いて、イザベルは、あやすように二度ほど軽く背中を叩いた。
「今日はとことん付き合うからさ、思いっきり愚痴りなさいよ」
ミレイユはまだ何か言いたそうだったが、涙に咽び、言葉にはならなかった。親友の胸にすがりつくと、ひたすら声をあげて泣き続けた。
イザベルは彼女の背中をさすりながら思った。アンドレもきっと、この真っ直ぐなところにほだされたのだろう。それに、彼女の気持ちも分からないではない。
“わたしは、好きって伝える勇気はなかったけど……”


アンドレがオスカルに追いついたのは、自動車が行き交う大通りまで出たところだった。車の流れが途切れず、立ち止まっていた彼女に、彼は声をかけた。
「オスカル!」
彼女は振り返ると、ばつの悪そうな顔をして、手前の車線の車が途切れたのを見はからって道路に飛び出した。対向車線からは、中型のトラックがスピードを落とさずに近づいている。
「あぶないっ!」
アンドレが叫んだが、オスカルは走り抜けられると踏んだのだろう。止まらずに道路を渡りきる。昇り坂になっていたために歩行者の発見が遅れたトラックは、横断する人影に気がついて急ブレーキをかけた。何とか、オスカルの2メートルほど手前で止まる。積荷の鶏が、急制動に驚いて甲高い鳴き声をあげて騒ぎ立て、ケージからはみ出た羽毛が、錆付いたトラックの荷台や道路に舞い落ちた。
アンドレも慌てて後を追い、道路を横断する。トラックの鼻先を通過する際に、すまないと言う代わりに運転手に向かって片手を上げると、「ばか野郎、死にてえのか!」と罵声が飛んだ。
オスカルは、アンドレの実家につづく坂を早足で上っていた。「待てよ」とアンドレが後ろから声をかけても、彼女は振り向かない。アンドレが足を速めると、彼女は歩を止めないまま振り返って、「来るな!」と怒鳴った。
それでもアンドレが、歩を緩めず、彼女に触れられるほどに近づくと、彼女はやっと止まってアンドレの方を向いてくれた。伏し目がちになって顔を背けながら、両方の掌を彼に向けて、制するように前に出す。
「頼むから、今は一人にしておいてくれ。冷静になる時間がほしいだけだ」
「冷静って、ミレイユは何を言ったんだ?」
「別に。おまえの女性の好みや、アメリカから連れて来た彼女の話を、聞きもしないのに教えてくれただけだよ」
オスカルの態度と、それだけ聞けば、だいたいの察しはついた。
「アメリカからって。彼女はただの友達だし、あの時はご主人も一緒にうちに泊めたんだ」
オスカルにだって、全てが本当でないことくらい分かっている。だが、ミレイユと付き合っていたことは確かだし、自分の知らないアンドレが過ごしてきた時間を思うと、何となく寂しいような悔しいような気持ちが不思議と湧き上がってきて困った。だから、少し一人になって頭を冷やす時間がほしかった。
オスカルがまた歩き出した。アンドレはもちろん追いかける。
「……だから、誤解だってば」
「しつこいな、ついて来るなと言っている!」
二人共、ほぼ同じ速度で、ほぼ同じ歩幅で歩いているのに、気持ちの歯車は噛み合わないままだ。
「そう言っても、家はこっちだし」
アンドレがそう言うと、それならばと、オスカルは道を外れた。脇に広がる林の中にずんずんと入って行く。
どこまで意地を張るのだろう。アンドレは一瞬立ち止まって、彼女の言うとおり一人にしておいてやろうかと思った。ため息をひとつ。
しかし、やはり彼女を追いかけた。
堆積した枯葉の上は、道路と違って歩きにくい。オスカルはヒールを何度もめり込ませ、足を取られながらも、枯葉を蹴散らし、ひたすら逃げるように前に進む。
林の側道にまで届いていた生き物達の声がやんだ。彼らは闖入者を見張って息を殺す。遠くで山鳥が、警戒するように一声高く鳴いた。
「あまり奥に入ると、危ないぞ」
アンドレが腕を掴もうとするが、その度に足を速めるオスカルにするりとかわされる。
「……った」
彼女が何か言った。しかし前を向いたままだったので、後ろにいるアンドレにはよく聞き取れなかった。
またオスカルが同じ言葉を繰り返したようだった。だが、やはりアンドレの耳までは届かない。
業を煮やしたアンドレは、力強く踏み出すと彼女の前に回りこんだ。今度は、聞き逃さないはずだ。
オスカルは三度目の同じセリフを、吐き捨てるように言った。
「ミレイユのかわりに、わたしが、子供の頃のおまえをいじめてやりたかった!」
「は?」
つまりは、そういうことだった。

アンドレに進路を塞がれる形で捕まえられて、オスカルもようやく、あきらめた。それに、しばらく歩いて、少しは気持ちも落ち着いた。
「どういうこと?」
アンドレの質問は、聞かれて当然でもあり、同時に間が抜けても聞こえた。
つまりそういうことなのに。一緒に過ごせなかった時間が悔しくて、言っても仕方がないことなのに、その時間に嫉妬している。
嫉妬。
これまでオスカルには、あまり縁のなかった感情だった。末っ子なので、親の愛情を奪われたと感じたことはないし、女性だからと、いろいろな場面で門前払いを食らわされそうになった時も、それは自分の努力と行動次第で、いくらでも変えることができた。欲しい物はだいたい手に入ったし、仕事だって充実している。
そして、アンドレと会うことができて、人生はより一層輝いた。いや、足りなかった自分の一部を見つけて、人生が新たに動き出したような感じだった。

だからこそ、の厄介な感情だ。

「おまえに言っても仕方のないことを言いたくなってしまうという、ただそれだけのことなんだ。それを抑えるために一人になりたいと言っている。こんなに自分をコントロールできないのは初めてだ」
アンドレの黒い目が、意外なことを聞いたように少し丸くなった。
「……あのさ、オスカル」
彼女は、彼が理解してくれてもくれなくてもいいと思った。それは自分の感情の問題なのだから、自分一人で何とかするしかない。彼に責任があるわけではない。
「嫉妬されるのは、嬉しいと言ったら、怒るかな?」
「なっ……!」
まさか嬉しいなどと言われるとは思わなくて、オスカルは思わず一歩、後ずさった。
「扉を閉められたり、逃げられたりは困るけど」
その分、アンドレは一歩前に出て、距離を縮めた。
「まさか、おまえに嫉妬してもらえる日が来るなんて、思わなかったから――」
そうだ、遠い遠い昔。愛していると口にすることもできないまま側にいて、自分を愛しているという彼女の告白を信じられない思いで聞いたときも、よもや、彼女が自分を抑制できないほどに嫉妬してくれる日が来ようとは、夢にも思わなかった――……。
まただ。この感覚は。この記憶は、自分のものでないはずのものだ。現在の自分が、過去の自分に干渉されているような不安は、ここに来る列車の中でも感じていたものだ。甘い極上の時間を過ごしているはずなのに、いつも、どこか苦いと感じるのは、そのせいだろうか。

二人共、時間が止まったかのように動かなくなった。
分け入って来た人間達が何もしないと見切ると、また林の中では生き物達が蠢き始めた。
鳥のはばたきが聞こえ、リスのような小動物が素早く枝を駆け抜けて、別の木に飛び移って、がさりと音を立てた。
側道を通っている時には、青々とした木々の葉に春を感じるくらいだったが、こうして林の中で静かに佇んでいると、生き物の息吹が降るように届いてくる。
長い冬の眠りから覚めた生き物達は、活動期に入っていて、飛び、走り、食物を探しまわり、伴侶を求めて繁殖して、はかない命を知っているかのように、生きる。見回せば、下草には白い頭花や、青い釣鐘状の花が咲き、今が春であることを堂々と主張している。
ふと思い出したことがあって、アンドレがオスカルの手を引いた。
「こっちに来て」
アンドレに手を引かれながら、林の中を進む。オスカルには、方角さえよく分からなかったが、彼にはちゃんと、どこに向かっているのかが分かっているようだった。
しばらく道なき道を歩くと、木がまばらになり始め、その先に開けた場所があった。目線の高さに空が広がる。丘の上になっているからのようだ。アンドレがパーティー会場に淑女をエスコートするような手つきで、彼女を丘の方へと連れ出した。
「見て」
「うわ……っ」
オスカルは言葉を失って、思わずニ、三歩前に踏み出した。
眼下に広がる、赤、赤、赤。赤い海原。丘から見下ろした草原には、一面の真っ赤なひなげしの花が咲き乱れていた。
風が通り過ぎれば一斉にさざめき、重たげな頭がしばらくの間、ゆらゆらと揺れて、凪いだ海に小波が寄せているように見える。
呆然と風景に見入っているオスカルに少し近づいて、アンドレが言った。
「この風景をずっと、おまえに見せたかったんだ。本当は最初の日の夕暮れどきに、世界が紅く染まるのを見せに来るはずだったのだけど、到着が遅れて、来られなかった」
パリで、彼女に一面の花畑を見せたいと言った記憶がある。ラベンダーにジャスミンに、ダマスク・ローズ。そして、野生種が群生しているものだが、この真っ赤なひなげしの草原も。
アンドレは、風景に圧倒されるように見入っている彼女の横顔を見つめながら思った。
しかし、それはもっとずっと昔から、そう思っていたような気がしている。そう、彼女に会うずっと前から……。まただ。
彼女は同じように感じたことはないのだろうか。思い切って口にする。
「……おまえは、おれ達が出会ったばかりなのに強く惹かれ合うことや、前世を思い出すことに疑問を感じたことはないか?」
「疑問?」
まだ感動から醒めやらぬ表情で、オスカルはアンドレを見上げた。
「疑問……」
オスカルが繰り返した。
「言っていることは分かるけれど、分からない」
彼女はきっぱりと言い切った。一度、目を閉じてから、アンドレの目をまっすぐに見つめ返す。
「わたしはわたしだ。もし本当に前世があったとしても、それはわたしの一部だし、それがあるからこそ――」
彼女の言葉には、迷いがなかった。その潔さが、霧を裂き、払う。
「それが痛みをもたらそうとも、その記憶があるからこそ、こうして、おまえといられる幸せを、当たり前でないと、奇跡のように感じることができる」
彼女の瞳が、強い光を放った。引き込まれる深い湖の色。見つめていると、その水底で輝く、宝玉を見つけたような気にさせられる。強いが、一瞬しか見ることの出来ない儚い輝き。
この瞬間に、ずっと立ち会いたいとアンドレは思った。他の誰かに譲ることなんて、絶対にできない。
痛みも責任も、全てを引き受ける覚悟で迷わない。それは、彼女が自分自身の主である証だ。ならば、自分は永遠にその眷属でも構わないのではないか、そんな気さえして来る。

彼女が他の誰にも与えない、愛情のこもった瞳で自分を見てくれる度に、どうしようもない喜びを感じる。男としての自分を意識して、自分にだけ見せる女の顔をする度に、同時に切なさを感じて、この一瞬を逃すまいと、必死になるほどに目に焼きつける。
――当たり前のようにおまえが側にいてくれることが、決して当たり前ではないと、おれも、知っているからだ。おまえとの時間が甘くて少し苦いのは、その裏側にある、痛みと苦しみと切なさを知っているから。

過去に愛し合ったことが、生まれ変わって再び出会ったことが、神の恩寵なのか、それとも悪魔の気まぐれなのか、それは人間である自分にはわからない。
だが、大切なことは、たった一つだった。最初から迷う必要などなかったのだ。目の前にいるこの存在を見つめていればいい。

アンドレがオスカルの背中に片手を回した。それから肩口をしっかりと掴んで抱き寄せた。丘から広がる風景を二人で見る。一面の赤い花に、その向こうに広がる街。ずっと遠くにかすんで見える山の稜線。
二人の視線が同じ方を向き、視界によって切り取られた世界が、二人にとっての全てになる。
これほど見たい風景が他にあるだろうか。
素直に身を預ける彼女の体温。触れた部分から、体の芯に届き、震わす。
幸せすぎて、少し不安になっていたのかもしれない。馬鹿だなおれは、と目を伏せる。
愚かしい自分の愛は、ずっと永遠に変わらず、迷い、不寛容で、人を妬むだろう。聖人君子になど、なれやしない。
きっと、少なくとも彼女に関する限り。
「きっと、おれは何度生まれ変わっても、おまえのことを愛しすぎてしまうのだろうな」
ぽつりと言ったアンドレの言葉に、オスカルの頬に朱が走る。彼女が身じろぐ。
「あまり恥ずかしいことを言うな!ばか」
彼女の言った”ばか”が、アンドレにとっては、どんな言葉より甘く響いた。
「後で、もう一度、ここに見に来よう。夕暮れの頃に」
そう言われて、オスカルは、こくりとひとつ肯いた。


その夜。離れのゲストルームでオスカルが眠っていると、ノックのような音が聞こえて、目が覚めた。慌てて起き上がって身構える。唐突に起こされて、自分の部屋ではないことに少し混乱を覚えてから、ここがアンドレの実家の離れであることを思い出した。ベッドサイドの時計を見ると、真夜中過ぎだった。
また、規則的に木を叩くような音がふたつ。窓の方から聞こえる。
ベッドを下り、窓際の壁に背中を押し付けるようにして、外の様子を伺った。今度は三つ。確かに誰かが窓を叩いているようだった。
押し入るつもりならば、わざわざ中の人間に知らせたりはしないだろう。そう思ったオスカルは、小声で誰何した。
「おれだよ、オスカル」
外からも小声で、返事が返って来た。
「アンドレ!?」
驚いた彼女が窓を開けようとすると、「わーっ、ちょっと待った!鎧戸はゆっくり開けてくれ」と焦った彼の声がする。
言われた通り、慎重に観音開きの鎧戸を外側に向けて開けると、それをうまくよけるようにして、アンドレの頭が動いているのが見えた。
「おまえ、何をしているんだ?」
深夜、しかもここは二階。アンドレは、壁にへばりつくようにして窓の桟につかまっている。外壁に装飾として付いている、わずかな出っ張りにつま先をかろうじて乗せ、肩から上が、ようやく二階の窓に届くばかりで、その様子では自力で這い上がることが難しそうだ。
「オスカル、手を貸してくれ。実は、足がもう、さっきからガクガク言っているんだ」
オスカルが慌てて彼の肩や腕を引っ張り、アンドレも何とか壁の凹凸を足がかりにして、腰まで窓のところへ持ち上げた。後は膝を窓枠に乗せてしまえば簡単だ。彼はするりと滑り降りた。
部屋の中に入ってしまうと、アンドレは急いで鎧戸と窓を閉めて鍵をかけ直した。オスカルはベッドサイドの照明を点けた。
どうやって登って来たのだと、オスカルが尋ねると、建物の脇に置いてある湯沸しの機械や一階の窓の庇を利用してよじ登って来たと彼は言った。それから、ベッドに腰かけたオスカルの横に座った。
「久しぶりだったから、勝手が違って落っこちるかと思ったよ」
どうやら今夜が初めてではないらしい。両親や祖母の目を盗んで夜中に部屋を抜け出したり、別の部屋に忍び込んだりは、常習犯だったのだろうか。
「お袋もおやじも、うるさいおばあちゃんも、もう寝たし。こっちに来てから、ろくろく二人にはなれなかったし……」
アンドレは、薄衣をまとっただけの彼女の肩に腕を回す。オスカルがその手を叩くと、手はすぐに引っ込められた。
「こういう風に女の部屋に忍んで行くのを、何て言うか知っているか?おまえ、よくやっていたのか?」
アンドレは慌てた。また疑われては叶わないと思った。
「いや、違うよ!ここには男友達しか泊めたことはないし……!あ、夫婦で泊めたのはノーカウントで頼む。おばあちゃんがうるさいから、ときどき、友達と示し合わせて抜け出したりは、確かにあったけど……」
「ふーん……」
オスカルは目を半分閉じて、疑っているように彼を見た。その様子を見て、アンドレは焦って何か言おうとしている。
少し前までは、彼の弁解は耳障りでしかなかったのに、不思議と今は、彼の小さい頃のアルバムでも見せてもらっているような、優しい気持ちになる。彼が必死に弁明する姿を楽しんでやろうかと思う余裕もある。自分でも不思議だった。
「ここを攻略したときは、楽しかったな……」
話題を逸らそうとしてか、アンドレは少年時代の思い出話を語り始めた。少年期の彼と悪友達は、わざわざ壁をよじ登って二階に上ったり、木の枝から納屋の屋根に飛び移ってみたり。特に、この離れは子供が入るものじゃないと言われていたので、まんまと入り込めた時は、思わず歓声をあげそうになる口をお互いに押さえあった。まるで隠し通路や秘密の抜け道を発見したような、冒険者の気分だった。
少年の頃の彼は意外にやんちゃで、トム・ソーヤやハックルベリー・フィンのようだったのだろうか。オスカルは、想像してみた。野山を友達と駆け回って遊んでいる姿が目に浮かんだ。控えめで、はじけないのに、その少年ぽさは、彼の中でまだ息づいていると思う。ときどき、オスカルが予想しなかった強引な行動に出て、驚かされることがある。そう、今夜のように。

オスカルの機嫌を損ねたわけではないと分かると、アンドレの手が、またそっと彼女の背中に回された。
「わざわざ登って来なくても、携帯を鳴らせばよかったのに」
そう言って、今度は、彼の手をはねのけなかった。
「おまえにNonと言われたら、おしまいだから。この旅に出てから、何しろ邪魔が多すぎる」
フライトの遅れで前泊が無くなったのを手始めに、確かにいろいろと予期せぬ出来事が二人を襲った。だからといって、いい大人がとは思うが。
「とんだロミオだな」
生憎と、バルコニーも、そこから垂らされた縄梯子もなかったが。
「“好きで好きで君を捜し回った。名前も知らないうちにキスをした。お願いだ、僕を信じて”……うろ覚えだ」
シェイクスピア劇の科白は、古めかしい。だが、真実を含んでいるから、聞き耳を立ててしまう。人間の愛という感情など、人類が誕生した頃から、あまり進歩がなくて、そして今後も、そうそう変わっていくものでもないのかもしれない。記録にかろうじて遡れる数千年前から、数百年前も、そして今も、これからも。
アンドレが貴婦人にするようにオスカルの手の甲にキスをした。それから彼女の手を取ったまま、じっと熱のこもった瞳で彼女を見つめる。その気持ちを確かめるように。
こいつはずるい、とオスカルは思った。いつも答えを待っているふりをして、きっと自分がOuiとしか答えられないと知っているから、待っていることができるのではないかと疑ってしまう。この瞳に抵抗できる女が、何人いるだろうか。


だが、悪い気はしない。自分だって、待っているのだ。そう、今夜のような夜には。



まどろみの中にいる彼女を白いシーツの上に残して、アンドレは早朝、まだ暗いうちに自分のベッドに帰って行った。せめて彼女の額にくちづけようかと思ったが、起こしたらかわいそうだと、剥き出しになった肩にそっと上掛けをかけると、できるだけ物音を立てないようにして出て行く。
彼がこっそり部屋を抜け出ていく気配にオスカルは気がついたが、目を開けなかった。まだこの心地よい気だるさの中で体を丸めていたい。
夢うつつで、“明日はジャスミンを摘みに行くのだから、夜明け前に起きておくれよ”と、マロンがアンドレに言い含めていたのを思い出した。
寝不足のまま、気づかれないように何度も欠伸をしながら、元気一杯の祖母のあとを付いていく姿を想像すると、自然と口元が緩んだ。

おかしくて。



愛おしい。
ただ、彼が。



(つづく)





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