フラクタル 〜失われた時を求めてA〜 |
|||
朗々とした声が、中世ロマネスク様式の天蓋に反響する。 「――また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません」 アンドレの生家の近くにある、その小さな教会では、今日は司教が訪れて説教を行う日に当たっていた。司教は大変に小柄な老人で、かなりの高齢だった。マロンよりもずっと上だろう。小さな目は深い皺の間に落ち窪み、体つきに不釣合いな大きな鷲鼻と意志の強そうな口を持っている。だが、声だけ聞いていたら、50代かせいぜい60代にしか思えない。まるで鍛えあげられたオペラ歌手のように張りのある声だ。そして心に訴えかけずにはいられない、不思議な力強さをもった声だった。 その日、司教が取り上げたのは、コリント人への手紙 第一の第13章だった。使徒パウロがエフェソス(トルコの都市)からコリントス(ギリシャの都市)の信徒に向けて書いたといわれている書簡で、愛について述べられているため、結婚式で読まれることも多い。 その教会には、座席が100席足らずしかなく、オスカル達が到着した頃には、既にその8割ほどが埋まっていた。教会へは4人でやって来たのだが、まとまっては座れなくて、マロンとコリンヌ、オスカルとアンドレに分かれて、それぞれようやく見つけた空席に座を占めた。アンドレの父親は、扉越しに「今日は行かない」と返答して、相変わらず仕事場に篭りきりで、マロンはぶつぶつ言っていたが、ともかく4人で出かけることにしたのだった。 ミサが始まる時間が迫ると、満席で座れなかった信徒達が座席脇や後ろの通路にも溢れ、オスカルは目を丸くした。 「すごいな。この地域の住民全員が集まっているみたいだ」 「今日は特別だよ。司教様が説教される日は3割増しになる。――理由は聞けば分かる」 もう二人の間には、いつもの調子が戻って来ていた。オスカルは密かにそのことに安堵した。しかし、ずっとアンドレと目を合わせていると、心の中にまだわだかまっている物を見透かされるような気がする。オスカルは後方を振り返ると、座席の背もたれに腕をかけながら、続々と集まる人々の様子を眺めているふりをした。 開始時刻間際になって入って来たのは若い世代が多かった。教会に来るのに、ふさわしくないような格好の者も数人見られる。その集団をかき分けるようにして、現れた女性がいた。はっとする。ミレイユだ。その隣に昨日一緒だった友人もいる。ミレイユは、昨日よりずっと地味な服装をしていたが、髪の結い方も化粧も一部の隙もなく、人目を引いた。 オスカルは相手がこちらに気づかないうちに、前に向き直った。動揺しているのが自分でもわかる。情動を理性でコントロールしようと決めたのに、いざ相手の姿を目の当たりにすると、うまくいかなかった。祭壇の方を見つめた。手は知らず知らずのうちに組み合わされていた。祈りの形だった。 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません――怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます」 この一連のフレーズは、オスカルも馴染みのあるものだった。だが、今日ほど考えさせられたことはない。 “寛容であり、妬まないこと”。厳かなその言葉がオスカルにのしかかる。そこまで話すと、司教の説教に間があいた。次の式次第に移るのかと思われた。 ところが、急に司教の声の調子が変わったかと思うと、まだ話はつづいていった。 「――とはいっても、わたしもあなた方の大半も、なかなか使徒のようにはなれませんからな!」 空気が変わる。俯いて、じっと組んだ手を見つめていたオスカルも顔を上げた。 「そこまで至れるようなら、わたしもあなた方も、聖人として列せられなければなりませんが、こんなに大勢が一度に聖人に列せられては、ありがたみがなくなります……」 あちこちで偲び笑いが起きる。オスカルは辺りを見回し、アンドレの顔を見た。 「ここからが司教さまのお説教の真骨頂なんだ」 アンドレが手を組んだまま、横に座る彼女の方を見て、小声で答える。 これまでが建て前だとしたら、そこからが本音だと言ったらいいのか。決してパウロや聖書を否定するわけではないが、人間という罪びとの業の深さを、司教は自身が見聞した、いくつかの事例を挙げて的確な言葉で語っていく。その語りは、聴衆の心に忍び込み、着実に何かを残していった。ただ、この教会の司祭だけが一人、心配そうな、少々苦しげな表情をして、その話を聞いていた。 「……紀元前から、いやその前から、人も、愛の本質も変わってはいないのです」 そう結ばれた説教は、断罪というよりは、許しのニュアンスの言の葉に溢れていた。 その後に歌われた賛美歌の旋律が、ミサの終わりまで、オスカルの耳の奥で何度もこだました。 “やがて会いなん、愛でにし者と、やがて会いなん……” ミサが終ると、聴衆は三々五々帰って行き始めた。オスカルとアンドレは、前の方の席に座っていたマロンとコリンヌを待つために、その場に残ったが、二人が司教に近づいて行ったのを見て、その近くの席まで移動した。 マロンは息子が顔を見せないことをしきりに謝っていた。司教は柔和な笑顔でマロンに掌を向けて、その勢いを制しながら、「あの子には、ちゃんと神が宿っているから大丈夫だろう。次には顔を見せるように伝えて」と言った。それから、アンドレがいることに気づくと、嬉しそうに笑って、側に来るようにと手招きした。 司教が座ったままの姿勢で、アンドレの顔の方に手を伸ばす。オスカルはそれを少し離れた所から見ていた。アンドレが身を屈めると、老司教は彼の頬に愛しげに触れた。まるで孫にするようでいて、どこか尊敬の念を込めたような手つきだった。 「……アンドレ、来てくれて嬉しいよ。あと、何度会えるだろう。……おまえは、わたしの尊敬した人の親友に似ている。その人も立派な人だったよ……」 そんな言葉がオスカルの耳に届いた。 その後、マロンとコリンヌは、教会のイベントの手伝いについて神父と話があるから、オスカルとアンドレには、教会の外で待つか、あるいは先に帰っているようにと告げた。 二人は、教会の出入り口をくぐり、外に出て、大きなプラタナスの木陰に落ち着いた。 「司教様は、おもしろい方だな」 オスカルが言うと、アンドレは小さく笑った。 「おれが小さい頃から、もう、おじいさんだった」 アンドレの瞳に、懐かしそうな光が映った。 「噂だが、若い頃はいろいろ無茶もしたらしいと聞いている。本当かどうかわからないが、パリでレジスタンスに参加したこともあるとか、ないとか」 彼の話し方は、まるで、自分の祖父の思い出話をしているように聞こえた。オスカルが、フランス国民のカトリック離れは危機的だから、もっと大きな教区で、いっそのことパリででも説教が聞けたらいいのにと言うと、司教様は、これ以上大きな教区でこんなことを話したらこれだ、と言ったことがあると、アンドレは、喉笛を親指で横にかき切る仕草をしてみせた。 そんな話をしながら待っていると、いつの間にか遠巻きに人垣ができているのに、オスカルは気づいた。雑多で洗練された人々が集まるパリでさえ、オスカルとアンドレは、それぞれ一人でも十分に目立つ存在であるのに、加えて二人が一緒にいる姿は何ともいえないハーモニーを醸し出す。見つめずにはいられない。それに、ここはアンドレの故郷である。余計に関心が集まってもおかしくない。 人垣は二重になっており、近くの輪は老人や中年の女性が中心で、その向こうで、雑多な年齢の人たちが、立ち止まったり立ち去ったりしながら、流動的に外円を形作っていた。みんな二人に話しかけたくて、うずうずしている風だったが、誰も口火を切ろうとはしなかった。しかし、オスカルがわずかに微笑むと、それを合図に、我先に近寄って来て遠慮会釈もなく、口々に思い思いのことを喋り始めた。近づいてまでは行かない人達も興味津々で二人のことを見ている。 「アンドレ、よく帰って来たな!どれ、もっと顔をよく見せろ」とアンドレの頬を引き寄せて、背中を叩く。 「えらい別嬪さんだねぇ」と、オスカルの値踏みにも忙しい。 そのうち、誰かが勝手なことを言い始める。 「グランディエさんとこの嫁だってよ」 「マロンばあさんとこの」 それから、オスカルのことを、どこかで見たことが……と言っていた中年の婦人が、「昨日の新聞に載ってた人かい?」と言い出すと、あちこちで、「あの記事の!」「そういえば」、「確かに」、「この細い腕で、大の男二人をねぇ」という声が上がり始め、さらに騒ぎは大きくなった。事件のことを訊くならまだしも、えらく強い嫁さんだ、アンドレは尻に敷かれそうだね、こんな美人になら敷かれてみたいと、二人が否定したり反論したりする暇も与えず、勝手に話が広がっていく。 「結婚したら、こっちに落ち着くのかい?作家はどこでも仕事ができるからいいやね。セルジュもいよいよ現役を引退するつもりみたいだしな……」 「え?」 アンドレの顔色が変わった。口をすべらせた男に、アンドレがどういうことだと詰め寄る。 「……聞いてなかったのか?」 二人を取り囲んでいた人々の間にもざわめきが広がる。 セルジュは十年か二十年に一人の才能の持ち主との誉れも高かったが、このところヒット作がなく、気難しい性格も災いして、契約していた会社から引退を勧告されているのだという噂は、小さな街である、近隣の住民は誰もが知っていることだった。 「アンドレ……」 寝耳に水で、青ざめている彼のことを心配して、オスカルが声をかける。 「すまないけど、オスカル。先に帰っていてくれないか?帰り道はわかるよな。ごめん」 家までの道は覚えている。マロンとコリンヌに詳しい話が聞きたいからと言うアンドレの言葉に、オスカルが肯くと、彼は教会の方に走って行ってしまった。 血相を変えて走り去ったアンドレの様子に、周囲の人々もそれ以上、残されたオスカルに言葉をかけなかった。物見高くはあるが、根は皆、善良な人達なのだろう。それを知っているからこそ、矢継ぎ早に投げかけられる言葉に、アンドレは笑って応じていたのだ。それぞれに、少し気まずそうな顔をしながら散っていく。オスカルも歩き始めた。 たぶん、セルジュに口止めされていたか、マロンとコリンヌがアンドレに心配をかけまいとして言わなかったかのどちらかだろう。アンドレはどうする?こちらに戻るのか?戻ったからといって、どうなるものでもないが、もし、両親が心配でこちらに帰るとなったら、その時、……わたしはどうなる? 次々に連鎖反応のように浮かんだ考えが、頭の中をよぎっていく。彼女は自然と俯き加減になって、規則正しく前に踏み出される両足の先を、見るともなく見た。道に落ちていた小石がつま先に当たって、転がる。それは不規則に跳びはね、道端まで転がって止まった。 「あら、アンドレのところに泊まっている、オスカル・フランソワさん……だったかしら?」 アンドレの家のある丘の周囲を走る、大きな通りにつづく路地へと曲がった時だった。前方から声がして、オスカルが顔を上げた。表情がこわばる。 そこにいたのは、ミレイユとその友人だった。ミレイユは腕を組んで、足をやや広めに開いて立っていた。声も態度も、挑戦的だ。横の友人が、「やめなよ」と言いながら、ミレイユの袖を引っ張る。 このまま無視を決め込んで通り過ぎるか、それとも、挑発に乗るか。オスカルは一瞬迷ったが、そのまま通り過ぎることに決めた。彼女とは特に話すこともない。話す必要もない。アンドレが話してくれたことで十分だ。 二人の前を無言で通り過ぎようとした時、またミレイユが言葉を発した。 「アンドレって昔から、金髪の子が好きだったのよね」 オスカルが立ち止まる。 「だから?」 「あなたも、“その中の”一人かと思って」 受けて立ったオスカルに気をよくし、彼女はさらにオスカルの神経を逆なでするような言葉を吐いた。 そんなことはない。自分とアンドレは、前世から結ばれた相手で……そう考えながら、オスカルは黙っていたが、ミレイユは攻撃の手を緩めなかった。 「前にアメリカから連れて帰って来た子も、金髪で青い目だったわよね、ねえ、イザベル」 傍らの友人が、戸惑いながらも首を縦に振っている。 オスカルの目に動揺の色が浮かぶ。アメリカにいた時も彼には女性がいたのだろうか。その可能性はある。まさか、行く先々にいて……。オスカルの中に、ふと、そんな疑いが生まれたが、彼女はミレイユをきっと見返すと、きっぱりと言い切った。 「そんな過去のことはどうでもいい。まだ出会って一年足らずだが、わたし達は……」 そこまで聞くと、ミレイユの顔色が変わった。だがすぐにケンカ腰な態度に戻ると、オスカルの気持ちをかき乱すような言葉をさらに浴びせかける。 「今はパリにいるから、たまたま、あなたなんじゃない?これから、どうなるのか誰にもわからないわ。だって、アンドレは誰かに執着することなんてない人だし、言い寄る女の子を取っかえ引っかえだったもの」 「そこまでは」と、イザベルが言ったが、ミレイユは次々にあることないことを並べ立て、オスカルを傷つけようとする。 オスカルは言い返すこともせずに、じっとその言葉を聞いていた。ミレイユにもイザベルにも、その態度が、全くこたえずに聞き流しているように見えたのだが、その実、もはやミレイユの言っていることが真実なのかどうか、判断がつかないほどにオスカルの気持ちは乱れていた。冷静に考えれば、一人の男を間に挟んで対峙している間柄なのだから、その言葉にどれだけの真実があるだろうか。しかし、その時のオスカルは、その余裕すら失っていた。反応を返さない彼女に業を煮やしたミレイユの嫌味な口調はさらにエスカレートしていく。 角を曲がって来る人影があって、ミレイユが口をつぐんだ。 「オスカル!」 息を切らして走って来たのは、アンドレだった。まだ家に着く前に追いつけるかもしれないと思い、道を急いで来たらしい。 オスカルの硬い表情を見て、アンドレがミレイユに食ってかかった。 「ミレイユ、オスカルに何を言ったっ!?」 アンドレの剣幕にミレイユは一、二歩あとずさった。イザベルに助けを求めるように腕につかまる。 「別に、ほ、本当のことを教えてあげていただけよ……」 「ミレイユ!」 ミレイユを一喝するアンドレの声が遠くに聞こえる。オスカルは、彼の声を聞いた途端、何かが崩れたように感じていた。まるで一点、ひびの入っていたガラスに来るべき時が来て、粉々になったような、そんな瞬間だった。 彼の顔を見る。また子供みたいに彼に何か言ってしまうかもしれない。オスカルは、逃げるように狭い路地を走り出した。 (つづく)
|
|||