Castor and Pollux |
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アンドレがお茶の準備をしている間、ジョゼフはダイニングでテーブルにつき、興味深そうに部屋の中を見回していた。特に豪華でもなく、かといってアーティスティックでもなく、住んでいる本人は、至極平凡な部屋だと思っている。だが庶民的なところが、かえってこの少年には物珍しいのかもしれなかった。 ジョゼフの言動は、アンドレが知っている7つの男の子のものとは、かなり違っていた。この年頃の男の子だったら、そろそろ退屈し始めて、話しかけて来たり、そわそわ動き出す頃だが、彼は立ち歩くことも、テーブルクロスをいたずらすることもなく、床に届かない足を、きちんと揃えて行儀よく椅子に腰かけている。それだけでも彼が厳しく躾けられているのがわかった。おそらく、ふだん彼の周りにいる子供達も同様なのだろう。 自分の部屋に招き入れるというのは、ある程度、趣味や内面をさらすことになる。ジョゼフの大人びた目つきを見ると、品定めされているような気がして、何となくアンドレは落ち着かなくなった。 ホーローのケトルから白い湯気が立ちのぼり始めた。 アンドレは少年の様子をちらちらと観察しながら、お茶の準備を進めていく。その間もお互いに無言のまま、緊張感を伴った空気が流れる。 書店からの道々も、部屋に着いてからも、二人の間にろくろく会話はなかった。 アンドレが話題をふっても、ジョゼフはいっこうに乗って来ないので、さすがのアンドレもあきらめてしまった。 書店を出てすぐに、少年の家には連絡を入れた。電話はすぐに、執事であるメルシーという人物につながれて、電話口からは、年かさの男の、人当たりのよい穏やかな口調が聞こえてきた。だが、声音は明らかに不審がっている。 アンドレが経緯を説明し、ジョゼフを保護していることを伝えたが、それでも老練な執事は、相手をたやすく信用することはなく、なかなか警戒を解こうとしなかった。どこの馬の骨とも知れない男の話を鵜呑みにするわけにもいかないだろう。無理もなかった。 態度が急に軟化したのは、アンドレがオスカルの名前を出したからだった。 おかげで部屋にジョゼフを連れて行くことも、アンドレの手で屋敷まで送り届ける許可も、あっさりと取り付けることができた。 オスカルは、社長夫妻とはプライベートでも親しいらしく、郊外の本宅やパリ市内の別宅をしばしば訪れていて、執事も一目置いて信頼している様子だった。 「……彼女は、オスカルは、よくここへ来るの?」 いきなりオスカルの名前が出て、アンドレはどきりとする。 「ああ。まあね」 少年は、「そう」とひとこと言っただけで、それ以上追求しなかった。 ケトルがしゅんしゅんと音を立て始め、蒸気で蓋が小刻みに動く。アンドレがコンロの火を止めた時、ノックの音が聞こえてきた。ドアを開けると、焼き菓子の香ばしい匂いがし、見下ろすと、上階に住む少年が立っていた。手には、かわいらしくラッピングした包みを持っていている。 「やあ、ピエール」 「母さんが、クッキーを焼いたからアンドレに持って行ってって」 男の子はアンドレに包みを手渡すと、いきなり彼の腕を両手で掴んだ。 「フランソワ達とサッカーする約束してるの。ねー、アンドレもやろうよ。どうせ暇でしょー」 掴んだ腕を左右に揺すぶる。すっかり彼に懐いてしまっている少年は、遠慮なく甘え、半ば強引に誘ってきた。 「いや、暇ってわけじゃ……。今日はお客さんが来ているんだ」 アンドレが困ったように断ると、ピエールは、「なんだぁ、つまんないの」と口を尖らせた。 「――せっかくだから、いっしょにクッキーを食べて行ったら?」 アンドレが軽くクッキーの包みを持ち上げた。 「え?いいの?」 ジョゼフに確認すると、構わないと言う。アンドレが招きいれると、ピエールはおそるおそる部屋に入って行った。さすがに、来客中にお邪魔するのは、ためらいがあるようだった。しかし、客と言っても、部屋にいたのは自分と同じ年頃の少年だけだったので、いくぶん緊張が解ける。アンドレが互いを紹介した。 ピエールが来てくれたのは、ありがたかった。 自分から誘っておいて今さらなのだが、正直、気難しい坊やの相手に閉口していたところだったのだ。 一方は、お茶には目もくれずに、母親お手製のクッキーをほおばっている。 一方は、クッキーには手を出さずに、ソーサーを左手に持ち、上品な動作でカップを口元に運んでいる。 奇妙な対照だった。 並んでいる二人を見比べながら、こっちが普通だよな、とピエールを見て、アンドレは内心思う。少なくとも自分の知る限りは。 見知らぬ少年が隣にいて、最初は遠慮がちだったピエールだが、そのうち、いつものように、とりとめのない話を始めた。学校での出来事や、父親と釣りに出かけたときの武勇伝など、アンドレは、ときおり相づちを打ちながら、楽しそうに聞く。 ジョゼフの方は、内心、無作法さにうんざりしているのかもしれなかったが、そんなことはおくびにも出さずに、我関せずといった顔で、取り澄ましている。 ひとしきり話したところで、ピエールは隣にいるジョゼフの顔を見た。クッキーの皿から一枚取り上げると、ジョゼフのソーサーにコトンと置く。 「食べてみなよ、おいしいよ」 ジョゼフはしばらくそれを見下ろしていたが、やがて手に取ると、一口かじった。 「……うん。確かにおいしい」 ピエールは、そうだろとご満悦だ。 「うちのパティシエが焼くのとは違うけど、なんだか素朴で、あたたかみがある」 「パティシエって何?ジョゼフの母さんはクッキー焼かないの?うちの母さんは、誕生日には、ケーキも作ってくれるんだよ」 「お母様は、お忙しいから……」 ジョゼフは目を伏せた。食べかけのクッキーを手にしたまま、心なし背中を丸めている姿が、ひどく寂しそうにアンドレの目に映った。 「あ、フランソワ達だ!」 ピエールが大きな声をあげた。子供の興味はすぐに移る。窓外に、サッカーボールを抱えて走っていく遊び仲間たちを見つけた彼は、椅子から飛び降り、窓の所に駆け寄っていった。 「おーい、待ってよ!」 叫んだものの、声は届かなかったようだ。くやしがって、窓枠をガタンと揺らす。 「フランソワ達行っちゃったよ。ねえねえ、やっぱりアンドレも行こうよ。ジョゼフも来ればいいじゃない。それならいいでしょう?」 アンドレとジョゼフは顔を見合わせた。屋敷に送り届けると約束した時間までは、まだ、かなりあった。 ゴール後方の土手に座り、アンドレは少年達が歓声をあげながら走り回っているのを眺めていた。川面を渡る風が春の匂いを運び、彼のくせのある黒髪を揺らした。 ここは、セーヌ河畔にあるアマチュアクラブのグラウンドだ。土日にはクラブのコーチがついて少年達を指導しているが、平日はこうして子供達だけで、ボールと戯れるのに使わせてくれている。 ところどころに雑草が生え、決してコンディションがよいとはいえないグラウンドを少年達は元気に駆け回っていた。 「子供ってのは、不思議だよな」 アンドレが思わず呟く。 あれだけ扱いに困った少年は、すっかり子供達の中に溶けこんでしまっている。ジョゼフはピエールと同じチームに入った。周囲の子供達の元気さに圧倒され、初めはぎこちない様子だった。だが、相手チームが先制点をあげると、負けず嫌いなところがあるのだろう。俄然、積極的に動き出すと、まもなく解放されたように活躍し始めた。 彼はいい選手だった。運動神経がよく、それ以上に頭がよかったので、ゲームの流れを読んで、絶妙な場所に待機していたかと思うと、大人も舌を巻くような鮮やかなパスを送る。ジョゼフのフリー・キックがキーパーの指先を弾いてネットに突き刺さった時には、もう子供達の間に言葉はいらなくて、彼らは完全に仲間になってしまっていた。 「左、抜かれる!マークして」 ジョゼフが指示を出している。ボーイ・ソプラノの声はいきいきとして、アンドレがこれまで聞いていた彼の声の調子とは全然違う。 ジョゼフは、いつの間にかチーム全体に指示も出し始めたが、不思議なことに子供達は反発することもなく、それに従っていった。彼に従えば、点が取れることがわかっているのだ。それに、彼らは仲間と認識しつつも、ジョゼフにどこか特別なところがあるのを敏感に感じ取っているのかもしれなかった。 また、ゴールが決まった。子供達は叫び声をあげ、飛び上がり、体全体を使って喜びを表現している。ジョゼフの顔にも少年らしい明るい笑顔が浮かび、チームメイトとハイタッチをした。 試合が再開して、またグラウンドに子供たちが散った。ロング・シュートが大きくゴールバーを越えて、アンドレの側に落ちた。「取って!」とピエールが叫んでいる。 アンドレは立ち上ると、足元のボールを蹴った。 屋敷に向かうタクシーの後部座席で、ジョゼフはずっと流れる景色を眺めていた。半ズボンから伸びた細い足と靴には、まだ少し泥がついている。 4試合して、ジョゼフのいたチームが3回勝った。 時間になり、帰ろうとすると、子供達は口々に引き止めた。アンドレがなだめてグラウンドを後にしたが、「また来てね」「次はうちのチームだから」と、姿が見えなくなるまで声がかかる。その度にジョゼフは振り返った。 「すごかったね」 アンドレが話しかけると、ジョゼフはちらりと彼の顔を見た。あいかわらずアンドレには取りつく島もない。彼は肩をすくめた。 車はパリの街を出て、ベルサイユ方面へと進む。少年一家の住む邸宅は、ちょうどパリとベルサイユの中間付近にあった。 アンドレが後ろを振り返る。さきほどから気になっていることがあった。後方100メートルほどに、黒い少しレトロなタイプのセダンが走っている。 「あの車、ずっとつけて来ていないか?」 ジョゼフも振り返る。 「ああ、あれ。護衛の車だよ。気づかなかった?アパルトマンを出るときから付けられていたよね、ぼく達」 アンドレはもう一度、後ろを振り返った。黒い自動車は、つかず離れず付いて来ている。 信用されていないわけでもないが、信頼はできないということか。それくらい用心深くなければ、むしろ困る。 パリ郊外の田園地帯をしばらく走ると、森が見えて来た。整備された道が、森の中を貫いて走っている。さらに車を走らせて森を抜けると、高い鉄柵が、はるか彼方までつづいていた。柵沿いに走ると門があり、そのすぐ内側に、学校や病院にあるような守衛室のような建物があって、車が近づいて来るのに合わせて制服を着た男が二人出てきた。 運転手が窓を開ける。門衛は後部座席に、彼らが警護している屋敷の跡継ぎ息子が座っていることを確認すると、早速、高さ2メートル以上はあろうかという、門を開いた。門は、重そうな音を立てて内側に開いていった。 敷地内に入ったものの、まだ屋敷自体は見えて来ない。 「広いな」 アンドレが小さく口笛を吹く。 「オスカルの家だって、同じようなものでしょう?」 アンドレは返答に困った。 「……まだ、行ったことがないんだ」 「へえ、そうなの」 ジョゼフの口調には、一矢報いたような響きがあった。アンドレは再び肩をすくめた。オスカルを挟んで対峙している限り、この距離感は埋めようもないのかもしれなかった。 ようやくたどり着いた屋敷の正面玄関前のポーチには、何人かの使用人達が出迎えのために待機していた。お仕着せを着て厳かに居並ぶ様子に、アンドレは映画でも見ているような錯覚を覚える。 二人が車から降りると、白髪をきれいに後ろになでつけ、ダークな色のスーツに身を包んだ男性が真っ先に近寄って来た。これが多分、さきほど電話で話した執事なのだろうとアンドレは直観した。 「アンドレ・グランディエ様ですね。初めまして、メルシーと申します」 執事は少年を自分の方に引き寄せ、アンドレとの間に入るようにしてから、慇懃だが、型どおりの言葉を並べて礼を言った。良家の執事らしく物腰はあくまでも柔らかだ。 「メルシー、おかあさまは?」 ジョゼフが執事に尋ねる。 「奥様は、お出かけでございます」 少年は行き先を尋ねたが、執事は「それが……」と困った顔をして言葉を濁した。アンドレの存在を気にしているようだった。 「……ああ、わかった。仕方がないね」 ジョゼフは片手で、制するようにして言った。 「ジョゼフさま……」 「もういい」 警護の者もつけず、無断で学校を飛び出したのだから、母親が心配して出迎えてくれるのを期待していたのかもしれなかった。やはり、7歳の少年なのだとアンドレは思う。 母といられない不安と、どうしようもない寂しさは、彼にも覚えがあった。小さい頃、体の弱かった母親は、しばしば入院していたが、その時、心に抱えた穴は、いつもは厳しい祖母が優しく接してくれても、近所の人たちが気にかけて一緒にいてくれても、決して埋まるものではなかった。 無事に引き渡しが済んだアンドレは、少年と執事に別れを告げてタクシーに乗り込んだ。運転手には、既に往復の料金以上の十分な金額が、執事から支払われていた。ジョゼフが窓を指で叩いたので、ウィンドウを下げると、彼は言った。 「……さっきの小説、なかなかおもしろかった。それと、ピエール達によろしくと伝えて」 アンドレはうなずいた。 車が走り出すと、屋敷の使用人達は、邸内に戻って行った。ジョゼフも執事に抱きかかえられるようにして中に入って行ったが、一度だけ走り去る車の方を振り向いた。もうずいぶん距離が離れていたので、アンドレからその表情は見えなかったが、それだけでも今日の成果はあったと思った。 彼はシートに深く座りなおすと、今朝からの出来事を思い返した。 キャンセルになった仕事、カフェで感じた春の風とゼラニウムのピンク色。書店での偶然にサッカー、そして、時折見せた、ジョゼフの少年らしい顔と別れ際の言葉――。 ふとオスカルの顔が浮かぶ。彼女に、今日の出来事をどんな風に話してやろうか。 彼女とはもう半月近く会っていなかった。ここしばらく、彼女の仕事が忙しくて、まともに会っていない。明後日にはパリに戻って来る予定だ。やっと。 ふたりで、今日の出来事を共有したい。それ以外にも、話したいことは山ほどあった。 タクシーは、ブローニュの森の脇を通り過ぎ、セーヌ川に近づいた。ミケランジュ・オートゥイユ駅付近の信号で一旦停止して、ふたたび走り出す。ゆっくりと加速する車窓から、地下鉄の入り口が見える。駅に下りる階段へと急ぐ二人連れがいた。ふと目を留める。どことなく人目をはばかるような様子が気になった。 一人は男性で、一人は女性だった。女性の方は、金髪を後ろで纏めて、サングラスをかけている。 アンドレは、息を飲んだ。 女性の方に、見覚えがあった。いや、誰よりもよく知っている顔だった。 まちがいないと彼は思った。彼女のこの髪は、ふだん背中まで届き、豊かに揺れているはずだ。 男の方は、見知らぬ男だった。薄茶の髪をしていて、眼鏡をかけている。彼女よりも背が高い。アンドレと同じくらいか、それより高いかもしれない。 タクシーはそのままスピードをあげていき、地下鉄の入り口は、すぐに見えなくなってしまった。それでもアンドレは、見えないものを追うように、じっとその方向を見つめつづけていた。 時を同じくして。 オスカルの同僚であるアラン・ド・ソワソンは、情報対策室・内規部部長であるブイエに呼ばれて、その執務室の前に立っていた。 (つづく)
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