Castor and Pollux |
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不可抗力、と呼ぶのが妥当なのだろうか。 人生の中で、ぽっかりとあいてしまう時間というものは、必ずあるもので、アンドレ・グランディエは、ふってわいた時間をどう過ごそうかと、カフェのテラスで、ランチに注文したグリュイエールチーズのキッシュを、フォークで崩しながら思案していた。 今日は午後から、打ち合わせがあるはずだった。だいぶ前に連載が終了した小説の単行本化の件でだった。 掲載していた雑誌の出版元が倒産してしまい、頓挫していた話だ。版権の問題などがあって、なかなか実現が難しいと言われていたのだが、人気が高かった作品だけに、このままお蔵入りになってしまうのは惜しいと、読者からも働きかけがあったし、今は新聞社で働いているベルナールが積極的に動いてくれて、ようやく具体的に動き始めたところだった。 キャンセルの連絡は、打ち合わせ場所に向かう途中で、携帯電話に入った。やむをえない理由ではあったし、いまさら慌てる案件でもなかったから、申し訳なさそうな相手に、快く了承したものの――。 「つくづく、ついてないってことかな」 彼は溶けたチーズの中に、もうしわけ程度に浮いているベーコンをフォークで突き刺した。 このまま部屋に戻ることは簡単だった。このカフェから自分のアパルトマンまでは、わずか数分だ。だが、今日は何となく、まっすぐ帰る気にならなかった。 パリは、この2、3日ですっかり春色に着替えていた。春風すら、外へと誘い出すように、アンドレの頬をやさしく、ひとなでしてから吹きすぎていく。 街路樹は、生命力に満ちた、だが、まだあやういような萌葱色の葉をつけ、家々の花壇やベランダガーデンには、色とりどりの花々が風に揺れている。 カフェの向かいにあるビルの2階のラティスからぶら下がっている鉢には、ゼラニウムが咲いていて、サーモンピンクが目に鮮やかだ。 鬱屈とした長い冬がようやく終わったのだ。 アンドレはジャケットの内ポケットから、アンティークの懐中時計を取り出した。博物館か美術館に陳列されていてもおかしくないような、その古めかしい時計は、しかしまだ現役で、しっかりと時を刻んでいた。ぱちんと蓋を開く。しばし、何かを思い出すような、おだやかな目をして文字盤を見つめていた彼は、ふっと微笑むと、再び蓋を閉じた。 わざわざ左手首にしていたクロノグラフを見直して、時間を確かめる。懐中時計は遅れも進みもしていないようだった。 腕時計の日付を見て、そういえばとアンドレは思った。今日は、ある雑誌の発売日だった。創刊したてのその雑誌の巻頭を、彼の作品が飾っている。しめきりを一日過ぎて編集の元に届けることができたその原稿は、ゲラ刷りの段階までは見たが、まだ完成した形で目にしてはいなかった。今頃は編集部から、著者進呈分がアパルトマンのポストに届いている頃かもしれないが、創刊号ということもあり、書店でどんな風に並べられているのか、評判はどうなのか、それが少し気になった。 いや、少しというのは正しくないかもしれない。作品が本という形を得て世に出されるときは、いつも気になって仕方がないのだ。処女作の時ほどの不安はないものの、それは何冊本を出しても変わらない。こっそりと何件かの書店を回っては、様子を見に行く。まだ彼には子供はいないが、廊下からこっそりと授業をのぞいたり、はらはらしつつ、子供の学芸会に臨席する親の気持ちと言ったら近いだろうか。 アンドレはテーブルに、紙幣とチップのコインを置くと、席を立って、行きつけの書店に足を向けた。 その店は、大通りに面した近代的な鉄筋コンクリート造りのビルの中にあった。店内は昼間にもかかわらず、煌々と明るく電燈がつけられていて、大きく切り取られた窓から、店内で本を物色したり、立ち読みをしたりしている客の姿がよく見える。 外壁は目を引く黄色で塗られていた。目立つということはすなわち、周りの年代を感じさせる建物から浮いているということを示すが、景観をぎりぎり壊さない程度には気が使われている。 五階建ての、一階から四階までが書店で、最上階が事務所になっていた。売り場面積が広いだけに、品揃えはすばらしく、一般書から専門書までを幅広く扱っている。 店舗の外装といい、本の売り方といい、いまどきの経営方針だと思うのだが、ときどき絶版の希少本が定価で売られていたり、専門家でもなかなか手が出ないだろうと思うような高価な本が、隅のほうにひっそりと置かれていたりしている。そのことに、アンドレは、初めてふらりと入ってみたときに気がついて、それからしばしば足を運ぶようになった。 そうしたマニアでなければ価値がわからない本や売れそうにもない本を置いているところに、何かを感じ取った。血の通った人間臭さがあると思う。世界を席捲する資本主義への、ささやかな抵抗であり、反骨精神のようなものだろうか。自分の生業もそうだが、衆目を集め、世の中に受け入れられなければ成り立たないのは分かっていながら、それでも、どこかで自分らしさや、おもねらない何かを残したいと思うものだ。自由な精神をもつ人間ならば。 雑誌のコーナーは一階にあった。ジャンルごとに棚が分かれていて、文芸雑誌は、店に入って右奥の少し目立たないところにあった。 平日の昼間ということもあり、その辺りには彼以外に客の姿はなかった。店員がひとり、まだビニールでまとめられたままの雑誌の束を、奥の倉庫から運んで来て、カッターでビニールをやぶると、隣の棚に並べているのが見えるだけだった。 彼は、お目当ての雑誌を探した。それはすぐに見つかった。平積みにされて、一番目立つ場所に置いてあったからだ。 こうして平積みにされているということは、書店としては期待をかけてくれているのだろうと思うと、少しうれしくなる。 自分のページがどんな風に仕上がったのか見てみようと雑誌に手を伸ばすと、さきほどは見えなかった棚の影に、人がいるのに気がついた。ふわふわとした金色の巻き毛。本に顔を埋めるようにして、夢中になって読んでいる。アンドレからは見下ろすような形になった。まだ幼い少年だ。 この年齢の子供なら、学校に行っているはずの時間帯だった。彼は不審に思って、少年の背後に回った。持っているのは、今、アンドレが手に取ろうとした本で、のぞき込むと、読んでいるのは彼が執筆した短編小説だった。 特に難しい表現や単語は使ってはいないが、大人向けに書かれた文章だ。それを子供が興味をもち、理解して熱心に読んでいるのを彼は意外に思った。 本にすっぽりと隠されているので、顔は見えなかったのが、この少年にアンドレは見覚えがあるような気がした。濃紺の仕立てのいい制服も、新品同様の黒い革靴も、身に着けているのはどれも上等の品物ばかりで、彼が上流階級の子弟であることが伺える。 これと同じものを、つい最近どこかで見たことが確かにある。それも、ひどく印象的な場面で。 彼が、少年の上着に付いているエンブレムを目にしたとき、少年の方も後ろから自分をじっと見つめている視線に、ようやく気がついたようだった。ゆっくりと振り返る。男の子は、アンドレの顔を見ると、首筋にいきなり氷でも押し付けられたような驚きようで、雑誌をバサリと取り落とした。 アンドレは、わざと鷹揚な仕草で床に落ちた雑誌を取り上げた。少年はあまりに驚いたためか、固まったまま動けずに、ただ目で彼の動きを追っていた。 アンドレが表紙についた埃をはらって、きちんと閉じた状態で手渡すと、少年は決まり悪そうにしながら、両手でそれを受け取った。 「え…と、ジョゼフ・グザビエくん、だっけ?」 何ヶ月か前に一度聞いたきりの名前をアンドレは思い出しながら、口にした。 「こんにちは、アンドレ・グランディエ」 まだ動揺は収まらないようで、声がわずかに震えている。しかし、態度には、もう隙がなくなっていて、以前、会ったときの人を見下すような、少し傲慢ささえ感じさせる表情を繕っていた。 「買うのかい?」 「いいえ。今は現金もカードも持っていないし……」 ジョゼフは、アンドレから顔をそむけると、雑誌を丁寧に元に戻した。そのままアンドレなどいなかったかのように、立ち去ろうとする。 アンドレは気になって、少年の後をついて行った。男が自分の後をついて来るのはわかっていたが、少年は意に介せずといった様子で、棚と棚の間の通路を速足で進んでいく。それでも店の出口付近まで来ると、ジョゼフは歩を止め、片方を軸足にして、兵隊が回れ右をする時のように、きれいな半円を描いて振り返った。 「なぜ、ついて来るのですか?」 少年は、できるだけ感情を押さえた声で尋ねた。 「気になるから」 「余計なお世話です」 少年は大人びた口調で、はねつけるように、ぴしゃりと言った。 「……今は、学校に行っている時間ではないのかい?」 アンドレが尋ねると、ジョゼフは痛いところを衝かれたのか、下唇を噛むと、一歩後ずさった。 「どうやら、大人といっしょというわけでもなさそうだし」 アンドレは周囲を見回した。こうして彼を問い詰めるようなことをしても誰も近寄ってくる気配がない。オスカルが言っていたように、彼が御曹司であるのならば、常にSPか何か、付き従っている大人がいてもよさそうなものだ。 「君には関係ありません」 少年は、少しだけ子供らしい膨れっ面をして、そっぽを向いた。 「サボり?」 アンドレはわざと核心をつく言葉をストレートに投げかけた。 「な……っそ、それは、そうとも言うかもしれないけれど」 そういう単刀直入な物言いをされることに、慣れていないのかもしれない。ふいを衝かれたジョゼフは度を失った。 「要するに、本来なら授業を受けているはずの君が、こんな所にいるわけだ。それはまぎれもない事実だね?どこか行きたいところでもあったの?」 アンドレは、法廷で検事が質問をするように、一つ一つ事実を確認しながら問い詰めた。 少年は黙秘する。 少年の様子から、今は学校に戻りたくないのだとアンドレは感じ取った。 身体ひとつで飛び出し、こんな所で立ち読みなどしているのだから、どこか目的地がありそうでもない。学校で嫌なことでもあったのか、それとも他に何か理由でもあるのだろうか。 そうだとしても、昼間とはいえ、パリの街をたった一人で、うろつくままに放置しておくわけにもいかない。 特に、この子には誘拐の可能性が高い事情もある。こんな金持ちの子弟しか行かない学校の制服でふらふらしていたら、誘拐してくれと言っているようなものだ。素性は知らなくても、そういうことをしでかしそうな輩に目をつけられることは十分に考えられる。 「家か学校まで、送ろうか?」 アンドレができるだけ優しく尋ねたが、少年はつっぱねた。 「結構です。どうせ、学校にいないことが分かれば、GPSで居場所を探し出して迎えに来るはずだから」 そこまで計算しての脱走なのはさすがだった。だが、やはり彼を一人残して立ち去る気持ちに、アンドレはなれなかった。大人並みの知能をもっていそうで、大人以上に自分を律することを知っていそうな彼の、らしからぬ無謀な行動が気にかかった。 ふと口をついたのは自分でも意外な言葉だった。 「他に行きたい所がないなら、おれの家に来る?すぐ近くなんだ」 少年は、どうせすぐに連れ帰られるに決まっていると思っていたのだろう。予想もしていなかった大人の言葉に、目を丸くする。 意図を探るような目つきでアンドレを見つめる。アンドレも困惑しながらその顔を見返す。 しばらくして、ジョゼフはコクンとうなづいた。 それは、かわいらしくて弱々しくて、大人の庇護をまだまだ必要とする、ひどく子供らしい仕草だった。 アンドレの目に、彼が初めて7つの子供として映った。 (つづく)
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しののめ様よりのリクエストは、「アンドレとジョゼフを絡ませてほしい」とのこと。 夢に、突然殿下が現れたのだそうです(^^)/ 殿下、ナイス♪ それまで、あんなのも、こんなのも読みたいと、キリ番を踏まれてから、いろいろと考えて下さっていたそうですが。 それらを押しのけて、リク決定。 リクエストどおり、冒頭から、二人の絡みで始まりましたこの物語ですが、さて、どう展開していきますやら……。 |