アンドレにも、まだ状況がはっきり認識できていたわけではなかったが、ただ一つ確かなことは、ここにいるのが、オスカルであってオスカルでないということだった。姿形は確かに彼女だったが、自分の知っているオスカルではない。 オスカルの姿をした誰かが、身振り手振りをまじえ、行ったり来たりしながら興奮したように話す。アンドレは少しでもヒントを探すように、それを用心深く黙って観察した。 「この部屋を出たり入ったりすれば、誰もいないのに天井が光ったり暗くなったり。他の部屋には、得体の知れないものばかり置いてある!テーブルの上にあった黒い小箱を落としたら、突然、人が現れて話し出したり……」 電気の照明に驚き、リモコンを落とした際にテレビがついたのに驚きで、どうやら、この世界にあるもの、ほとんど全てが彼女にとって理解を超えたものだったようだ。 「それに……。教えてくれ、おまえはアンドレなのか、違うのか?私のよく知っている人間に、姿も声もそっくりなのだ。ただ……」 彼女は当惑したような表情で、振り仰ぐように彼を見る。 手が恐る恐る彼の顔に伸ばされた。右手で、そっと左の眉の辺りに触れる。とても大切なものに触れるときのように、触れたら壊れてしまわないかと、どこか心配そうな仕草で。 「わたしの知っているアンドレの左目は、永遠に閉ざされてしまっているから―…」 蚊のなくような、か細い声だった。アンドレはその手にそっと自分の手を重ねた。白くて細い指がぴくりと動く。 「おれの両目は、しっかり見えているけど」 自分の名前もアンドレ・グランディエだと告げると、彼女はますます困惑を深めたようだった。 彼女は混乱しながらも冷静で、こちらを害する意思もなさそうだと判断したアンドレは、落ち着ける場所で、ともかく知っている限りを話してもらおうと、彼女をリビングの方へ促した。オスカルは言われるままに素直についていく。彼女の方もこの男は信頼しても大丈夫そうだと判断したらしい。 納戸スペースになっている部屋を出ると、天井のライトが自動的に消えた。オスカルはやはり気にかかる様子で、一度後ろを振り返ってから彼の後について行った。 「何か飲むか?」 オスカルをリビングのソファまで誘導すると、アンドレが尋ねた。そういえば、昨夜から何も口にしていないと彼女が答えたので、とりあえずキッチンの冷蔵庫からミネラル・ウォーターを取り出してグラスにそそいだ。 彼女は、喉を鳴らしながら一気にそれを飲みほし、手の甲で口許をぬぐうと、安堵のため息をつくように、細く長く息をもらした。 「……さて。気持ちが落ち着いたら、話してくれないか?君はいったい誰なんだ?」 アンドレが促すと、オスカルは空のグラスを両手で握ったまま、口を開いた。 「こう言って通じるものかどうか分からないが、わたしはフランス軍に所属する軍人で、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ准将。代々、フランス王家にお仕えする貴族の家柄で、今はフランス衛兵隊の隊長を務めている」 オスカルが状況説明をつづける。ここに来る直前。翌年に開催される三部会を前に、年が明ければ休む暇もなくなるだろうからと、王妃よりいただいたノエルの特別休暇で屋敷にいたのだが、目が冴えて起き出してしまった。しかし、夜中では話し相手もいない。読書でもしようかと思ったが、本にも集中できず、ふと子供の頃によく忍び込んだ物置部屋に足を運んでみようと思いついた。中には、さきほど彼女がいた部屋のように、白い布をかけられた家具や調度がいくつも置いてあり、その間を彷徨っていると、ふいに袖を引かれた。ギクリとして、自分の袖を掴んだ相手を振り返ると、それは一枚の布に覆われた細長く平たい何かで、かけてあった布を取り去ると、古くて大きな姿見が現れた。袖を引かれたと思ったのは、鏡の脇に付いている留め金のようなものに、たっぷりと絹地を使った袖が引っかかったせいで、等間隔にいくつか付いていた黄金製の留め金の低い方にある一つが、引き止めるかのように、布地に食い込んでいたのだった。オスカルはそれを外すと、鏡に見入った。 「その鏡を見て、むかし姉上が話していた他愛もない伝説や、子供の頃のことを思い出していると――異世界に人を取り込む鏡の話もあったのだ――鏡が不思議な色に輝きだして、気がついたらここに来ていたと、そういうわけだ」 オスカルがアンドレの顔を見た。自分でも夢を見ているのではないかと思う話を、彼が信じてくれるのかどうか。何も言わず聞いていてくれるのが、かえって不安をあおる。オスカルが言葉を切ったので、やっとアンドレが口を開いた。 「……そうか。それが君の体験したことなんだね」 話を頭から否定しないで、まともに聞いてくれることにオスカルは少し安心する。 「飲み物のおかわりは?それとも何か食べる?」 あまり空腹ではないが、もらおうと彼女が答えたので、アンドレはキッチンに向かった。冷蔵庫から、あり合わせのチーズやハムに、ピクルスなどを取り出して、パンにはさみ、食べやすい大きさにカットして、グラスワインを添える。 彼は、カウンターに置いたトレイにそれを載せると、今のオスカルの話を反芻してみた。 以前、オスカルが話してくれた夢の話と一致している。前世の記憶らしいが、すると今、彼女を支配しているのは、その人格だということなのだろうか。 体は現代の彼女のものに間違いなかったが、精神だけは前世の人格が影響を及ぼしているのだとすれば、何らかのショックで彼女の中に眠っていた過去の記憶が蘇り、現代の人格と交代してしまったのかもしれない。 これは精神科医の領域だろうか。だが、こうしたオカルト的な要素の混じった症例を扱ったことのある医師がすぐに見つかるかどうか。 考え始めると、きりがなかったが、あまり時間がかかるとオスカルが不審に思うかもしれない。ともかくは調子を合わせて刺激しないようにしようと心に決めて、彼はオスカルの元に戻った。 「カスクルート(軽食)だけど」 18世紀の貴族の食べ物など彼にはわかろうはずもなく、口に合うかどうか分からなかったが、トレイを彼女の前に置く。 こういった食事にはあまり慣れていないのかもしれない。そのままかじりついていいのかどうか少し迷いつつ、彼女はひとつつまんで歯を立てた。 「うん、なかなか、うまい」 口では空腹でないと言っていたが、またたくまに目の前の皿が空になった。ワインも、薄いなと言いつつ、飲み干す。 「何だか、久しぶりに食べ物の味を楽しんだ気がする」 オスカルはそう言って、少しはにかんだ。自分で思っていたよりも、食事が進みすぎたのが恥ずかしかったのかもしれない。 アンドレが、それはよかったと言って食器を片付け始めた。食器をキッチンのシンクに置いて戻ると、オスカルはソファの背にもたれて、うとうとしていた。彼が近づくと、気配に気がついて、飛び起きる。 「昨夜はほとんど眠っていなんじゃないか。少し休んだらどうだ?」 アンドレが気遣ったが、彼女は、これくらい大丈夫だと首を振った。そう言いながらも、少し辛そうに見える。アンドレがもう一度強く勧めると、ようやくオスカルも、少しだけ、と言って立ち上がった。 彼女が寝室のベッドに横になると、自分はいない方が落ち着くだろうと、アンドレは出て行こうとした。しかし、オスカルが呼び止める。 「よかったら、少しそばにいてくれないか?」 アンドレは、請われてその場に留まった。ベッドの端に腰掛けようとして思い直し、ちょっと待っていてくれと言ってキッチンからスツールを持って来ると、ベッドの脇に置いて、腰掛けた。 自分でそばにと言っておきながら、オスカルは広いベッドの反対側に少し体をずらして彼から離れる。 いつもより少し遠い距離感に、アンドレはどう振舞っていいのかわからず、部屋の壁に目をやったり、床に視線を落としたりした。室内は薄暗くしてあったが、落ち着いた色のカーテンの隙間から、太陽の光が少しだけ忍び込んでいる。 オスカルがぽつりと言った。 「不思議だ……」 「何が?」 「全く知らない場所で、馴染みの物はひとつもないのに、こんなに気持ちが落ち着くなんて……。特におまえと会ってからは」 さっきは、問答無用で投げ飛ばしてしまってすまなかったと彼女は謝った。 奥の部屋から一歩出れば、見るもの聞くもの全てが驚くことばかりで、自分さえ自分だという実感が薄い。周りにいる人間も敵なのか味方なのかもわからない。唯一、見覚えのある鏡の側で、ひとまず朝まで過ごそうと思っているうちに、浅い眠りに落ちていたら、人の気配がしたので、引きつけてから先手を打って投げ飛ばしたのだと言う。 「武官の悲しい性だ。許せ」 敵か味方かわからない男が近づいて来たら、自然とそう反応するように刷り込まれているのだろう。しかも丸腰だ。物の本で読んだだけだが、軍人とはそういう風に訓練されているのだということは、アンドレにも理解できる。 「いきなり投げ飛ばされて驚いたけど。こっちもまさかこんなことになっているとは思わなかったから、その、こちらこそ、すまない……」 さっき強引に彼女を押さえつけたことを指して、決まり悪そうに口ごもりながら言うと、本来なら銃殺ものだぞとオスカルが冗談を飛ばした。 少し調子の戻って来た彼女に、アンドレは安堵する。自分の知っている彼女と同じだ。一見、氷のようで、取り付く島もないように見えるが、打ち解ければ軽口もたたくし、子供のように無邪気になる。 「あの鏡」 「ん?」 「幼い頃、姉上がとても怖がっていた。真夜中に、あの鏡の前に立つと魂を吸い取られて、不思議な世界に連れて行かれてしまうと言って。そんなのは迷信だと、子供のときに試してみた時は何ともなかったのに、あれは本当の話だったのかな。あの頃は何も怖いものなどなくて……」 子供の頃の思い出が次々と蘇って来たのだろうか。オスカルの目は、アンドレを通り越して、夢みるように、どこか遠くをさまよっていた。しかし次第に険しい表情になると、はっと思い出したように彼の顔を見て、それから上掛けをすっぽりと被ってしまった。 「オスカル?」 「何でもない……!」 それ以上、彼女は口をきかず、身動きもしなくなったので、彼は部屋を出ようとしたが、再び呼び止められた。 「アンドレ……」 「どうした?」 アンドレが振り返る。 「わたしは、元の世界に戻れるだろうか」 「大丈夫だよ」 間髪入れずに彼は答えた。彼にも確証はなかったが、もし精神的なものならば、治療すれば治るだろうし、自然と治る可能性もある。そう、こうして一度眠れば、目覚めたときには元のオスカルに戻っているかもしれない。 それに、何があろうと彼女を愛する気持ちは揺るぎはしないから。 オスカルが上掛けから顔を出した。 「協力してくれるか?」 「ああ、もちろんだ」 彼の笑顔に安心したのか、彼女はドアとは反対の壁に向かって寝返りを打つと、寝息を立て始めた。アンドレは、起こさないようにそっと寝室を抜け出すと、静かにドアを閉めた。 (つづく) |
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