箱いっぱいに、色とりどりの包装紙やリボンで飾られた、大小さまざまな形の箱が詰まっている。段ボールの中味はチョコレートだった。添えられていたカードにふと目が止まる。オスカルの眉がぴくりと動いた。

"Je t'aime ,Andre!"

淡いピンクの地色にレース模様の縁取りがしてあるカードの上で、手書きの丸い文字が"アンドレ愛している"と踊っていた。赤いサインペンでハートマークまで描かれている。2月14日、チョコレート、愛の言葉、今日聞いた話。総合すれば察しがついたが、なぜ日本の習慣がこの部屋にあるのかまではわからない。
「オスカルでき……」
笑顔で声をかけたアンドレは、彼女の様子を見てリビングの手前で立ち止まった。オスカルは段ボール箱を目の前に、手にした1枚の紙片を凝視している。彼はノックをするように壁をコンコンと2度叩いてから、もう一度声をかけた。
「オスカル、用意できたけど」
オスカルは初めて彼がそこにいたのに気づき、とっさにカードをカーディガンのポケットにすべり込ませた。一瞬きまり悪そうな表情を浮かべると、わかったと返事をして、何事もなかったかのようにテーブルについた。早速、アンドレが料理をサーヴし始める。
次から次へと料理がテーブルに並んだ。さきほどのグリーン・サラダの他に、もう一品前菜があり、つづいてアミューズブッシュ。メインは子羊のロースト香草添えで、デザートにはヌガーのチョコレートがけまで用意してあった。
彼は料理上手で、これまでも何度か手料理をごちそうになっていたが、今日のような、ちょっとしたコース料理は初めてだった。
オスカルは料理を黙々と口に運んだ。アンドレの腕前はそこらのレストランのシェフより数段上だ。だが、今日はなぜかあまりおいしいと感じられない。先ほどの段ボールの中味が気になって食事に集中できなかったのだ。
"Je t'aime ,Andre!"
それほど深い意味はないのかもしれない。だが……。
― 自分以外の女性が、彼に愛の言葉を囁く 彼が自分以外の女性に愛の言葉を囁く―
そんな可能性を、今まで一度も考えたことがなかった。
容姿も性格も能力までも申し分ない彼は、客観的にみても女性にもてるに違いなかった。だが、自分にとって彼は運命の人で、これからも決して離れることはないと、根拠もなしにそう信じこんでいたのだ。
あのカードに書かれた文字を見て、初めて迷いが生まれた。前世からの恋人同士で運命的な出会いをしたとしても、それが永遠の保証になるとは限らない。自分だけを一生涯愛しぬくと誓ってくれたような気がしていたが、あれは過去の話だったか、それとも夢の中だったような気もする。今生でそこまでのセリフを聞いたのかどうか。
料理を味わうことなどそっちのけで、頭の中はそんな考えばかりが巡った。
「どうした?何か気になることでも?」
アンドレは食事のはじめからずっと、どこか上の空のオスカルに気がついていたが、メイン料理を食べ終わるまで様子を見ていて、ようやくそう切り出した。
「いや、別に」
彼女は否定したが、言葉どおりとは思えない。
「何かあるのなら言ってくれ」
頼むように言っても、オスカルは何でもないの一点張りだった。
実をいうと彼女自身、感じている不安があまりに漠然としていたので、どう言葉にしてよいかわからないのだ。
オスカルが頑として答えようとしないので、アンドレは仕方なく、そのことはそれ以上追求しないことにして、デザートのヌガーを冷蔵庫から取り出して来た。
"ここにもチョコレートか"
オスカルはかかっているチョコレート・ソースを見て、いまいましそうに木製のスプーンでつついてみた。
"おまえを愛している女性が他にもいるのだろうか?"
"おまえがわたしから離れていくこともあるのだろうか"
ヌガーは押すとふるふると震え、その弾力でスプーンを押し返そうとする。彼女は思いっきり、スプーンをそれに突き立てた。白いケーキ皿とスプーンがぶつかり合って甲高い音がした。
「そのスプーン、もらったんだが、なかなか気に入っているんだ。いいだろう?」
アンドレは彼女のそんな素振りにも気づかないふりをして、別の話題を切り出した。
オスカルはそう言われて、まじまじと手に持ったスプーンを眺める。朱塗りのスプーンは上質な漆器だった。なだらかなラインが美しく、かつ手になじむ。
「漆器……。日本のものか?むかし仕事で京都に言ったときに、わたしもこんなのを土産に買ったことがある」
思い出しながら、今日はよくよく日本に縁がある日だなと彼女は思った。
「そう。その京都にある漆器工芸協同組合から、記念品として贈られたんだ」
「記念品?なんのだ?」
アンドレは黙って席をたつと、書庫にしている部屋に入っていったが、すぐに一冊の本を手にして戻ってくると、彼女に差し出した。
受け取ったハードカバーの本の表紙と背表紙を見てから、オスカルは中味をぱらぱらとめくった。そこに書かれている文字は見たことがあるが、縦書きの文章の意味は彼女にはわからない。
「これは、日本語?」
なぜこれを彼が持って来たのか、まだ合点がいかなくて、さらに中味を調べてみる。
裏表紙と遊び紙の間に、カバーの上にかけられていたと思われる帯がたたんで挟まれていた。そこには彼の写真が印刷されており、その下にAndre Grandier と記されている。
「おまえの本か!」
アンドレが気恥ずかしそうに、そうだと答えて、去年の今頃出版した本を覚えているかと彼女に聞いた。
オスカルは一年前の記憶を辿る。出会ってからいろいろあった後に、ちょうど二人が付き合い始めた頃だ。確か、再会のきっかけになった『追憶』以来、初の恋愛小説を上梓したはずだと思い出す。二人が出会う以前から、何年もかけて取材を重ねて書きためていたのだが、ラストシーンを決めあぐねてお蔵入りになっていた作品だった。
物語の舞台は日本だった。第2次世界大戦前の京都。江戸時代からつづく老舗の一人娘とフランス人宣教師が恋に落ちる。しかしカトリックの神父は結婚が許されていない上、娘は傾きかけた店を守るために、他の男と結婚することになる。程なく戦争が始まると神父はフランスに戻り、その後もアジアやアフリカで布教活動をつづけ、娘の方も戦争で夫や子供を失いながらも懸命に店を切り盛りし再興させる。神父は戦後50年たってから日本にふたたび赴く機会があり、二人は再会を果たすという、そんなストーリーだった。
ようやく相手の男は死ななくなったが、やはり『追憶』と同じ悲恋物語だなと思ったのをオスカルは覚えていた。
確か娘の生家で商っていたのが漆器だ。
「あれ、わりと評判がよくて、日本でも出版することになったんだ」
それを聞いて、オスカルがわずかに唇をとがらせる。
「海外で出版なんて、そんな話、聞いていなかった」
アンドレが謝る。
「去年の年末に発売だったから、言おう言おうと思っていたんだけど、なかなか会えないし、不思議な事件は起こるしで言いそびれたんだ。すまない」
海外で出版されるなど名誉なことだから、メールや電話でなく、顔をみて報告したかったと彼は説明した。
「日本での処女作の評判はどうだ?上々か?」
オスカルが尋ねると、アンドレの顔が心なし曇った。まずいことを聞いてしまったと彼女が思ったとき、
「売れ行きはいいよ。フランスでの部数以上だ」
言葉とは裏腹に、アンドレはなぜか浮かない顔をしている。
「それならば喜ぶべきことではないか」
問いただすと、売れている理由がねとアンドレは、帯に印刷されている写真を指した。








いい写真だった。写真はアンドレのバストアップで、白いシャツと彼の笑顔がまぶしい。背景はCG加工だろうか。ただ、少しだけシャツがはだけすぎていると、オスカルにはその点だけ引っかかったのだが。
「これが何?」
顔を上げてアンドレを見ると、彼の表情はやはり暗い。
「どうやら、この写真のせいで売れているらしんだ……」
この作品に目をつけた日本の出版社が、舞台が日本であることもあって、アンドレのエージェントに自国での翻訳出版をもちかけた。ただし知名度がゼロの彼が売れるためには、何か印象付ける材料が必要だと主張したその会社が、彼の甘いマスクは武器になるかもしれないと、写真入りでの出版を提案した。あまりメディアに顔を出すのを好まないアンドレだったが、せっかくのチャンスなので条件を飲むことにしたのだった。
その編集者が有能であることはすぐに証明された。出版社の目論みは、予想以上に功を奏したのだ。
女性を中心にして売上は右肩上がりに伸びつづけている。口コミやネットで評判が広がり、ファンサイトができたりして、作中に出てくる店や教会のモデルになった場所はちょっとした観光スポットになっているほどだ。
それで漆器のPRに貢献があったとして、漆器工芸協同組合から、漆器の小箱やカトラリー一式が送られて来たらしい。
「好評なのは、よかったではないか」
オスカルは素直に喜べと励ましたが、やはりアンドレは複雑なようだ。
「まあ、わからなくもないが」
オスカルは席を立つと、向かい側に座っている彼の後ろに回った。首に両腕を回して背中に抱きつく。いつも控えめで滅多に感情的になったりしないアンドレが、少しすねたような顔をしているのがひどく子供っぽく見える。
こんな面は初めて見た。少し丸めた背中が愛おしい。
「実はな、今の会社に採用が決まったのは、わたしが女性だからという理由だったのだよ。女性パイロットはまだ珍しいから、客にうけると思ったらしい。全く失礼な話だと思わないか?」
アンドレが彼女の手に自分の手を添えた。
「だがな、アンドレ、今では会社も客も、わたしの実力を認めざるをえなくなっている。命を預かる責任の前には、男も女も関係ないから」
誇らしげにオスカルは言った。
「アンドレ、容姿なんてきっかけに過ぎない。写真で手に取ってもらえたのは事実としても、話がおもしろくなければ買ったりしないだろうし、作中の場所を訪ねてみたいと思うのは、物語に心打たれたからだとわたしは思う」
オスカルはそっと母親が小さな子供にするように、彼の後頭部にくちづけた。
「……だって、わたしがファンになったのと同じように、読めばきっとおまえの本質に触れるから」
そのまま頬をそっと押し当てる。彼の巻き毛が顔に当たって少しくすぐったい。
アンドレはゆっくりと彼女の腕をほどくと、椅子を回り込ませるようにしてオスカルを引き寄せた。椅子に横座りになった自分の膝の上に座らせると、今度は自分が後ろから彼女を抱いた。オスカルは子供の頃、父親の膝の上で感じた感覚に少し似ていると思った。こうして抱きしめられると安心する。アンドレは彼女の体に腕を回してしっかりと抱きしめた。
「オスカル……」
さらに体を引き寄せようとして、彼が片手を腰の方に伸ばしたとき、彼女の太股の辺りでカサリと音がした。




(つづく)





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