地上では、小柄な老女と、黒髪と金髪の子供が夜空を見上げていた。"月には誰が住んでいるの?"金髪の方が尋ねると、"あそこには男が一人住んでおりましてね。ほら休んでいるのが見えるでしょう?"と老女は月の面を指差した。 そう言われると、確かに、月には男の顔が描かれているように見えて来た。 "何か困ったことがあったら、月に住むおじさんに伝えれば、眠っている間に解決してくれるんですよ" ふたりの子供は顔を見合わせて耳打ちし、手をつなぐと、揃って同じことを月に願った。 老女が何を願ったか尋ねても、”ぼくたちだけの秘密だよ”ふたりはくすくす笑うばかりで、決して教えようとはしなかった。 そんなおとぎ話を聞いたことさえ、今は昔。 |
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ミーティングルームで、今回のフライト・クルーが席を立つ音を聞きながら、機長を務めたオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェは満足そうに小さく息を吐いた。 今日の仕事も無事終わった。フライトに臨むときに感じる身のひきしまる思いと共に、それが終了し、緊張感から解放されるこの瞬間が、彼女はとても好きだった。 飛行機を滑走路に停止させるまでがフライトではない。他の機の飛行プランに役立つ情報があれば、ディスパッチャーに報告を行うなど、事後の業務がまだ残っている。また、他の機長は行っていなかったが、彼女は必ずクルー達と軽くミーティングを行ってから解散させることにしていた。より快適で安全なフライトを実現するためには、密なコミュニケーションが重要だと思っているからだ。それが確実に次の仕事をよくする。反省会になる場合もあったが、たいていは、雑談とねぎらいの言葉に終始した。 今日も幸いなことにそうなった。クライアントは日系のIT企業のCEOで、フランス法人を立ち上げるための宣伝と根回しのためのツアーだったらしい。アクシデントもなく、ホストもゲストも共に満足そうな顔で、到着ロビーに下りたって行った。 ほっと一息ついたところで、彼女は誕生日にアンドレからもらった懐中時計を取り出した。パチンと蓋を開けると、時計の針は午後3時25分を差していた。今日2月14日は、確か連載小説とエッセイの締め切りが重なったと言っていた。今頃は編集者に原稿を引き渡し、彼も臨戦体勢を解いてのんびりしているかもしれない。 「あの、ジャルジェ機長」 着席したまま手の平の中の時計を眺めていたオスカルに、おずおずと声をかけたのは、今回のフライトに通訳として参加していた日本人女性だった。 オスカルの勤務する航空会社は、フランスやヨーロッパのみならず、世界中から依頼が舞いこむため、各国語の通訳・翻訳を専門とする部署がある。今日のクライアントから優秀な通訳を紹介してほしいとの要望があり、彼女がそこから選ばれたのだった。 「なにか?」 オスカルがにこやかに答えると、彼女の頬にさっと朱が差した。後手にもっていた包みを差し出して、もらって下さいと頭を下げる。なんだろうとオスカルが訝しがっていると、彼女はチョコレートですと言って、日本では2月14日の聖ヴァレンタイン・デーに、好きな男性やお世話になった人にチョコレートをあげる習慣があるのだと、わけを説明してくれた。 オスカルがありがとうと言って受け取ると、彼女はうれしそうに退室して行った。年令は30才を越えているというが、東洋人の顔立ちと小柄で愛嬌のある仕草のためか、10歳は若く見える。 「機長ももらったんですか?」 背後から声をかけて来たのは、最後まで部屋に残っていたアランだった。今日は副操縦士を務めてくれた。腕前や判断力は、一緒に仕事をする度、直実に進歩しているのが感じられ、訓練中に比べて格段に頼もしくなった。あと数年もすれば、機長として立派に独り立ちしてくれるだろうとオスカルは内心楽しみにしている。 その手にも同じショコラティエの包みが乗っていた。青い包装紙には店の名前が金色の箔で押してあり、同じ金色のリボンがかかっていた。去年開店したばかりの店だが、伝統の味に新しい工法を大胆に取り入れ、これまでと違った色や形、口どけを実現させて、あっという間にパリでも一、ニを争う人気店になったところだ。 「おれは甘いもの苦手ですけど、この店って行列ができてていつも買えないって、妹の奴が嘆いていたんですよね」 どうやら妹への土産にするつもりらしい。手にいれにくいという超人気の品を軽く投げ上げて同じ手でキャッチした。 アランの骨ばった大きな手に余るほどの包みを見て、オスカルはさきほどの彼女の説明を思い出す。同じ店のものではあったが、あきらかにアランにあげたものの方が大きく、より高級感がある。 「このチョコレートにはふたつの意味があるそうだ。好きな男性へ気持ちを伝えるのと、世話になっている人への礼。私のは単なる礼かもしれんが、おまえのは彼女からの好意の印かもしれないぞ。よかったではないか」 「な……っ、悪いけど全然好みじゃありませんから」 冷やかされたアランは慌てて否定した。オスカルはさも楽しげに、そんな姿を見つめている。 「年上はいやか?」 20代半ばの彼より、彼女の方が年上だ。世間の風潮は、むかしより年令にとらわれなくなってきていると思うが、やはり男性は自分よりも若い女性に目がいく傾向にあるような気がする。 叱られて言い訳をする子供のように、上目遣いでわずかに唇をとがらせてアランは答えた。 「別に年上でも構いませんけど」 オスカルの反応をこっそりと伺う。彼女はいつも反抗的なアランが押され気味なのをおもしろがって、さらに問いつめてきた。 「では、どんなのが好みなんだ?」 テーブルに肘をつき、形よくとがったあごをそこに乗せ、オスカルはいたずらっぽい表情を青い目に浮かべて彼を見上げる。もし自分に弟がいたら、こんな感じかもしれないと思う。 アランはしばらく絶句したまま身動きが取れずにいた。やっと口を開く。 「あ、あなたに言う必要はないでしょう!」 これ以上はからかい過ぎかもしれないと判断したオスカルは、そうだなとようやく引き下がり、今日はゆっくり休め、ご苦労だったと肩を軽くたたいて部屋を後にした。 ひとり残されたアランは、彼女の黄金の髪が戸口に消えるまで、濃紺の制服の背中を見送っていた。 パイロットとしての訓練中は、なんて高飛車で嫌な女だろうと思った。自分自身を、わりとさばさばした性格だと思っていたのだが、憎しみに近い気持ちまで抱いて、彼女のことが一日中、頭から離れないことさえあった。だが、オスカルと組んで胴体着陸の難局を乗り切ったとき、初めてその本質に触れて見方が変わった。 ――いや、今思うとそれ以前から、どこかで否定しながらも強く彼女に惹かれていたようにも思う。 このミーティングだってそうだ。初めは、さっさと帰りたいと不満を感じた。だが、緊張した気持ちを徐々にクールダウンさせながら、チームを組んだ仲間と共有した時間を振りかえるというのは、一種の達成感を感じるものらしく、次第にミーティングに向かうのが自然なことのように思えていった。加えて、美しくてカリスマ性も備えた彼女に誉められるというのは、決して悪い気はしなかった。 彼女は仕事ができて、容姿は非の打ち所がなく、よく知らないうちはただの取り澄ました美人のように見えるが、親しくなってよく見てみると、情が深くて、意外に激情家だというのがわかってくる。それにときどき可愛らしいと感じるほどの隙を見せたりする。知れば知るほど違う面が見えていった。 肩を叩かれたときに薫った彼女の髪のかおりを思い出す。白くしなやかな指が自分の頬をわずかにかすめた。 "どんなのが好みなんだ?" 「そんなこと……、何であんたに」 本人を目の前にして、言えるわけがなかった。 自分のアパルトマンに戻ったオスカルは、荷物を置き、いつものようにゆっくりとバスタブに浸かって疲れを癒したあと、柔らかな皮のカウチに身を沈めていた。 サイドテーブルの上に置いてあった懐中時計の蓋をふたたび開ける。時刻は午後6時3分。 年末に無理を言って仕事を調整したせいか、年明けから立てつづけにフライトが入り、体はくたくたに疲れきっていた。これから5区にあるアンドレのアパルトマンまで行くのは少々おっくうで、今夜はこのまま眠ってしまおうと思っていたが、寝つけない。 連絡を取ろうかと迷う。だが彼だって今日が締め切りの仕事があったのだ。たまには一人でゆっくりしたいだろうと思う。 サイドテーブルの上で、携帯電話がぶーんと鈍い音を立てて震えた。マナーモードにしたままだった。メールが一件。 "戻ってる?" 短いテキストだった。 "戻った" オスカルも一言だけ返信した。 しばらく待ったが返信は来ない。折り畳んである携帯電話を開いて、しばらく液晶とにらめっこした。液晶の輝度が下がる。親指が自然とキーの上を走って跳ねた。 "そっちに行ってもいいか?" 自分から言っては負けのような気もしたが、ためらいながらも送信を押した。すぐに返事があった。 "来てほしい" その極短い一文を見るやいなや、携帯を閉じてバッグに放りこみ、急いで身支度を整えた。 部屋を出るまでに、たぶん10分とかからなかった。さっきの倦怠感が嘘のように体がきびきびと動いた。我ながら現金だなと、おかしくなる。 タクシーを拾うために表通りまで走る彼女の背中を、中途半端に欠けた月が照らす。彼女の影は前方に向かって長く黒く伸びていた。 アンドレのアパルトマンに着くと、部屋の中からいい匂いがしていた。彼はオスカルを迎え入れると、一時中断していた料理を再開すべく、キッチンに戻って行った。フライパンの上でじゅっと音を立てて、何かが焼けている音が聞こえてくる。疲れすぎて今夜は食欲がなかったのだが、この部屋に入った途端に空腹を感じた。 ダイニングテーブルの上にはボウルに盛られたサラダと、二人分のカトラリーが既に並べられている。 「アンドレ」 声をかけると、彼はオーブンの火加減をみながら、もうすぐ出来あがるから少し待っててと言った。かわいらしいチェック柄のミトンをしている手が、彼の広い背中とミスマッチで妙におかしい。 オスカルはコートを脱ぐと、言われたとおり彼の料理が完成するまで、大人しく待っていることにした。 ふとリビングのテーブルの上にある、小さめの段ボール箱が目に止まる。箱の上にはマジックで、アンドレが本を出している出版社の名前が走り書きされていた。箱の蓋には、貼ってあったガムテープをはがした跡があり、わずかに開いてる。何気なく手を伸ばしてのぞき込んでみると、かぎ慣れた甘い香りがたちのぼって来た。 (つづく) |
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イメージイラストは、Pepiementのセピア様よりいただきました! マニッシュな装いの中に、色気があるイラストに一目ぼれしてお願いしました。 転載をお許しいただき、セピアさん、ありがとうございました。 |
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