A Midsummer Night's Dream〜夢の国狂想曲@〜 



今回の原稿は、なかなかの曲者で……。
アンドレ・グランディエは、大きなため息を一つついた。
テーマを決めて構想を練っていた時点では、すらすらと文章が出て来そうだったのに。恐ろしく素晴らしい名文が書けそうだとまで錯覚したのに。
資料を集め、いざ原稿用紙に向かってみると、全く、そうではなかった。
お気に入りの万年筆は、紙の上を一向に走ってくれない。
ペンを手にしつつ、こんな時は、埒もない空想に耽ってしまう。


もし、もしもの想定話で、ほとんどあり得ないのだが、雑誌のインタビューか何かで、“オスカルのどこが好きなのか”という質問があったとしたら――。
一言ではとても無理だ。どれだけの言葉を積み重ねたら、その問いに答えられるのだろうか。
きっと、音声起こしの担当者は、あまりの長さにうんざりすることになるだろうし、編集者は、掲載予定ページ数のほとんどが、その質問の解答で埋まってしまうので、Q&Aから除外する決断を下さなければならなくなるかもしれない。
どうにか短くしようと要約した文章がゲラに載っていたとしたら、おれは欄外に書ききれないくらいの加筆をして送り返すことになるだろう。短くなんてさせやしない。
インタビューの仕事も引き受けて来たし、作家として仕事をして来た以上、本に物理的な字数の限界があることは充分に理解しているつもりだが、彼女の魅力を語った部分を削るなんて、そんなことは、自分には到底許せる気がしない。
そもそも、その質問をたった数ページのインタビュー記事で語らせようというところからが間違いだ。

たとえば、その質問に対する回答の一つとして、「彼女の美しさ」を挙げたとしたら、次に、彼女がどんな風に、どれほど美しいのかを読者に分からせなくてはならない。それだけでも実に長くなるだろう。
――二人で常夏の南の島にいたことがあった。アクアブルーに夕陽のオレンジが溶けて映える時刻。水平線の向こうへと沈みゆく太陽を背にした彼女は、息を飲むほどだった。南国らしい極彩色のワンピースとコントラストをなす白磁の肌に、けむるような黄金の髪がかかり、彼女の輪郭をオレンジの光が縁どる。逆光でも、彼女の通った鼻筋やふっくらとしつつ形のよい唇は、はっきりと分かり、陰影が妖艶さを纏わせて、目が離せなくなる。
やがて、藍色の帳が下りて、満天の星々が瞬き始める頃には、夜の色をした絹糸のような睫毛に縁どられた瞳に浮かぶ蒼い星座に、引き込まれてしまいそうになる。身を寄せて来る彼女の凛として閉ざされた唇から、かぐわしい吐息が時折もれては、自分の心をかき乱し、涼やかな声で名前を呼ばれると……。ああ、これ以上はよしておこう。
――この先は、おれだけの秘密だ。
その他にも、彼女の魅力として挙げたいことは、山ほどある。優美な仕草も、高い教養も、何年たってもおれの想像を超えた行動で驚かしてくれるところも、自分にだけは遠慮なく、わがままをぶつけてくるところも、冷静さの壁の向こうに熱情の炎がちらちらと垣間見えて、火傷覚悟でその熱を確かめてみたくなるところも……。
そんな彼女の全てを、この上なく愛している。
しかし、おれの知っている語彙と全描写力を注いでも、彼女の魅力を語りきることはできないのではないかと思う。作家のはしくれとして、こんなことを言うのは、敗北宣言も同様なのだが。
それでも、何とか持ちうる力の全てを注ぎ、全身全霊で彼女を讃える詩を書いたなら。現代ではまったく流行らず、売れはしないだろうが、中世の詩人よろしく、本一冊分は必要だ。
たとえば、書き出しはこんな風に詠めるだろうか。
――おれがどれほど力不足でも、彼女が許してくれるのならば、彼女の助けを借りながら、かろうじて浮かんでいる危うい小舟で、彼女の大海に乗り出して、その深海に沈む宝を見つけよう。その宝は、たやすく見つけられず、命がけでなければたどり着けないにも関わらず、取り憑かれた者のように、求めずにはいられない、彼女を知ってしまったら――。
そんな長い長い詩文を、「ベリー公の時祷書」のような豪華な装丁で飾って、彼女だけに捧げる。
だが、そんな思いのたけを綴った本を捧げても、つれない彼女は表紙を見て鼻で嗤い、最初の一行を一瞥しただけで、「もう少しましなことに時間を使え」と冷たく言い放つのだろう。
悲しい哉というべきか、そのことに安堵するべきか、それほどの賞賛に値する存在であることを、彼女自身は全く理解していない……。


ふと我に返ると、知らず知らずのうちに手に力が入っていて、紙に押し当てられていたペン先からインクが漏れ出て、原稿用紙に大きな黒い染みを作っていた。一文字も書けないうちに、染みだけが黒々と付着した紙に向けて、軽く悪態をつき、くしゃくしゃと丸め、ゴミ箱に向かって放り投げる。紙玉は反抗的にゴミ箱の縁に当たって跳ね返り、床の上にポトリと落ちた。再びため息をついてから、彼はそれを拾い上げると、今度はゴミ箱の真上から慎重に落とす。悪いのは紙でも万年筆でもなく、他ならぬ自分だ。彼は愛用の椅子に座り直すと、頭を抱えながらも再び原稿に立ち向かった。締め切りまで、もうあまり時間がなかった。


そんな悪戦苦闘の末、どうにかこうにか満足のいく原稿を書き上げた後の、6月半ばのよく晴れた日。
ヨーロッパでは、一年で最も美しい季節だ。太陽自身も夏を謳歌しているのではないかと思うくらいに輝く。地上には燦々と陽光が降り注ぎ、風景の何もかもが色鮮やかになる。鳥は朝から夕刻まで高らかに生命の詩を謳い、花は美しく着飾った個性の強い登場人物みたいに、それぞれの咲き方で自己主張する。気温が高い分、風が吹けば心地よく、快晴の日には全てに文句のつけようがない。
しかし、その日のオスカルは、外へと誘う上々の天気とは裏腹に、アンドレの部屋に来たときから少し浮かない表情だった。
行って来たばかりの国の話をしつつ、どこかいつもの歯切れのよさがない。本当は他の話がしたいのに、言い出せない、そんな感じだとアンドレは思った。彼女は冷たいミントティーの入ったグラスをストローで必要以上に掻きまわしては、居心地悪そうに何度も椅子に座り直している。ガラスの表面についた水滴がコースターまで滑り落ちて、透明な滲みを作った。氷が解けて、かすかに音を立てる。
ダイニングキッチンの開け放した窓から吹き込む風で、レースのカーテンが大きく翻っては元の位置に戻るのを繰り返していた。今日は少し風が強い。アンドレは、ほぼ全開だった窓を半分ほど閉めて、彼女を振り返った。
「なんだ、何か……悩み事でもあるのか?」
図星をついたのか、少し落ち着きなくストローを弄んでいた指が止まる。何か言おうとして、一度口をつぐむ。それから、おもむろに口を開いた。
「悩み事というほどのことでもないのだが。わたしも少し混乱していて。迷っている。そうするべきだと思うが、そうするべきなのか。よく考えれば、リスクもあるし」
いつになく、彼女は奥歯に物がはさまったような言い方をする。
おれで役に立てるのならば聞くけれどとアンドレが水を向けると、オスカルは決心したのか一度、きゅっと口を引き結ぶと言った。
「確かにお前の助けがいるのだ」
その声音は、もういつもの彼女だった。気持ちを切り替えた後の彼女は、前の気分を引きずらない。自分を素直に頼ってくれるのを嬉しく思いつつも、何だろう、珍しくあらたまって自分に頼みとはとアンドレは思い、背筋を伸ばした。まっすぐに彼の目を見据えて彼女が言った。
「一緒に、ディズニーランド・パリに行ってほしいのだ」
「は?」
口に出すのをためらうほどの用件でもなかったので、完全に拍子抜けしたアンドレは、鳩が豆鉄砲を食らったようなマヌケな顔をしているだろうと自覚しつつ、尋ねた。声がわずかに上ずる。
「おまえとおれと?」
グラスに目を落としながら、彼女がストローを引き抜くと、先端から半透明の雫がぽとりと落ちて、グラスに帰った。その先端をアンドレに向ける。
「いや、おまえはわたしの姪っ子と。そして、わたしはルイ・ジョゼフと――」
「…………え?」

――やはり彼女は、おれの想像をはるかに超えてくれる。



(つづく)



>> part2