「私が代わりを務めてやる!ノーギャラだし、文句はなかろう。アンドレ、異存はないな?それから、あなたも。ムッシュウ・グリマーニ」
ついに言ってしまったとオスカルは思った。言ったそばから後悔はした。
彼女の怒声が、撮影用に貸しだされている、とあるアパルトマンの一室に響くと、集っていた数人のスタッフが驚いて声の主を見つめた。手配ミスで来るはずだったモデルが来ないことが分かり、代役を立てるため電話をかけようとしていたアシスタントの手が止まる。
彼女の隣に立っていたアンドレも目を丸くしている。
ただ一人、オスカルが睨みつけている相手だけは、してやったりという顔で笑っていた。男の策略にまんまと嵌るのは癪に障ったが、それ以上に、アンドレが目の前で、自分以外の女性とラブシーンもどきを演じることの方が何十倍も苦痛だし、もし、自分がアンドレの役に立てるのならば、その男に対する意地を捨てることなど、そう大したものでもなかった。
アンドレの心配そうな声が、どこか遠くで聞こえたような気がした。彼の手には、ターンクリップで留められたA4サイズの紙束があった。そこには、クロッキーのような荒削りの線で、主に二人の人物が描かれていた。鉛筆で描かれた数十枚のイラストのコピー。撮影用の絵コンテだ。その中には、男と女が見つめ合い、時には互いの体に腕を回して顔を近づけている場面が描かれていた。人物の背景や走り書きのト書きから、その場所がバルコニーであったり、窓辺であったり、ソファだったり、ベッドの上だったりするのが分かった。ト書きには他に、ライティングや主な小道具も書いてあった上、二人の人物の動きまで大まかに指定してある部分があり、そこには彼女を十分に不快にするだけの言葉が並んでいた。
バルコニーのシーンでは、“――グランディエ氏、女の腰に手を回し、口づける”。そして、ベッドの上では、“――女、グランディエ氏に覆いかぶさる”。
もちろん、ふりをするだけだろうことは分かっていたが。
「それは、ありがたい。もちろん、こちらには文句などあろうはずがありません。オスカル・フランソワ」
フォトグラファーは不敵に笑った。
昨日、見たのと同じ笑顔だと彼女は思った。目の前のこの男が、「近いうちに、また」と気障にウィンクして見せ、空港ターミナルへ向かう専用車に乗り込んだあの時と。
そうなのだ、あの時、少しおかしいとは感じたのだ。あれほどしつこかった、この男が、一言もそのことには触れなかったから。
だが、「近いうちに」が翌日にやって来ようとは、その時のオスカルには想像もつかなかった。



その日の前日は快晴で、フライトはトラブルもなく順調すぎるくらいに順調だった。
ほぼ無風のシャルル・ド・ゴール空港に着陸すると、イタリア製の高級スーツを着こなした男は、ゆったりとシートから立ち上がった。いつものように、両手に“花”を抱えて陽気にタラップへと向かう。60を越えているはずだが、50歳そこそこにしか見えない。まだまだ枯れるということを知らないかのようにエネルギーに満ち、若かりし頃はモデルをしていたという容姿からいっても、その存在は大半の女性にとって魅力的に映るだろうと思われた。彼は、たびたび機長にオスカルを指名して来る常連客だった。
乗務員が見送りに並んでいる搭乗ハッチ付近には、オスカルも立っていた。同乗していた美女達の腰に腕を回した彼が近づいてくるにつれ、彼女の表情は次第に硬くなる。悪い人間ではないが、搭乗の度、判を押したように同じことで彼女を口説いてくる。そのために、ジェットをチャーターしてるのではないかと思うほどに。
しかし、彼はいつものようにオスカルにしつこく絡んで来ることはなかった。身構えていたオスカルは肩すかしを食らい、いささか拍子抜けの感はあったものの、安堵の表情が思わず顔に浮かぶ。上客である彼の機嫌を損ねることなく、断るにはどうすればいいかと、毎回頭を悩ませていたからだ。

「あなたを撮らせてほしい、ぜひ」

何度、そう言われては断ったことだろう。いくら自分はモデルではなく、パイロットだからと固辞しても、彼はあきらめなかった。
ジャコモ・グリマーニ・”イル・ダメリーノ”。
“伊達男、洒落者”の異名をもつ彼は、イタリア人の父とフランス人の母をもち、ニューヨークで育った。イタリア語に英語、フランス語など数か国語を流暢に話す彼は、ニューヨークでアートを学び、パドヴァ大学で心理学の学位を取得した後、主にファッション・フォトグラファーとして世界を股にかけて活躍し、現在はフランスに拠点を構えて、手がけたアート作品の個展を開いたり、映像作品をネット上で発表するなどして、その活動の場を広げている。
ベッドを共にした女は1000人を下らないと豪語する彼にとって、彼女を説得するのは、女性に言い寄り、陥落させるのと同じことだったのかもしれない。彼の目を引く容姿に加え、その経歴は、野心的な人間ほど惹きつけられる輝きを放っていたから、ハリウッド女優でもトップモデルでも、彼の言いなりにならない女はほとんど皆無に違いなかった。その分、なびかない女には執着心を募らせるのが、その手のタイプの男だ。オスカルは、そんなレア・ケースの一人だった。
しかし、その日は、今度、オスカルの会社に導入されることになった最新型の機体のことや、そのための訓練を、近日中に受けなければならないことなどの世間話に終始した。
なごやかに談笑しながら、彼女の意志が固いことをようやく理解してくれたのだろうと、その時は愚かにも、そう思ったのだった。

全ての引き継ぎとクルーとのミーティングを済ませると、彼女はその足でアンドレのアパルトマンへと向かった。乗務の緊張感から徐々に解放されながら、タクシー乗り場に向かう彼女の頬を、やっと訪れた初夏の風が撫でた。数日前に飛び立った時より日差しは確実に強くなっている。手をかざしながら明るい光に満ちた空を見上げて、目を細める。
次のフライトまで、しばらく間があったが、先ほど話に出たように、3日後から新機種導入に伴う1週間の訓練を受ける予定になっている。シミュレーターを用い、新たな機体の感覚を体で覚えた後、運航中に想定されうる、あらゆるトラブルや緊急事態に対して、マニュアルに従いつつ的確な状況判断で処理する訓練も行われる。かなり神経を使うハードな内容だ。その間は恋人にさえ会いに行く余裕はないだろう。二人でゆっくり出来る時間は限られていた。
彼の元へと走るタクシーの車窓から街が後方へと流れていくのを見つめながら、最近では、この街にいる間の半分を彼の住まいで過ごしていることに気づき、何だか可笑しくなる。
寸暇を惜しんで誰かと過ごそうとするなんて、彼に出会う前の自分には考えられなかった。

アンドレのアパルトマンにたどり着くと、待ちかねて窓の外を窺っていたのか、ノックをする前にドアが開いた。彼は彼女を部屋に迎え入れるやいなや、当たり前のように抱擁し、それから口づけを落とした。彼女の方も驚くことも抵抗することもなく、それを受け入れる。それからやっと言葉を交わした。
「今回のフライトは、どうだった?」
「ああ、とても順調だった。とても」

いつものように、リビングに向かったオスカルは、テーブルの上に置かれた小箱に気がついた。オパール・グリーンの地にバラの小花があしらわれ、金の縁取りのあるその箱の真ん中には、少女が蝶と戯れるイラストが描かれている。それが何の箱であるか察した彼女は、わずかに眉をひそめた。
リボンは外されているが、それはプレゼント用のチョコレートのボックスだった。
「それ、最後の一箱だよ、ようやくね」
彼女の視線の先にあるものを見て、アンドレが言った。それは、2月のセント・バレンタインズ・デーに彼に送られてきた、段ボールいっぱいのチョコレートの中の一つだった。聖ウァレンティヌスが殉教したといわれるその日に、日本では、女性から好きな男性にチョコレートを贈る習慣があるのだと、その時、知った。
かの司祭は、時のローマ皇帝が兵士の結婚を禁じたにも関わらず、秘密裏に恋人たちを結婚させたために捕らえられ、処刑されたといわれている。
小さめの段ボールだったとはいえ、そのチョコレートの量は、一人で食べるには多すぎた。だからといって、そのままずっと置いておくのも憚られる。食べられるために作られたものたちだ。それに送り主の気持ちもこもっている。彼は「申し訳ないけど」と言いながら、どの箱からも必ず一つか二つつまむと、残りは近所の子供たちが遊びに来た時にふるまったりしながら、少しずつ消費していった。いっそ封を切らずに箱ごと誰かにあげてしまえば一気にすっきりするのだろうが、そうしないところが律儀だと思う。人の想いを大切にするところは、彼らしいといえば、彼らしい。
彼女がソファに腰を下ろす。彼は隣に腰かけ、俯き加減で膝の上で手を組んだ。アンドレが少し困ったことがある時にする仕草だと思っていると、案の定、「実は……」と重たげに口を開いた。どうやら、そのこともあって、彼女が来るのを待ち受けていたようだ。
「何だ?」
言いにくそうな彼に、先を催促する。
「明日なんだけど、用事が出来て――…」
咄嗟に、“なぜ?”と反発の気持ちが湧く。自分は自分の部屋にも戻らずに、こうして駆け付けたというのに。
彼女の気持ちを感じ取ってか、アンドレはすまなそうに長身を縮めてから、肩をすくめた。テーブルの上の例の小箱を指さして言う。
「それにも関係があることなんだけど……。今度、日本で、別の作品が翻訳・出版されることになって、そのプロモーション用に撮影があるんだ」
“日本での出版、写真、チョコレート、彼のファン……”。オスカルの頭の中で、数か月前の出来事が再生される。日本版の単行本の帯に印刷された彼の肖像写真は、本を手に取らせるのに大いに役に立った。
前回の成功に気をよくした出版社は、自社で発行している雑誌のグラビア・ページで彼の特集を組むことにした。今回は有名フォトグラファーも起用して、かなり力のこもった展開だ。そのフォトグラファーのスケジュール変更で、撮影が急遽明日になったと知らせがあったのが、つい先ほど、オスカルから空港を出ると連絡が来た後だった。エージェントはアンドレの都合よりも、世界的に名をはせるフォトグラファーの都合を優先させた。
「この作品は、ぜひ成功させたいんだ。今度の作品は――」と、彼に真顔で言われると、常日頃、彼女の仕事を最大限に優先させてくれる手前、オスカルの方も彼の仕事に理解を示さないわけにはいかなかった。それに、翻訳・出版予定の本のタイトルを聞いてしまっては、不満をくすぶらせるのはやめて、快く送り出さなくてはと思った。
タイトルを口にした彼の声は、いつもより静かなのに、深く響いた。
「――『追憶』」
二人が出会うきっかけとなった本だから。
オスカルはため息をついた。
「わたしも散々、仕事優先で来ているからな、たまには」
そう言って許した彼女を彼は抱きしめた。
彼の抱擁が好きだ。
腕の中で、スタジオに見学に行っても構わないようだと告げられて、予定通りにいかなくても、趣向が変わった、そんな一日も悪くないかもしれないと、彼女は彼のシャツに顔を埋めた。



(つづく)





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