人生の真実は、美味で、恐ろしく、魅力的で、奇怪、甘くて、苦い。
そしてそれがすべてである。
--アナトール・フランス

むかし、ある友人がこんなことを言っていた。
真冬の別荘の暖炉の前で、愛する人と肌を寄せ合っている時間が、自分にとって最高に幸せな時間だと。
一緒にいた友人たちは、同意する者もいれば、異を唱える者もあり、普段から口の悪いのが囃し立てると、軽い言い合いになって。もちろんそれは、気の置けない友人同士のじゃれ合いみたいなものだったが。
自分はといえば、その頃は決まった相手がいなかったから、「そういうものか」と淡々と思っただけだったが、今はその言葉を実感することができる。



今にも白い六花が舞い降りて来そうな曇天の下、パリ郊外にある瀟洒な館の暖炉の前で、二人は寄り添って座っていた。パリから程遠からぬ場所にあるそこを別荘と呼んでよいものか分からなかったが、あの時の友人が言おうとしていた状況に、きっと限りなく近いに違いない。
よく乾燥させた薪がはぜる音がし、炎がちろちろとオレンジ色の舌を出して揺らぐ度に、壁に映った二人の影が、自由自在に伸びたり縮んだりして、形を変えた。
前の住人の家具が運び出され、まだ一部しか揃っていないその室内は、二人がぴったりと身を寄せ合っているせいで、さらに広く感じられる。
その他の暖房は切ってしまい、二人で一枚の毛布にくるまって、暖炉からの熱だけで体を温める。それと、二人の体温があれば十分だ。冬の寒さなど気にならない。むしろ寒さのせいで、互いのぬくもりを感じられるのだから、感謝するべきかもしれない。これに、ワインの一杯でもあれば、さらによい。
二人は、2×3メートル四方ほどのラグの上にクッションをいくつか敷き並べて腰かけていた。アンドレの脇にはワインの瓶が一本。既にコルクは抜かれていて、暗緑色のガラスの中に閉じ込められていた紅い液体の一部は、二人の手にしているグラスに注がれていた。
キッチンと玄関ホールにある常夜灯の淡い光以外は照明もつけず、じっと目の前のあかあかとした光に目を凝らす。
電気が生み出す光は明るくて、世界をはっきりと映し出すが、炎が紡ぎだす光は、何もかもを照らすことができない代わりに、物の陰影を浮かび上がらせ、世界には闇と光が存在することを感じさせてくれる。焔(ほむら)の揺らぎに温かさと懐かしさを同時に感じるのは、人類がそれと付き合って来た時間が、ずいぶん長いせいだろうか。
オスカルが唇に運んだグラスに炎の揺らぎが映る。アルコールが喉を通過して、やがて体の隅々にまで行きわたる。それにつれて彼女の頬はほんの少しだけ染まり、瞳には妖しい輝きが宿り始める。紅い唇は灯影を映して濡れて光る。
木が焦げる臭いにワインの薫りがかすかに混じった。
アンドレは彼女の鼻梁や眼窩に落ちる、くっきりとした影を愛おしそうに眺めながら、額から理想的な形で輪郭を形作る稜線を目で追う。首筋までたどり着くと、日の下で見るのとはまた違った色をたたえるブロンドの髪が、暖色の毛布に包まれた肩先へとこぼれていた。
薪が、ひときわ大きな音を立ててはぜ、わずかに火の粉が舞った。それが合図であったかのように、彼女が口を開く。
「今年も残りわずかだな、アンドレ」
「ああ」
今日はニュー・イヤー・イブ。一年のこの最後の日も、残りわずかになっていた。マントルピースの上のアンティーク時計の歯車は新しい年を迎えに廻り続ける。
ポルトガルでのゆったりとした滞在を終え、二人は今朝、パリに戻って来たばかりだった。クリスマスからの1週間の休暇に加え、新年の1日目までは休みだったから、そのまま滞在を延長することも可能だったが、新しい年はパリで迎えたくてあえて戻って来た。旅は楽しかったが、パリに戻るとほっとする。オスカルはもちろんのこと、アンドレにとっても、故郷のグラースとはまた違った意味で、パリは既にふるさとだった。
ひとしきりポルトガルでの思い出を二人で語り合った後で、彼女がおもむろに天井や壁を見渡した。柱の上部のレリーフは影になっている部分が多くて、昼間とは違って見える。植物を模した浮彫のはずが、見えない部分を補おうとすると、寺院の尖塔に刻まれている想像上の生き物の顔にも見えて来て、少し不気味だ。
「この屋敷も、どういうわけか、お前のところにやって来て」
おかげで仕事が増えたよとアンドレがぼやく。だけど、おまえへの贈り物なのだからと彼女は微笑んで、それから、あのムッシュウが何か仕掛けや謎かけでも残していないといいけれどなと、声を立てて笑った。笑い声は、天井の高い広々とした部屋にわずかに反響した。アンドレは、よしてくれと頭を抱える。
まだ出会ってわずか数年なのに、ずいぶんと二人で様々なことを乗り越えて来た気がする。昨年、南仏を旅した時にはサスペンス映画並みの事件にも遭遇した。出会いからして転生や過去の記憶絡みだったのだから、この屋敷にも何かあるかもしれないなんていうのも、ありえなくはなくて怖い。
オスカルが口を閉じ、まじめな顔をして暖炉をまっすぐ見つめる。アンドレも同じものを見ようとして、彼女の視線の先を追う。暖炉の中でけぶる灰白色の煙の向こうに、今年の出来事が蘇った。
二人で訪れたこじんまりしたビストロで、思いがけず遭遇した絶品のソースの味、黄昏を迎える頃のセーヌの流れに輝く黄金色の乱反射、エッフェル塔の向こうに広がった晴天の抜けるような青。そして、この真冬のしんしんとした寒さと、互いの肌のぬくもり。全てがその時限りの時間と空間。
そうした穏やかな時間の一方で、今年も彼女が敬愛する社長一家のために一肌脱いだオスカルとは、大喧嘩をしてしまったりで、決して平穏無事に過ぎたとはいえない一年だった。過ぎてしまえば、それも人生のスパイスだと笑い流せるのだが。
アンドレの胸に、あの時、北欧の御曹司に抱いた嫉妬が蘇って、ちくりと痛んだ。彼女が自分を愛していると頭では分かっていても、焼けつくような痛みに感情のコントロールがきかなくなることがある。心の奥深い所に、前世の痛みの破片が突き刺さったままだからなのか。たぶん、これは自分にまといつく業病のようなものなのだろうと、アンドレは思った。彼女を愛しすぎている限り、治りそうにないし、残念ながら、きっと完治する日は永遠に来ない。
毛布の下で触れ合っている、彼のフランネルのシャツと彼女の薄いブラウスがこすれ合う。彼女が身じろぎして座る位置を直したからだ。手にしていたグラスがわずかに傾いて、飲みかけの液体に小さな波が生まれた。
「おまえは今年、ずいぶんと日本に縁があったよな」
彼女が小首をかしげて彼を見ると、アンドレも彼女の白い顔を見返す。彼女のやわらかな唇はわずかに突き出ていた。
「ああ、バレンタインの……」
彼の本が遠い東の国で翻訳・出版されて、かの国の習慣に従って、たくさんのチョコレートが彼の元に届けられた。
「うん。――それから、あれには、してやられた」
そのことを思い出して腹立たしくなったのか、彼女の口がへの字に歪んで、頬が少し膨らんだ。
アンドレはその顔を見て、拳を口に押し当てて、笑いをこらえたが、おかしそうに口角が上がるのを抑えられない。
「そう?おれは、なかなか楽しめたけどな……」
彼の手が、彼女の背中をなぞった。彼は思い出していた。あの時――。
「こら、やめ……っ!」
不意打ちを食らわされた彼女が、体をびくりと震わせる。
――ファインダーに捉えられながら、エレガントな薄紫のブラウスを着た彼女も、大きく背中が開いた黒いサマードレスを身に着けた彼女も、普段とはまた違った艶で彼を魅了していた。今でも、ありありと目に浮かんで来る。
同時に彼女の啖呵も。

”わたしが代わりを務めてやる!”

それは、あの日、確かに嫉妬から出た言葉だった。



(つづく)





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